ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2020.05.11

影響を受けたレコード③「バッド・カンパニー/バッド・カンパニー」

さて、3枚目のアルバムはコレです。

1974年6月リリース、「バッド・カンパニー/バッド・カンパニー」。

当時ワタシは中学3年生の1学期、サッカー部もあと少し

夏になったら高校受験の勉強をはじめなくては、という時期でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時ロックバンドの花形といえば

なんといってもリード・ギタリスト。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ディープ・パープルのリッチー・ブラックモア、

レッド・ツエッペリンのジミー・ペイジ、

もう解散していたけどクリームのエリック・クラプトン、

BBAのジェフ・ベックなどはギターキッズのあこがれでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、ワタシはロックバンドの魅力はパワフルなボーカルだ、

と思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リッチー・ブラックモアやジミー・ペイジとステージで渡り合う

イアン・ギランやロバート・プラントのボーカル、

その激しいシャウトにあこがれ、

これぞ、ロック、カッコイイ、と思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑誌「ミュージック・ライフ」は

「サッカーマガジン」とともにワタシの愛読誌で、

ロックの情報源として隅々まで読みたおしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その中で1974年、期待の新人、として取り上げられていたのが、

「クイーン」と「バッド・カンパニー」でした。

「クイーン」のデビューアルバム「戦慄の王女」は

本国イギリスでは1973年7月の発売でしたが、

日本では半年遅れの1974年3月25日発売。

当時こういうことは普通で、

エアロスミスなどは日本ではセカンド、サードのあとに

ファーストアルバムが発売になったと記憶しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いっぽうの「バッド・カンパニー」は

「戦慄の王女」から約3か月後の

1974年6月に発売になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じころにデビューしたブリティッシュ・ロックのバンドとして

この2バンドはことあるごとに比較されました。

いまでこそ、クイーンは

世界中に知らない人はいないくらいの超有名バンド。

かたやバッド・カンパニーについては

そこそこのロック・ファンならば知っているが、

一般にはほぼ知られていない存在になっていますが、

その頃は、圧倒的にバッド・カンパニーの方がメジャーでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ワタシも、クイーンもまあ好きだけど、

どちらかと聞かれれば断然バッド・カンパニー派でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブルースをベースにしてはいるが、キャッチ―さも兼ね備え、

シンプルなロックをポール・ロジャースの圧倒的なボーカルで聴かせる

本格派ロック・バンド。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボーカル押しのワタシとしては、

彼こそがロック・ボーカルの究極の理想形で、

それは、今も変わりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

加えて、決して派手なプレイはないが

ツボを押さえたギターワークで曲を盛り上げるミック・ラルフス。

静かな存在感とコーラスで曲を固めるベースのボズ・バレル。

フリー時代からの盟友で無駄のないタイトなドラムをたたくサイモン・カーク。

全てはポール・ロジャースの歌を際立たせるアンサンブルになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この点が、フリー時代の

むせび泣くような、またあるときは引き裂くような

個性的なギターを弾くポール・コゾフ、

前に出て、時にはギターをバッキングにリードプレイをする

アンディ・フレイザーのベースプレイとは

明らかに趣を異にしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後追いで「フリー」も大好きになり、

全アルバムをそろえたのですが、

リアルタイム、という縛りで今回はバッド・カンパニーです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンプル、というのは当時のバッド・カンパニーを評するとき

枕詞のごとく用いられた形容詞ですが、

その裏には、複雑多様化した当時のロックシーンがありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

T-REXやデヴィッド・ボウイのように

きらびやかな衣装と派手な化粧を施したグラムロック。

シカゴやブラッド・スウェット&ティアーズのような

ホーンセクションを入れてジャズのテイストを取り入れたブラス・ロック。

ピンク・フロイドやイエスのように、

クラシックや実験音楽の要素を取り込んだプログレッシブロック。

アリス・クーパーやジェネシスのように

ライブに演劇性を持ち込んだシアトリカル・ロック。

サンタナはロックにラテンのリズムを取り入れ、

オシビサはアフリカンビートを持ち込んだ。

ドラッグのため長く一線から遠ざかっていたエリック・クラプトンは

当時ジャマイカのローカルミュージックにすぎなかった

レゲエを出汁にしてロックシーンに返り咲きを果たしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、そのころロック界に「侵入」してきたファンク・ビート。

黒人音楽から拝借した16ビートは、

アヴェレイジ・ホワイト・バンドなどファンク専門のバンドだけではなく、

ディープ・パープルの「Gettin’ Tighter」(1975)や

レッド・ツェッペリンの「Trampled Underfoot」(1975)など、

老舗のハードロックバンドも演奏に取り入れ始めた。

この流れはのちにソウル・ミュージックと融合したディスコサウンドと

ジャズに接近してクロスオーバーからフュージョンへ続く

二つの流れに分派してゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような○○ロックが広く展開した時に

アタマに何もつかない「ロック」を見直そう、

というのがバッド・カンパニーのスタイルで、

その外連味のないスタイルが、

ロック・ファンの人気を呼んだのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この考え方は、その2年後に起こる

パンク・ムーブメントの精神とも共通する部分がありますが、

決定的に違うのは、

演奏技術すら否定したパンクに比べて、

彼らは安定したテクニックを持っていた、ということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポール・ロジャースとサイモン・カークは元フリー、

ギターのミック・ラルフスは元モット・ザ・フープル、

そして、ベースのボズ・バレルは元キング・クリムゾンと、

いわばそのちょっと前にはやったスーパーグループでもあったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時同じようなバンドというと、1976年の「KGB」が思い浮かびます。

バターフィールドブルースバンド出身で大物ギタリスト、

マイク・ブルームフィールドが、

ベック・ボガード&アピスのカーマイン・アピス、

ブラインド・フェイスのリック・グレッチらと結成したスーパーグループ。

このバンドも好きだったが、確かアルバム1枚で解散したような・・。

音はバドカンよりはずっとアメリカンな

ファンキー、ソウルミュージックのテイストでしたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、バッド・カンパニーの話に戻ります。

このアルバムは宝物のように大事にしていて、

傷なんか絶対つけないように

普段は勉強なんかしながら聴くのは

カセットテープに録音したものだったが、

中間、期末などの定期テストが終わった日とかには、

親に絶対に部屋に入るな、といったうえで、

厳かにレコードをかけ、何もせずに黙って座って

一人ロックを満喫していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなある日、ビッグニュースを耳にしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんと、「バッド・カンパニー」が来日公演を行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、ぜひ、行きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、あろうことか、その日程は3月3日。

県立高校の入試のわずか10日前でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、山口百恵ちゃんのファンだったワタシは、

お正月映画の「伊豆の踊子」を見に行きたい、

といったのですが

入学試験直前に映画など見にいってはいけない、

と、親に禁止された経緯がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お正月の映画がダメなのだから、

10日前の、それも東京でのロックコンサートなんか

許可が出るはずはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今度来たときは何が何でも絶対行くぞ、ということで、

そのコンサートは泣く泣く断念しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、晴れて高校に合格したワタシは、

その代わりというわけではありませんが、

4月19日、入学直後、

クイーンの初来日公演を友人たちと日本武道館まで見に行きました。

そして、同じく4月公開になった山口百恵ちゃんの

主演映画第2作「潮騒」も映画館まで見に行きました。

しかし、残念ながらバッド・カンパニーが

来日公演をすることはその後二度とありませんでした・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、バッド・カンパニーは

ワタシが、そのデビューからリアルタイムで追っかけた、

最初のフェイバリット・バンドだったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.10

影響を受けたレコード②「紫の炎/ディープ・パープル」

影響を受けたレコード2枚目はコレです。

1974年2月発売、当時は日本語タイトル「紫の炎」で知りました。

ワタシが中学2年生の3学期ということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのころワタシは「フォーク少年」で、

その前年11月の学園祭ではクラスメイトと

フォークグループを組んで、

井上陽水やかぐや姫の曲を、はじめて人前で演奏しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、当時の音楽ソースといえば、

もっぱらラジオ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、ラジオでかかるのは洋楽でもいわゆるヒットポップスが中心で、

1,973年から74年にかけては

「イエスタディ・ワンス・モア/カーペンターズ」や

「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード/エルトン・ジョン」あたりは

よく耳にしました。

同時期のヒット曲「恋のウォータールー」は

まだビヨルン&ベニー名義で、のちにABBAを名のります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな、日々に、ラジオでこのアルバムのタイトル曲

「紫の炎」を聴いたときの衝撃は忘れられません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たしか、土曜日の午後のFMの番組。

普通3分前後のヒット曲が多い中で、

この6分を越える長尺の「紫の炎」がノーカットでオンエアされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うわー、なんだこれは。

強烈なイントロのリフ、迫力のボーカル。

そして畳みかける超絶のギターソロ。

リッチー・ブラックモアのギターは

ロック童貞の中学生を圧倒するテクニックでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続いてはキーボードソロ。

おそらく一番乗っていたころのジョン・ロードのプレイは、

クラシックのテイストもあってそれまで聴いたことがない世界でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかも、長い、長い。

まだ、続くのか?

気がつけば、自室で椅子から立ち上がり、

ノリノリでリズムをとっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてイアン・ペイスのロールを多用した

ドライブ感あふれるドラムに導かれて

怒涛のエンディングへ。

曲が終わった時の多幸感は、

なにかヤバいクスリを使ったあとのようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たぶん、この瞬間、自らの指向がロックに定まったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディープ・パープルもレッド・ツェッペリンも名前は知っていたが、

実際にきちんと聴いたことはありませんでした。

レコード店に行くと、当時はジャンル別で「ロック」の棚は一番前にあり、

さまざまなアーチストのアルバムが並んでいましたが、

LPレコードはよほどのことがないと買えない高価なものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上に兄弟もなく、年上の友人もないので、

ラジオで聴く以外は洋楽を耳にする機会はなかったのですが、

こういった本格的なロック・ミュージックは

ヒットチャートには載らないので

なかなかオンエアされませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかもこのときワンコーラスかツーコラスでフェイドアウトせずに

フルコーラスかけてくれたこのラジオ局がスバラシイ。

多分土曜日午後はNHK-FMがリクエストアワーとかいう、

ローカル局の番組をやっていたので

NHK宇都宮かNHK前橋かのどちらかだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後ワタシはロック一筋にハマっていき、

雑誌や、ラジオ、そして友人を通じてあらゆる情報を集め

ロック浸りの学生時代を送ることになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時のディープ・パープルが第3期にあたり、

イアン・ギラン、ロジャー・グローバーに代わって、

トラピーズのグレン・ヒューズと

元ブティック店員のデビッド・カバーデイルが

オーディションで選ばれた新メンバーであることを知ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後追いで第2期ディープ・パープルの傑作

「マシン・ヘッド」「ライブ・イン・ジャパン」などを聴き、

やっぱ、ディープ・パープルは第2期がベストだな、

イアン・ギランはスゴイな、

ということになるのですが、

影響を受けた、ということにおいては

この「紫の炎」を上げざるを得ません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、当時ワレワレロック小僧の間では、

評価がイマイチだった新参者のデビッド・カバーデイルくんが、

後々あれほどの大物になるとは・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とこかく、このアルバムを機に、

ロック小僧になったワタシは、

寝ても覚めてもロックのことばかり、

(いや、半分は女の子のことも)考えるようになり、

その1年後高校に進学し、

ロックな高校生になってゆくのでした。

 

 

 

 

 

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2020.05.09

影響を受けたレコード①:ザ・ビートルズ赤盤/青盤

 コロナ禍のため、facebookでは、いろいろなリレーが回っていますが、

次のようなものが回ってきました。

 

 

 

 

 

イギリス発のタイムラインリレー。
自分の音楽の嗜好に影響を与えたレコード10選。
10日連続で1日1枚投稿。
説明、評価不要、ジャケットだけでOK。順番も関係なし。
どなたかに毎日同じことをして頂くようにお願いするミッションになっています。
***************************************************************************************
これがナント3者から指名受けちゃいまして。

 

 

 
 まあ、遊びなんでそこは固く考えずに、
3人からでもOKでしょう。
**********************************
 さて、この60年間に聴いた膨大なレコードの中から10枚を選ぶ、
というのはなかなか至難の業で。
なんせ、今保有してるレコード、CDの枚数が
ゆうに3000枚はあると思われ・・・。
 そこで、縛りとして
①リアルタイムで聴いている音源
②1アーチスト1作品
ということにしました。
 これをブログで詳しく解説します。
 さて1枚目はコチラ。
 
ご存知ビートルズ、赤盤、青盤、と呼ばれるモノ。

 

 

 

 

 

 

 正確には「ザ・ビートルズ1962年~1966年」

「ザ・ビートルズ1967年~1970年」

といいます。

リリースは1973年4月ですから、ワタシが中学2年生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、LPレコード2枚組×2のこのレコードは、

ワタシは所有していませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時LPレコードは1枚2500円前後、2枚組のこの盤は

3000~4000円はしたはず。

なかなか、手が出ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを裕福な(?)同級生が所有しており、

それを借りてカセットテープに録音したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにその同級生とは、何を隠そう薬局のコミネくんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は同級生の中でもませていて、

家庭教師の大学生からこのレコードを勧められ、

親に頼んで買ってもらったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、中学2年生といえば、ワタシのロック元年で、

その黒船がまさにこのレコードでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中学生になり自室でラジオを聴くようになり、

当時流行っていた井上陽水、かぐや姫、よしだたくろうなどの

フォークソングにまずハマりましたが、

ラジオから流れる洋楽ポップスにも親しみを感じるように

なっていったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでにビートルズが解散して3、4年たっていました。

ビートルズは昭和40年代初頭には日本でも「社会現象」でしたから、

その名前は小学校のころから当然知っていましたが

それはニュースで耳にする、

「悪しき若者文化」「反社会的な不良の音楽」

というレッテルの貼られたものだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、まさか、あのビートルズを自分が好きになるとは、

と、我ながらあせった感じすらありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これをきっかけにロックミュージックというものに興味を持ち、

その後完全にロックの虜になって、

自分の生き方、モノの考え方に大きな影響をうけ、

さらにそれが今も続いていて、

「ロックな耳鼻科」などというブログを書くことになろうとは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今聴いてもこの2枚組×2の選曲は絶妙です。

そして赤盤の1966年を最後にビートルズはライブ活動をやめ、

青盤の1967年以降はスタジオワークが中心の

レコーディングアーチストに変わっていきます。

この辺のバンドスタイルの切り替えも、

アルバムを4枚組1セットではなく

2枚組×2セットにすることによって実に上手く表現されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシのような「新参者」は、

最初はヒット曲満載のキャッチ―な赤盤の方に耳を奪われすが、

聴きこむうちに青盤の奥深さに魅了されていく

という仕組みになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はともに2枚組ですが、赤盤の演奏時間は短く63分。

青盤は90分近くあります。

なので、カセットテープに録音する場合、

青盤は通常のLP用の90分テープ(C-90)だが、

赤盤はうまくタイミングを合わせると

60分テープにピッタリ収まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時ソニーのカセットテープは3種類。

C-60が赤色、C-90が緑色、C-120が水色でデザインされていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤盤をC-60、青盤をC-90に録音して聴いていたワタシとしては

ビミョーに赤盤、緑盤だったりのイメージもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.08

動画祭だョ!全員集合

 新型コロナウイルスによって、ライブハウスが閉鎖され、

ミュージシャンはプロもアマも活動の機会を失っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インターネットを通じて、無観客ライブを配信、

などという動きは一部のライブハウスや

ミュージシャンたちによって行われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザ・ローリング・ストーンズは

「You can’t always get what you want」

おお、これで来たか、なるほど、という感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、グリーンデイは

「Wake me up when September ends」

これも良いですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他にも多くのミュージシャンが、このTogether at homeに参加しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんな中、ワタシの周囲の音楽仲間も、

facebookを通じてネットでつながろうという活動をしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ザ・ぐり☆スターズ」のぐりちゃんが立ち上げた

動画祭だョ!全員集合」という企画もその一つです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 毎週土曜日の8時から、対バンでお友達になっているバンド仲間が、

プライベートで動画を作って配信する、というもの。

今週で第4回ですが、今週はワタシこと「ロックな耳鼻科」も出演します。

 

 

 

 

 

 

 

facebookをやってなくても

Youtubeからでも見られますので、

ご興味のある方、ヒマな方はぜひご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.07

スイミング休業延長

5月6日水曜日、連休最終日のお昼ころに、我が家の電話が鳴りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

電話に出た妻から

「あ、いま、代わります」

と手渡された電話は、

果たしてアンタレススイミングスクールからでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緊急事態宣言の延長を受けて、

5月6日までの予定であったプールの休業期間が、

さらに継続する、という内容でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを、恐れていた。

まことに、残念。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 緊急事態宣言が延長されたとはいえ、

栃木、群馬は13の特定警戒都道府県に入っていなかったので、

5月7日からまた泳げるのでは、と期待していましたが、

それは、叶わぬことになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、お断りしておきますが、

実は、ワタシは水泳が好き、というわけではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パチンコ屋が休業だからといって、

1時間もかけて他県の空いてるパチンコ店に

わざわざ行くようなパチンコ依存症とは理由が違う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、むしろ、できれば、泳ぎたくないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、プールに行きたいのは体のため。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 年寄りには運動不足は致命的です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スイミングに行かなくなってから、

体重がじわじわと増加し、イヌの散歩でも足腰が疲れやすくなり、

健康に対する不安が増大しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何より、ビールが美味くない。(T_T)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日前から、事態の深刻さを鑑み、

ご飯のグラム数を減らし、糖質、脂質の接種を、

特に夜は控えるようにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、運動量が減って体重維持のためカロリーを制限する、

というのはマイナスの発想です。

本来であれば食事量をキープするために

スイミングと同じ運動量を維持しなければならないところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、1㎞の水泳と同等の運動量を

日常生活に組み込むのはなかなか困難です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、早く再開してくれないと、命が縮む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういった意味では、

このコロナ禍でリハビリや

デイサービスに行けなくなった多くの高齢者が、

サルコペニア、フレイルに陥る可能性はかなり高いでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半年後、1年後に寝たきり老人が爆発的に増えるということが、

じゅうぶん起こり得るといえるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コロナを生き延びても、

別の理由で国民の健康が損なわれないか、心配です。

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.06

ステイホームの大型連休、1回だけ外出

 この4連休、ほぼステイホームであった。

レディアの散歩以外で出かけたのは、

月曜日のお昼だけ。

家から徒歩1分のこのビル。

織物会館一階の中華料理泰鵬。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、コロナ騒動になってから、このお店に来ることが多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 飲食店支援、のためもあるが、

普段混んでて店の外で待つことも多いこのお店、

さすがに最近はガラガラなのですぐ席につけるため。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うれしいことにこのお店、何食べてもおいしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先代がここに開店したのがもう50年以上前。

それ以来ワタシはガキの頃から、ずっとお世話になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大変な時期ではあるが、美味しいもの食べてガンバロウ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、運動不足のため体重増加が気になり、

ガッツリ食べられないのが、残念。

・・・といいつつ、今日はカロリー高め。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.05

マスク美人

巷ではマスク姿が当たり前になり、

ちょっと前のニュース映像や、

NHKの「小さな旅」の再放送なんかで

誰もマスクつけていない集団をみると、

ややっと思います。

ほんのちょっと前なのにはるかムカシのようで、

こういう時代もあったなあ、などと

コロナ以前、という言葉が頭に浮かびます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まさに時代が「B.C.」(Before Corona)と

「A.D.」(After Disease)または(After Disaster)

に分かれたかのようだ。

(実際は「Before Christ」「Anno Domini」です。念のため。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、コロナ以前のムカシっから

ずーっとマスクつけっぱなしの場所もあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、オペ室。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他にも食品工場とか給食センターとか廃棄物処理場とか、

そこで働く人がマスクを常につけてる職場もありますが、

オペ室が決定的に違うのは、

そこで働くのがお医者さんと看護師さんという、

全く別の組織に属する人たちがともに仕事をしていて、

看護師さんには女性の割合が多く、お医者さんは男性の比率が高い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、特殊な意味ではなく「異性の目」があるので、

とくに若い看護師さんはアイメイクに余念がありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 むろん場所柄、過剰なお化粧はしませんが、

スッピンでなければダメ、ということはないので、

やる気のある(?)方はけっこう力入れてるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔の下半分は常にマスクに覆われており、

アタマも手術用の帽子をかぶっているので、

リップメイクや、ヘアメイクは適当でもアイメイクが重要になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただオペ室に出入りする外科系や麻酔科のドクターは

彼女たちの素顔を見たことがありません。

服もだぼだぼのオペ着にガウンなど着てますから、

服のセンスはもちろん、体型もわかりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、たまにオペ室の忘年会などで

マスクをしてない私服の彼女たちと顔を合わせると、

少なからずショックを受ける場合もあります。

いや、もちろん中にはマスクなしの方が可愛いじゃん、

という方もいらっしゃいましたが・・。

ヤバイ、これ以上書くとセクハラに・・・・・(゚Д゚;)

 

 

 

 

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2020.05.04

F-86Fセイバー

今度はコレ。

このあいだに続いての「ハチロク」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり、セイバーといえば航空自衛隊、

まあ、ワタシ的には前にも書いたように

ゴジラ映画のやられメカですが・・・・。

さて、各部隊のマークがチョイスできますが、どれにしようかな。

と、いっても尾翼のマークが異なるだけで、

派手な迷彩はなく、どれも単色銀塗装。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その尾翼のマークも三角やストライプなどの図形ばかり。

なので、唯一絵柄である第8部隊にしました。

名古屋、小牧基地所属なので、名古屋名物「シャチホコ」。(*^^*)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空自なので資料は豊富です。

ネットを漁るといろいろあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずはコックピットですが、

このフジミのキットはインテイクからジェットファンまでが再現され

その上に乗っています。

完成後、まったく見えなくなっちゃうんですが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな感じでおさまります。

先端に鉛の錘を入れてエポキシパテで固定しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コックピットは戦闘機としては幅広。

F-86は1947年初飛行、1949年実戦配備。

1950年代にかけてアメ車はどんどん大型化し、

でかいバスタブみたいなクルマが流行しましたが、

そんなイメージが無きにしも非ず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この写真、いいですね。

日差し斜めの感じは朝なのか夕方なのか。

翼の上の若者はパイロットなのか整備士なのか。

機体番号はこの970番にしよう。

この写真のように駐機状態の時はほぼ必ずエアブレーキが開いて垂れ下がっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なので、それを再現しようと。

しかし、いやらしいことに日の丸が一部かかっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

張り付けたあと、半がわき状態でナイフでラインに沿ってカットします。

そろりそろりと起こしてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よし、OK。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かくして、完成。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空自のセイバーは無塗装銀ではなく、銀塗装。

ギラギラのジュラルミンではなく、全体が少しくすんだ色目になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、機銃パネルのところだけ色目が違います。

白黒写真だとやけにはっきりします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このくらいかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コックピット。

ちょっと曇って写ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このマークを、おお、カッコイイ、と思うか、

ったく、しょうがねーなー、趣味ワカランよ、と思うかですが、

それこそが「名古屋人か否か」ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんでも「シャチホコ」を初めて天守閣に載せたのは、織田信長だとか。

中国の建物に似せたため、とチコちゃんでやっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このイナタいフォルムが、郷愁を誘います。

自衛隊で使われていたF-86と、M4シャーマン戦車は、

ワタシにとってジェット機と戦車のデフォルトです。

デザインに、共通のイメージを感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 F-86Dと並べてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 形の違いは、ほぼノーズだけですが、何となく国籍マークの関係で、

鼻の高いアメリカ人と、鼻の低い日本人に見えてしまう・・・(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外人さん、ハナ、高い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴジラ相手では全く役に立たなかったF-86ですが、

一番の晴れ舞台は、なんといっても1964年10月10日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」が、

東京オリンピックの開会式で、

国立競技場の上空に鮮やかな五色の輪を描いたのでした。

これは、以前作ったF-86Fのブルーインパルス仕様。

同じフジミの1/72のバリエーションキットです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、少年雑誌で世界のエアアクロバットチームとして、

アメリカのサンダーバーズ、ブルーエンジェルスや

イギリスのレッドアローズなどとともに紹介されていて、

日本にもあるんだ、と知り大変誇らしく思った記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ブルーインパルス(青い衝撃波)」と紹介されていて、

このチーム名もやたらカッコいいと思ったものです。

その後、ブルーインパルスの使用機体は国産のT-2から、T-4 へと変遷しましたが、

カラーリングも含め、歴代のブルーインパルスの中ではこのセイバー版が一番好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2020年の東京オリンピックでも

ブルーインパルスが登場するはずでしたが、

残念ながらオリンピックは来年に延期になってしまいました。

しかし、この様子では来年も危ういかも?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.03

白いカレンダー

 新型コロナウイルスの流行によって、

ほとんど開かなくなったものに手帳があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もともと30年来使っているfirofaxのシステム手帳と

iPadでスケジュールを管理していますが、

予定が全くなくなったので開く意味がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 よって、手帳は真っ白。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バンド練習やライブ、スイミングなど全部なくなったので真っ白。

以前入れた学校検診や、Jリーグの日程などは

一応延期扱いなので、iPadの方はそのまま残してあります。

手帳は修正テープで消さなければなりませんが、

iPadの方はスライドできるので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、本日から大型連休に入り4連休。

ここのところ大型連休は、毎年家にいるので

今年も旅行の計画などはなかったのですが、

Jリーグと、中学の同窓会と、休日診療所当番が

1日ずつ予定になっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが、ご存知のようにJリーグは再開のめどが立たず、

同窓会も早々と中止となり、

予定は休日診療所当番だけになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すると、2,3日前に医師会から電話があり、

連休中の急患診療所は内科医だけの体制で行うので、

来なくてもいい、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あ、そうですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これで、連休中の予定は全くなし、になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 相前後して、足利市の小中学校の休校が、

5月末まで延長になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これで、iPadに入っている5月分の7日間の学校検診が

予定からなくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 が、健診中止、ではないので、

4月分の5日分と合わせて、

12日間分の健診を、どこかですることにはなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もし、8月とかにやれといわれたら、キツそうだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.02

Made in PRC

 マスクは医療機関に優先的に供給します、

という御触れがあって、もう相当たってから

3月末に50枚マスクが届きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約1週間分なので、その後も定期的に来るかと思いきや、

全く、音沙汰無し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 備蓄を使い切ったら布マスクでも仕方がないかと思っていたら、

昨日医師会から連絡があり、

マスクが用意できたから取りに来い、という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今度は有料。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、それは良いとして、職員が医師会まで行って

ちょっと割高なマスク50枚入りを割り当て分の15箱買ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっと見せて、どこのマスク?

中国製?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いえ、違うみたいです。

メイドインPRCって書いてあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「made in P.R.C」?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、これは「中国製」だよ。

PRCはおそらくPeople’s Republic of China、

つまり中華人民共和国のことだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 調べてみるとやはりそうらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うーむ、ナルホド。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 推測だが「Made in China」と書くと印象が悪いので、

わざとわかりにくい「Made in PRC」と表記してるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ったく、この国のやることは・・・・。(~_~メ)

 

 

 

 

 

 

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