ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2019.04.26

いだてんとレオタード

何とか見続けている(笑)大河ドラマ「いだてん」ですが、

最初から気になっていたオープニングテーマに出てくるこの選手。

(もちろん右の女の子の方)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あー、見覚えがある、

とっさに頭に浮かんだ名前は「オルガ・コルブト」だったのですが、

先日ネットで調べたら、コルブトちゃんではなく、

同じミュンヘンオリンピック女子体操ソ連代表のルドミュラ・ツリスチェワさんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、ネットで検索した情報をもとに、記憶をたぐり寄せてみました。

2人はともにソビエト連邦代表といっても、

コルブトはベラルーシ出身なので、今ならロシア代表ではない。

ツリスチェワはロシア連邦内のチェチェン共和国出身だから、

今でもロシア代表ではあるが、ロシア連邦からの独立をめぐって

いまだ紛争の絶えないあのチェチェン、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ツリスチェワは20歳、ソ連女子体操のエースであったが、

そこに彗星のごとく現れたのが17歳のコルブト選手。

コルブトはそのテレビ映えする愛くるしさで、一躍人気者となり

ミュンヘンの恋人といわれた。

そして平均台、床で金メダルをとったが、

ツリスチェワは個人総合の金メダルはとったが、種目別では、銀、銅にとどまった。

こちらがコルブトちゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、何で、オレはこの顔を覚えているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミュンヘン・オリンピックは1972年の開催で、

札幌オリンピックと同年、ワタシは札幌大会の時小6、

ミュンヘンは中1で、実は最も印象に残っているオリンピックである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水泳では、日本の田口信教選手が100m平泳ぎで金メダル、200mで銀、

青木まゆみ選手が100mバタフライで金メダル、

マーク・スピッツ選手が1人で7個の金メダルをとったのも印象深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんといっても松平監督率いる日本男子バレーが金メダル。

オリンピック前にテレビで「ミュンヘンへの道」という

日本バレーチームのドキュメンタリーアニメを放映し、

その期待通りに本番で初めての金メダル、

しかも決勝ブルガリア戦はセットカウント0-2からの大逆転勝利、というのは、

サッカー少年だったワタシですが、

数か月前札幌オリンピックでの70m級ジャンプで

笠谷、金野、青地が金、銀、銅を独占したことを凌ぐほどの感動を覚えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ナゼに女子体操か?

というと、考えるにこれはたぶんおそらくレオタードでしょう。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4年前のメキシコ大会の時は、まだ小学4年生のガキだったわけですが、

ミュンヘン・オリンピックは中学1年生、

急に色気づいて来た年ごろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女子体操選手のレオタード姿には、

4年前には感じなかった魅力を感じたはず・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、当時のオリンピックといえば国家間の対立を背景とした

政治的な影がつねにつきまとう。

ミュンヘン・オリンピックではパレスチナのテロ組織「黒い九月」が

選手村でイスラエルの選手11人が殺害されるという

オリンピック史上最悪の事件も起きている。

 

女子体操でいえば、その前のメキシコオリンピックで

チェコスロバキア代表のベラ・チャスラフスカが、

その直前に行われたソ連軍のプラハ侵攻に抗議の姿勢を示し、

西側諸国の賛同を得た事件があった。

ソ連代表の選手は図らずも、

悪役の役回りを演じさせられる羽目になった。

ワタシ的には当時オバサンぽかったチャスラフスカ選手よりも

ソ連のクチンスカヤ選手の方がタイプだったんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんな東西冷戦の時代、社会主義陣営のリーダーであるソビエト政府は、

ソ連代表選手にも国家の威光を示すように強く求めたはずであり、

ベラルーシ出身のツリシュチェワ選手などは、

かなりのプレッシャーと、

また、自身がチェチェン出身であることによる違和感を感じていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オルガ・コルブトは初めて現れたアクロバット系の選手で、

まったくの小児体形で、

軽さと機敏さを武器に次々と軽業のような演技を繰り出した。

それまでの女性らしさ、優美さで競ったチャスラフスカ時代の体操を

一変させたとも言える。

その意味で、ツリスチェワは

最後のクラシカル・スタイルの選手だったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、そのミュンヘンの4年後のモントリオールオリンピックでは、

女子体操界には精密機械のような演技をする10点満点少女、

当時わずか14歳のナディア・コマネチの時代がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事を書くためにネットを検索していたら、思わぬニュースを発見。

その一つは、

当時コルブト選手はソ連代表の体操コーチから

性的虐待を受けていた、というもの。

そしてもう一つは、昨年のニュースで、61歳のオルガ・コルブトさんが、

金銭的に困窮していたため、

自身の金メダル、銀メダル、はてはレオタード(!)などを

オークションで売りさばいた、とのこと。

うわー、どちらも、悲しくなる事件です。

うーん、あのミュンヘンの恋人は幻想だったのか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば最近は男子体操は日本選手の活躍で時々見ますけど、

女子体操の方はさっぱり知らないですねー。

今はどこの国が強いんでしょうか?

 

 

 

 

 さて、最後にミュンヘン・オリンピックの記録映画

「時よとまれ、君は美しい~ミュンヘンの17日」から。

 

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2019.04.11

「ニュープリンス」と「トータル」

 教科書つながりで思い出したこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中学1年生から「英語」の授業が始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは小学校時代、習い事は「習字」のみでしたが、

英語だけは小学校5年生から、近くの塾に

通わされるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「○○ゼミナール」とか「××進学塾」なんていう

いわゆる大手の「予備校」ではなく、

(そもそも、そんなものは田舎町にはなかった)

近所のおばさんが、口コミで集めた子供たちを教えている、

という寺子屋みたいなものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハラダ先生は、子供さんが一人いるシングルマザーで、

自宅の部屋を利用して、7.8人入れる教室で

小・中学生に英語を教えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこに週1回通い、最初に習ったのが「万国音標文字」、

いわゆる「発音記号」でした。

毎週毎週、こればっかし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おかげでワタシはカタカナで英語を覚えたことはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、次にアルファベットのブロック体と筆記体を習いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、いよいよ「教科書」の話です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、地元の中学校で採用されていたのは

「開隆堂」の「New Prince Readers」。

自由の女神が表紙の、通称「ニュープリンス」です。

なので、6年生のころ、この教科書を少し塾で勉強しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この、最初は「Lesson 1」。

内容は、たしか、

「A pen.

A desk.

This is a pen.

This is a desk.」

これは、うろ覚えですが、

いわゆる、有名な「This is a pen.」

のフレーズは、ここにあったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、ワタシが中学に上がるときに、

足利市教育委員会は英語の教科書を開隆堂から

三省堂の「Total English Junior Crown Series」

通称「トータル」に変更したのです。

なので、ワタシは1年生の教科書の最初の部分に関しては、

2種類の教科書で習いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ニュークラウン」が「Be動詞」から入るのに対し、

「トータル」は「一般動詞」から始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は「Step 1」です。

「ニュープリンス」が「Lesson」なのに対し、ここも差別化しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 内容は、以下のものです。(多分、確実。)

「I like English.

I study it.

I speak it.

You like English.

You study it.

You speak it.

You and I like English.

We study it.

We speak it.」

もしかしたら4行目は

「You like English,too.」

だったかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうしてみると、こっちはかなり難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、「Be動詞」より「一般動詞」から入る方が

自然だとは思いますが。、いきなり覚える単語多いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 登場人物もたしか「ニュープリンス」は

男の子が「Ben」女の子が「Lucy」先生が「Miss Green」だったかと思うが

「トータル」では

男の子「Vincent」で、やや難しく、

女の子は「Susie」(スペリングは「スシエ」と覚えた)だけど、

先生はたしか「Miss Lovelace」。

しかも「Vincent」は「スタニスラス(スペリング忘れた)」くんという

ロシア人(当時はソビエト人)のペンフレンドがいたりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、今にして思うと当時は東西冷戦の真っただ中であり、

その中で、アメリカ人のビンセント君とソビエト人のスタニスラス君の

鉄のカーテンを越えた友情というのは、

世界平和を願う教科書編纂者の思いがあったのかも、

と、深読みしちゃったりします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんせ、このペンフレンドのエピソードのタイトルは

「From Russia with love」!

そう、007ボンド映画の最高傑作のタイトル、

邦題は「ロシアより愛をこめて」。

なんと、粋なセンスでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、中学生だったビンセント君もスタニスラス君も、

やっぱりもう還暦なんだろうか。

 

 

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2019.04.10

この新鮮な気持ちを

 新学期が始まり、入学式も行われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しい学年の始まり、いいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが小学校に入学したのは昭和41年。

1年2組、名札は青色。1組が赤、3組が黄色。

担任は河内先生、トナリの席は金井みつこちゃん、

字は「美津子」だったと思う。

そして、覚えているのは国語の教科書の最初のページ、

「みえる、みえる。」

でした。

これは、多分、確実。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんか、高台から景色を眺めている挿絵で、

先生は、その絵を見ながら

「○○くん、なにがみえますか?」

みたいな、授業をしていたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次のページが

「うみがみえる。ふねもみえるよ。のってみたいな。」

だったような気もするが、これは不確か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小学校2年生の時の担任は若い女の先生で、

ウエタケ先生、だった。

字は「上武」だったと思うが確実ではない。

国語の教科書の一番最初は、たしかフナの3兄弟が、

池から川に流されて冒険をするような話だったかと・・・。

ストーリーは覚えてませんが、挿絵の3匹のフナのうち、

一匹だけ目がデカかったのを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、小学校3年生以降の国語の教科書は、覚えていないなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、昭和47年、足利市立第一中学校に入学、

1年2組、担任は技術家庭の坂本先生、

で、国語の教科書の最初の部分は、これまた覚えているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルは「この新鮮な気持ちを」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、ネットで検索すると、出てくるんですねー。

さすが、グーグル先生。

この新鮮な気持ちを(石森延男)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、この「ルナールの言葉」は大変印象深く、

オトナになってから、本を買ったほどです。

その中の

「川、水は決して同じものではないが、同じ様子をしている・」

という文に対し、授業の時に国語の沼尻先生が

「これは、日本の鴨長明というヒトが方丈記で同じことを言っている。」

という解説をしたのだが、

そのころはむろん、「カモノチョウメイ」も「ホウジョウキ」も知らなかったので、

なんのこっちゃ、と思っていました。

その後、高校の古文で

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」

というのに出会い、おー、これかー、と数年ぶりに思ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年の新しい1年生は、どんな教科書を開くのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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2019.04.03

万葉集の読みは

 新元号「令和」の影響で、万葉集ブームが起きてるという。

(ところで、本日は「れいわ」は一発変換できました。(笑))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何事にもノリやすい、日本人の特徴ですが、

まあ、日本人の美点でもあるわけで、良いことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、この「万葉集」の読みは、当然「まんようしゅう」ですが、

かつてはそうではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが子供のころ、たぶん中学生のころかな、

学校で「万葉集」を習って、

そのことが、家族のお茶の間の話題に出たことがあった。

ワタシ的にはかなり鮮明に覚えている事件です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「今は、国語で『まんようしゅう』やってるよ。」

といったワタシに、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「おい、ヒロユキ、それは『まんにょうしゅう』と読むんだよ。」

と、あきれ顔の父がいう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「え?」

というワタシに、

さらに母が、すかさず、

「まちがいやすいのよね、知らないと『まんようしゅう』って読んじゃうわね。」

と、追い打ちをかける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、調べたところ、戦前は「万葉集」の読みは

「まんにょうしゅう」だったということが判明した。

当時はグーグルが無かったので、調べるのは大変だったが。

戦後、佐佐木信綱という国文学者が読みを「まんようしゅう」にしたらしい。

父も母も学校教育が戦前だから、そのまま覚えていたのであった。

事実を知って2人とも驚いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのまま読めば「まんようしゅう」と読みたくなるので、

かつてはこの読みは両親が学生時代のテストの有名なひっかけ問題だったりして。

ここに解説があります。「万葉集の書名の読み方の所説

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いま「まんにょうしゅう」を変換すると、一括変換はなく、

「まん」「尿臭」で分割変換され、

なにやら非常にマズイことになってしまいます。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

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2019.02.21

チキンラーメンのない時代

 NHK朝の連ドラ「まんぷく」は、ご存知の通り

「チキンラーメン」を開発、インスタントラーメンの礎を築いた

安藤百福氏の成功物語をなぞったドラマです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インスタントラーメン・マニアのワタシとしては、

毎朝楽しみに見てたわけですが、

ここにきてようやく「チキンラーメン」が、

番組では「まんぷくラーメン」として、完成しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら、この朝ドラの影響で、全国的にチキンラーメンが売れてるようで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そりゃそうだ。

やっぱり食べたくなりますね、食べるのにそうハードルの高い食べ物でもないし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくいうワタシも、先日、スーパーで購入、食べました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、昭和33年発売のこのチキンラーメン、

ワタシが子供のころ関東地方ではあまり売ってなかった、という記憶がある。

ちなみにワタシは昭和34年生まれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日清食品のホームページを見ても、その辺まったく記載がないのだが、

1980年代になるまであまりスーパーで見かけた記憶が無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供のころはラーメンとはいえ、母親が作るわけで、

お湯かけてできる具のないラーメンなんか、子供に食べさせるわけにはいかない、

と思ったのかもしれないが、

ともかくチキンラーメンが食卓に上ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サッポロ一番、出前一丁、チャルメラは袋めんの御三家であり、

これらは食事としてしばしば提供され、

ワタシは「ゴマラー油」の出前一丁が好きだったので、

母に「ラーメンは出前一丁で」とリクエストしたことも覚えている。

だが、皆、鍋で煮るラーメンでお湯かけてできるラーメンはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オバQこと「おばけのQ太郎」は1965年、昭和40年からの放映で

当時ワタシは幼稚園の年長、大好きでよく見ていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これに登場する有名なサブキャラが、言わずと知れた「小池さん」。

独身男性で、年がら年中インスタントラーメンを食べている設定だったのだが、

彼が食べていたのはお湯をかけて食べるラーメンだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、子供心には不思議で仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのうち、いろいろな話を聴いて自分なりに

「かつてはお湯をかけて食べるラーメンがあったが、

いまは鍋で煮るラーメンにとってかわられた」

という結論に達し、それをずっと信じていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1970年の万博の前にチキンラーメンの発売元でもある日清食品は

「出前一丁食べて、万国博に行こう。」

という大々的なキャンペーンを打っていた。

「チキンラーメン」ではなく「出前一丁」の販売に力を入れていたわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1971年発売の日清食品の「カップヌードル」の登場によって、

「お湯をかけて食べるラーメン」は「カップヌードル」ということになっていく。

当然、日清食品もこの画期的な新商品を売りまくるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袋めんを作っていた各社もこぞって「カップ麺」の開発、販売に力を注ぎ、

カップラーメン黄金時代が到来した。

ちょうどワタシが一人暮らしを始めた浪人~大学時代である。

ありとあらゆるカップラーメン、カップ焼きそばを食べた気がする。(^^;)

だが、チキンラーメンは、無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにカップめんで好きだったのは

ワンタンの入ってるマルちゃんの「激めん」と

チャーシューの入っているエースコックの「大吉ラーメン」でした。

調べたらどちらも1978年の発売。

おお、まさにワタシが大学に落ちた年、浪人してた年でした(笑)。

下宿の電気ポットで作って夜食に食べた思い出が・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなカップラーメン黄金時代であったが、

ある時、例の「すぐおいしい、すごくおいしい」のCMソングにのって

チキンラーメンが、またまた市場に出回ってきたのである。

調べるとこのCMは1984年らしいから、ワタシの記憶に合致する。

1984年といえばワタシが大学6年生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで、たぶん、1969年ころから1984年ころまでの15年ほどの間、

関東地方ではチキンラーメンがあまり売っていなかったはずなんですけど、

誰か、証明してくれる人、いませんか?

 

 

 

 

 

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2018.11.29

からの「グランプリ野郎カー」

 で、前回「グランプリ野郎」の話を書いたのは、

実はきょうのこの話の前振りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヤフオクでクルマの模型など検索してたら、

こんなモノを発見。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああー、これはかの「グランプリ野郎カー」。

ちなみに、作中ではこのクルマには

「マッハ号」とか「ガンセキオープン」といった名前がつかなかったので、

模型化にあたってこのような名前がついたわけだ。

当時も、このネーミングはないよなあ、と思ってはいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このプラモデルは、当時国内プラモデルの最王手であった

「イマイ科学」製。

もちろん、買って作った覚えがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おお、懐かしいなあ、また作ってみようかなあ、

と思い、ウオッチリストに追加。

開始価格は1000円。

当時の価格は200円だったのね。

2~3000円くらいまでなら思い切って買ってみようかな、と思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして、終了当日、ちょっと入札してみようかなと、

残り3時間で現在価格を見ると、なんだ1万円こえちゃった、

・・・・ではなく、よく見ると、

10万を超えている。(゚Д゚;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さすがにこれはねえな。

だって、子供向けのちゃちな「トイ・モデル」です。

ネットにあった完成写真。

買った当時も、なんかイマイチなプラモデルだなあ、

と思ったことを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、入札はあっさり諦めましたが、

一体どこまで上がるのだろう、と興味津々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、終了後の落札価格を見るとなんと、

401000円!!

よん、よんじゅうまんえんですと!!!(◎_◎;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いやあ、いったいどんなヒトが買ったのでしょうか?

少なくともワタシと同世代ではあると思うが・・・・。

そして、買ったヒトは、果たしてこのプラモデル作るんでしょうか??

作るには相当勇気がいるかと・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこが、知りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あー、あのときこの模型作らずにとっておけば

40万になったのか、1個200円だから2つ3つ買っておけばよかった。(^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018.11.28

グランプリ野郎

「グランプリ野郎」という漫画をご存知であろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

子供の頃ワタシの愛読していた雑誌が「少年」。

これには、かの「鉄腕アトム」と「鉄人28号」がともに連載されていた

少年誌のチャンピオンみたいな存在であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その「鉄人28号」の作者横山光輝氏が1968年から同誌に連載開始したのが

「グランプリ野郎」。

当時、ブームになっていたモータースポーツを扱った少年漫画である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、ワタシのレーシングカー好きの原点はこの漫画にある。

ワタシにとって「レースマンガ」といえば「グランプリ野郎」。

「マッハGo Go Go」でも「サーキットの狼」でも「赤いペガサス」でも

まして「チキチキマシン猛レース」でもないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピットインとか、スピンとか、スリップストリームなんていう「レース用語」は

全てこの漫画で学んだ。

ドリフトとかシケインとかダウンフォースなんていう言葉は

まだなかった時代である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時は「葉巻型のフォーミュラカー」、まだウイングなし、という時代である。

でも、シートベルトはあったはずだが・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、この主人公の若林真一が乗るレーシングカーのデザインを、

雑誌「少年」で、一般公募した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かなりの応募があった模様で、ワタシなども結果発表を心待ちにしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その発表された最優秀作がこのマシンであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マンガ自体がわりとリアル路線で来ただけに、

このSFチックな、マッハ号的なデザインは、

正直、どうなのかなあ、と子供心にも思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、実際にマンガに登場するのだが、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他のマシンとあまりに違い過ぎて・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こりゃ、ちょっと、アレだなあ・・・。

そんな、「グランプリ野郎カー」であったのだが。

つづく

 

 

 

 

 

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