ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2021.07.11

ワタシがブログを書く理由

 2008年からブログを始め、

2016年3月からは「毎日更新」をモットーに

これまで書いてきた「ロックな耳鼻科」ですが、

振り返れば、膨大な量です。

この間、「医者のブログ」という記事を書いて、

フト、なんでオレはこんなに長いことブログ書いてるんだろうか、

との思いに至りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医院開業して20年以上。

今や、あまり忙しいのは困るので、

この期に及んでブログによる増患効果は

全然望んでおりませんし、

当ブログは見ての通り広告はないので、

広告収入でお小遣いがもらえるわけでもありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 単に好きだからやってます、ということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 考えてみると、それについて思い当たる要因は2つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひとつは、子供のころから

「人前で何かやること、人にものを教えることが好き」

だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さいころから人前で発表したり、講義をするのが好きで

学芸会なんかでは主役以外やったことない。

バンドでギターボーカルやってるのもその路線ですね。

「目立ちたがり」ともいう。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一つは、やはり子供のころから

「文章を書くのが好き」

ということですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小学校1年生のときに、

担任の先生からクラス全員に日記を書くような課題が出て、

そこで褒められてから文章を書くのが好きになったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日記は小学時代は書いていましたし、

作文コンクールや読書感想文では常に賞をいただいていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その2つの合体を考えるとたどり着くルーツは

小学校3年生の時に国語の授業であった

「壁新聞」ではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数人のグループに分かれて、記事を書き編集して、

壁にはりだすというもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 授業中だけでは間に合わず、

放課後も残って作業を進めたりするわけですけど、

これが、楽しくて、楽しくて。

もう「天職」かと思いました。

当時、天職なんて言葉は知らなかったと思うけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく自分の作った新聞が、

学校の廊下に張り出されて、

全校生徒の注目を集めるというのが快感でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その流れで、中学では

サッカー部のほかに新聞部に入りましたが、

決められた記事を書かなければならない学校新聞よりも、

自由度の高い「ウケる記事」を扱える

学級新聞には相当チカラを入れました。

大学生の時は、クラスで分担して試験対策の「資料」

というプリントを作るのですが、

その時もかなり凝ったものを作り好評で、

たしか医学部の卒業アルバムの中に

その資料の表紙が掲載されたような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、こうして自己分析してみて

このブログはワタシにとって

「壁新聞」の延長なのだなあ、

ということが今さらながらに分かりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、気の向くままに

今後もしばらく書くと思います。

 

 

 

 

 

 

 

2件のコメント
2021.07.08

マクラーレンM8A

F1もル・マンもインディ500も、WRCも、

昔からずっと続いているモータースポーツ・イベントであるが、

中には一時的に非常に盛り上がったが、

今は存在しないものもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

CAN-AMシリーズと聞いても、今の若い人は分からないかと思うが、

1960年代絶大な人気を誇ったモーターレースであった。

正式にはカナディアン‐アメリカン・チャレンジカップ、といい

日本でも「カンナム」の通称で通っていました。

この間作った「シャパラル2E」が戦ったレースイベントです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2シーター、オープンカーのレースで、1966年から1974年までが第一期、

第二期は1977年から1986年まで開催されたようですが、

もっとも人気のあった1967年から1971年あたりが、

ワタシの小学生時代レーシングカー大好きだった時代と同じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時代、カンナムを席巻していたのが、マクラーレン。

F1コンストラクタ―のマクラーレンですが、

もともとはブルース・マクラーレンという

ニュージーランド人ドライバーが始めたレーシングチームでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで、今回のタミヤ1/18マクラーレンM8A。

作ったのは去年です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年に再版されましたが、もともとは1970年発売のこのキット。

発売時は1000円。

当時小学5年生だったワタシは、1/32や1/24の

100円から500円くらいまでのプラモデルを作っていたので、

この1/18チャレンジャーシリーズは敷居が高く、

手を出せませんでした。

当時はみなモーター内蔵で走らせて楽しむプラモデルでしたので、

電池を入れる場所やスイッチ類もモールドされていますが、

これらのギミックは再版ではすべてオミットされています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時の自分にとっては、とても完成できないような複雑なキットだったのですが、

今、この歳になってみると、こんなスカスカだったのか、という感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マクラーレンのチームカラーはパパイヤオレンジ。

ワタシにとって「マクラーレン」といえば、ずっと、こちらでした。

その後、1988年からのマクラーレン・ホンダの時代になって、

やっと赤白マルボロカラーのイメージになるのですが・・・。

ということで、オレンジを塗ってみますが・・・・・

うーん、なんか頭にあるイメージと違うなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで、イエローを増量して再調整。

うーん、こんなもんかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要するにパパイヤオレンジは、オレンジではなく、むしろ黄色であった。

黄色といっても総武線の黄色ではなく、銀座線の黄色ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かくして、完成。

素組みというのもあるが、なんだかやたらあっさり完成してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チーム・オーナーのブルース・マクラーレンが、自らハンドルを握っていました。

ニュージーランド出身の彼にちなんでチームのシンボルマークは「キウイ」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もともとはモーターで走るキットなので、無人車が走ってはおかしいというわけで

ドライバーの人形が付属しています。

つまり、このヒトがブルース・マクラーレンさんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「呼んだー?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

首は真鍮線を入れているのでクルクル回ります。

わき見運転は、イケマセン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この時期、オープン2シーターのカンナムスタイルは日本でもブームで、

1968年の第5回日本グランプリではニッサンR381とトヨタ7という

ワークスのオープン2シーターマシンがエントリーされた。

優勝したニッサンR381は、

当初は屋根のあるスポーツプロトタイプでプレスリリースされたが、

本番ではオープン2シーター仕様になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、このブルース・マクラーレン氏は1970年テスト中の事故で帰らぬ人となる。

わき見運転が原因ではないはずだが、

この時代、レーシング・ドライバーの事故死は非常に多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本でも同じようなオープン2シーターである

トヨタ7のテストをしていた福沢幸男、河合稔の2名が相次いで事故死。

1969年に亡くなった福沢幸男氏の恋人は小川知子さん、

1970年に亡くなった河合稔氏の奥様は半年前に結婚したばかりの

「オー!モーレツ」の丸善石油のCMで有名だった小川ローザさんだった。

 

 

 

 

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2021.07.05

熱海の思い出

 梅雨末期の集中豪雨は

毎年日本のどこかに災害をもたらしますが、

今回は、熱海、伊豆山でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 災害にあわれ、お亡くなりになった方には

心よりご冥福申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は熱海の伊豆山には何回も行ったことがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以前も書いたことがありましたが

ワタシの祖父、祖母が伊豆山の別宅に住んでいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳鼻咽喉科医だった祖父は、

当時大学病院の助教授だった父を呼び寄せて医院を継がせ、

自分は熱海に、おそらく貸別荘みたいなものであったと思いますが、

移り住んで引退後は祖母とそこで二人暮らしをしていました。

まだ、ワタシが生まれる前からの話です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、ワタシはお正月や夏休みはよくその熱海の家で

何泊も泊まって遊んだ記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、高齢のため二人暮らしが心もとなくなり、

熱海の家を引き払って足利に戻ってきましたが、

たぶん1年ほどでまず祖母が、その2か月後に祖父が亡くなり、

その時ワタシは小学校1年生か2年生だったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、熱海の記憶はあいまいなのですが、

いくつかは鮮明に覚えていることもあり、

家の周りの急峻な坂道や、

高台にあった家の窓から

海や初島が臨めた景色は今でも目に浮かびます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱海は山から海までが近いので、

今回の土石流はおそらく

かなりのスピードだったことがイメージできます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祖父の記憶は漠然としかないのですが、

たぶん厳しい人だったというイメージがあります。

今にして思うと、

海軍軍医で自分は東郷大将と同じ墓地に入りたいといい、

東京の多摩墓地を購入したほどの厳格な軍人気質の祖父が、

キッパリ引退して当時の高級リゾート地だった熱海に住む、

というのは何となくしっくりこない印象もあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明治生まれの人というのは

大正生まれや昭和初期の人と違って

むしろそういった先取のライフスタイルに

柔軟だったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.07.03

1/25フォードGTマークⅣ

そんなそんなわけで、マニア、上級者限定キット第2弾。

フォードGT Mk.Ⅳは1967年のルマン優勝マシン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おそらくオリジナルはシャパラル2Eと同時期同メーカーでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じく厳重な包装。(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はフォードGT40Mk.Ⅱはフジミから1/24のキットが出ていて

1966年のルマン優勝車はもちろん、他のゼッケンのルマン出場車のほか、

デイトナ、セブリング、モンツァ1000km等

当時のほかの耐久レースの出場車も、

そして、その後プライベーターとしてルマンを征した

1968年、1969年のキットも出てるんですが、

この1967年のマークⅣは、これがおそらく唯一のキット。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 細かいディティールアップはしませんが、

フロントカウルのフィンはいかにも厚いので

薄くしておきます。

元は左の厚さ、右は削って薄くしたところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘッドライトもメッキの無垢なので、

削り落とします。

ここにメタルテープを貼り、

その上に適当な透明パーツで作ったレンズを載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出来上がり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、完成ですが、一番苦労した点はデカール。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゼッケンナンバーはこの時代

両サイドとボディ上部2か所の計4か所にあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、キットには3枚分しか用意が無く、

完成写真でも後ろのゼッケンはありません。

これは明らかにミスです。

タミヤあたりならアフターサービスパーツを取り寄せるところですが、

この場合はそうはいきません。

もっともタミヤならそんなミスはないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、これは白デカールにコピーして自作しました。

メンドクサイったら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、当時はビミョーと思ったこのMk.Ⅳのスタイリング。

なんか今見るとすごくカッコイイ。

バックミラーの位置が左右で違うのもユニーク。

当時のルマンは2人交替制で、

優勝ドライバーはダン・ガーニー/A.J.フォイト組でした。

ともにアメリカ人で、

アメリカ人がアメリカ車でルマンで優勝したのはこれが最初で、

たぶんその後も無いのではないか。

デカールは透けるのでゼッケンデカールは

下にホワイトデカールを切って2重にしてますが、

ストライプデカールはそのままなので透けている。💦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルーフのでっぱりはドライバーの一人ダン・ガーニーがデカいので

その頭の分だけ屋根が出っ張っているという、

いわゆる「ガーニー・バブル」と呼ばれるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにダン・ガーニーはこのレースで優勝して

その時の表彰台でシャンパンを振りまいたのだが、

これがスポーツ史における

シャンパンファイトの始まりだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この1967年の優勝以後、

レギュレーションの変更によりマークⅣはルマンには出られないことになり

フォードワークスもルマンを撤退しました。

フェラーリも同時に撤退し、

このあと数年のプライベーターの時代を経て

1970年代からのポルシェの黄金時代が到来するのです。

さあ、このユニオン1/25シリーズ、

残る1個はローラT-70  。

 

 

 

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2021.06.29

テキサスの怪鳥~シャパラル2E

 ネタ無くなるとプラモデルの話ですが。

この間、つくったのはコレ。

ユニオンモデルの1/25シャパラル2E。

ワタシの少年時代のお気に入りのクルマ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はこのユニオンモデルは今はプラモデルを作っていませんが、

この金型はもともとアメリカのIMCというメーカーのキットらしい。

カーモデルのスタンダードスケールは国際的に1/24だが、

アメリカ合衆国だけは何故か1/25というスケールがメジャーです。

パッケージにはこのような脅し文句が書かれており、

マニアまたは工作技術のある15歳以上限定。(笑)

年齢は4倍以上なので楽勝、

工作技術はともかく

マニアかと尋ねられば、まあ、そうかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、これは中箱で、

その外側には高級チョコレートのような外箱があります。

ここにも「最上級者向」の文字が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、中箱を開けると、さらに内箱が。

マトリョーシカかっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その中にはこのようなバリ多めのパーツ。

1980年ころの再販だが、オリジナルはおそらく55年くらい前のキット。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最上級者向けというのは、

細かいわりにパーツの精度が悪く、

金型の劣化からバリが多く組み立てにくいので、

クレーム防止のための措置と思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サイドのメッシュパネルを開口するのには、

たしかに手間がかかりましたが。

このようにドリルで穴をあけ、切り取って整形し、

そのあと、他のプラモデルで余った手持ちのメッシュを貼ります。

まあ、黒く塗っとくだけでもいいんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、完成。

おー、カッコイイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャパラル2Eは、実は初めて

このハイウイングを搭載したレーシングカー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャパラルとはアメリカのジム・ホールさんというヒトが

個人で立ち上げたプライベートチームで、

ウイングによるダウンフォースを

初めてレーシングカーに持ち込みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャパラル2から、2B、2Cとマシンを開発し、

2Eから、このあと2F、2G、2H、2Jとユニークなクルマを開発、

そして自らドライブしました。

このマシンは1966年。ワタシ小学1年生でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このシム・ホールさんはテキサスの石油王で、

その莫大な資産を道楽であるモータースポーツに投入。

アメリカのレースを席巻し、

同じ1966年、クローズドルーフのシャパラル2Dと、

翌年のシャパラル2Fでルマンに乗りこみましたが、

ルマンではスピードでは圧倒しましたもののリタイアに終わっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小学生の頃「テキサスの怪鳥」という、

ジム・ホールの読み物を少年雑誌で読んで熱中しました。

あれ、ピンボケ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時は「チャパラル」と呼ばれていたので、

ワタシなどはそっちの呼び方の方が馴染みがありますが、

「Chaparral」とははアメリカ南西部に生息する

カッコウ科の鳥(日本語名ミチバシリ)のことであり、

2本足で荒野を疾走することから

アメリカでは「ロードランナー」とも呼ばれるそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このウイングは、角度を運転席から変えることができ、

直線では平らにして抵抗を減らし、

コーナーではウイングを立てて

ダウンフォースを増やすことが出来ます。

そのため「エアブレーキ」という言い方もされていました。

このメカが小学生のワタシの心をわしづかみにしちゃいました。

その当時の読み物で、

チャパラルはこのウイングを油圧で動かしていると書いてありましたが、

その時はよくわからず、

中学校でパスカルの原理を学んだ時、

あーチャパラルのウイングはこれだったかと瞬間的に理解できました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はこのユニオンモデルの古いキットのシリーズ、

ヤフオクで入手し、相次いで作りましたんで

追ってご紹介します。

 

 

 

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2021.06.15

ヘルシー

ヘルシーという言葉は

英語の「健康な、健康に良い」という意味の「healthy」からですが、

最近は主として食品に対し「カロリーの少ない」

という意味で用いられることがほとんどです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お野菜たっぷりでとってもヘルシー」とか

「糖質オフのヘルシーレシピ」

なんて感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしかに高カロリーの食事による

肥満や脂肪肝は糖尿病や高血圧など

さまざまな生活習慣病の原因になりますが、

カロリーの少ないことが健康、というわけではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそもカロリー摂取過多が問題になってきたのは

日本ではたかだかこの5,60年のこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1950年代まではいわゆる戦後の食糧難が、

日本国民の健康に深く影を落としていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その前、江戸時代までは天候不良で飢饉が起こるたびに

何千、何万人もの餓死者が出て、

最大の飢饉といわれる典明の大飢饉では

日本全国で92万人もの人口減があったといいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも人類の歴史は人類の誕生以後、数百万年の間

常に「飢え」との戦いでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人類は、いや、まだ、ヒトになる前の動物の時代から、

様々な手段で、少しでもカロリーの高いものを取り込む方策を講じ、

種の生存をはかってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我々人間は血糖値を下げるホルモンは

インスリンただ一つであるのに対し、

血糖値を上げるホルモンは、

成長ホルモン、副腎皮質ホルモン(コルチゾール、アルドステロン)

副腎髄質ホルモン(カテコールアミン)甲状腺ホルモン、

グルカゴン、ソマトスタチンなど数多くあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはすべて、なんとか生物として生き残ろう、

と、ご先祖様が何千万年もかけて

苦難の末、手に入れたすべなわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地球上には依然、飢餓と戦ってる国もありますが、

日本をはじめとした「豊かな国」では、

フードロスが社会問題になり、

エネルギーを生み出さない食品が、

「健康的」になってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少なくともワタシが子供のころは、

「栄養満点」「お腹イッパイ」は売り文句だったのが、

今や「健康」と「カロリー」が

背反事項になってしまったというのは、

なかなか感慨深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とはいうものの、

ここのところ「鉄板プレート」がマイブームで

ついついカロリー過多になり、体重増え気味。

ダイエットしなければ・・・。

 

 

 

 

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2021.06.13

カレーが好き

子供のころからカレーライスは大好き。

っていうか、カレーライスがキライな子供はいったいいるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、カレーライスに関しては、

レストランで食べるより、

自宅や、キャンプで作って食べる方が美味しい、

という意見もわりと支持される方が多いのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時々カレーライスを作って食べます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハウスバーモントカレー、ジャワカレー、インドカレー、

S&Bディナーカレー、こくまろカレー・・・・

いろいろ作ったが、やはりワタシのカレーはコレだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供のころから一番好きなカレーは

ゴールデンカレーでした。

たぶん、刷り込みですね。

ゴールデンカレーは1966年発売のロングセラーです。

クロレラ入り、という記載がありますね。

クロレラは植物性プランクトンの一種ですが、

この当時「栄養豊富な未来の食品」として脚光を浴びました。

今も入ってるのかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時は高級カレーで、

パッケージの絵もお皿ではなく、

レストランで出される銀容器に盛られたデザインが

「高級感」をアピールしてます。

佐久間良子さんはどこ見てるんでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甘口、中辛、辛口と3種類の辛さが選べたのもわりと先駆的だったような。

グリコワンタッチカレーは甘口と辛口だけでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、今回は基本にのっとり、

具材はジャガイモ、タマネギ、ニンジン、豚肉。

やはり、関東地方の人間はポークカレーが初期設定です。

スパイスとしてクミンとガラムマサラを加えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お皿とスプーンは例の海上自衛隊仕様

思えば、この日はコロナによる戒厳令前夜でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり、コレだ、間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、全国的にはカレールウのシェアは

ハウスが圧倒的に高いらしい。

ある調査によれば、

1位 バーモントカレー中辛 (ハウス食品)11.49%

2位 バーモントカレー甘口 (ハウス食品)10.67%

3位 ジャワカレー中辛 (ハウス食品)6.36%

4位 こくまろカレー中辛 (ハウス食品)5.86%

5位 ゴールデンカレー中辛 (ヱスビー食品)4.54%

6位 プレミアム熟カレー中辛 (江崎グリコ)3.11%

7位 こくまろカレー甘口 (ハウス食品)2.97%

8位 とろけるカレー中辛 (ヱスビー食品)2.43%

9位 バーモントカレー辛口 (ハウス食品)2.38%

10位 ジャワカレー辛口 (ハウス食品)2.09%

ということでハウス食品、強い、

しかもバーモントカレー、最強。( ゚Д゚)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまでとは、思いませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バーモントカレーは1963年発売。

それまで、辛くて大人の食べ物だったカレーを、

リンゴとハチミツのレシピによって

子供にも受け入れられるメニューにしたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしかにカレーライスは子供のいる家庭の定番料理、

なわけなのでそう考えるとこのシェアもナットク。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「秀樹、カンゲキ!」の偉大さです。

西城秀樹さんの葬儀の会葬御礼はバーモントカレーだったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.04.11

流感を知らない子供たち

昨夜はNHKで放送されたドラマ「流行感冒」を見ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは1918年8月から1919年7月にかけての

わが国でのスペイン風邪の第1波の大流行をうけて

志賀直哉が1919年4月に発表した小説のドラマ化だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん、当時の日本でのスペイン風邪に対する出来事と

今の新型コロナウイルスのパンデミックと対比させて見てもらおう、

という意図のもと企画されたドラマでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1919年といえば、大正8年。

実はうちの父は大正8年1月3日生まれだったので、

すごいときに生まれてたんだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドラマはなかなか面白かったですが、

新型コロナウイルスの流行あってこその面白さともいえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もし、新型コロナの流行がなかったら、

あー、昔は検査キットもタミフルがなくてタイヘンだったなあ、

という感想だったかもしれぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、過去の文学作品の中のスペイン風邪という件では、

ちょっと前にこんな本も読みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これはやはり明治、大正、昭和の文豪菊池寛が

当時のスペイン風邪を題材に1920年7月に発表した小説です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 主人公は恰幅はいいが内臓が弱く、

流感にかかったら死んでしまう、

と医者に言われた作家ですが、

おそらく菊池寛本人のことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小説の舞台は

5月に市俄古(シカゴ)の野球団が来て早稲田と試合をした、

と書いてあるので、

調べるとやはり志賀直哉と同じく1919年、大正8年の東京です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2つの作品を合わせると、

当時のスペイン風邪に対する日本国民の受け止め方が

立体的に見えてきて大変興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、どちらも病気の名前については

スペイン風邪ともインフルエンザともよばず

「流感」となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「流感」とは「流行性感冒」の略で、

当時インフルエンザはこう呼ばれていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに志賀直哉の方のタイトルは「流行感冒」ですが、

これは作家が意図的にこう表記したか、

勘違いした変わりませんが、

「流行性感冒」が正しいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば、今は使いませんが、

ワタシが小学生くらいの時分にはたしかに

「流行性感冒」「流感」という言葉を使っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつからインフルエンザになったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん、インフルエンザという言葉もあったので

予防接種は「インフルエンザの予防接種」だったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その一方、1968年に従来のH1N1型から新たに流行した

H3N2型の新型インフルエンザは

「新型インフルエンザ」ではなく

「香港風邪」と呼ばれたのを覚えています。

ワタシが小学校3年生の時でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1977年から1978年にかけて大流行したH1N1は

ソ連風邪と呼ばれていました。

でもこのころは(インフルエンザ)Aソ連型、

という名称も良く使われたような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このころからか

インフルエンザは風邪では無い、区別しよう、

という動きがすこしずつ出てきたとみられ、

「流行性感冒」の名称が使われなくなったのかもしれません。

ちなみに1974年出版の小松左京氏の「復活の日」では

「流感」という言葉がまだ使われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらにネットで検索していると

2010年前後に書かれた記事で、

「今ではインフルエンザとフルネームで呼びますが、

そのうち「インフル」などと略されてしまうかもしれませんね」

などと書いてあるのを発見しました。

ことばウラ・オモテ」(2009年)

死語(164)流感」(2012年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今やもう「インフル」が普通ですね。

言葉の移り変わりのスピードは昔より早くなってるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて現在の「新型コロナウイルス」、

5年後、10年後には何て呼ばれてるんでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンクを引いたNHKのコラムでは

当時の新語「ドメスティック・バイオレンス」が

将来的に「ドメバイ」と呼ばれるか、

という議論が書いてありますが、

これは今はこの時は予想もされなかった「DV」になっていますね。

だから「新コロ」にはならないだろうなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021.01.17

切手コレクターの時代

おそらく60歳前後の、特に男子は、

多くのヒトが数の多少はあるにせよ、

かつて切手を集めたことがあるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1960年代に「切手ブーム」なるものがあり、

切手収集は趣味の王様、といわれたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記念切手の発売日には郵便局の前に列ができ、

デパートには趣味の切手売り場があり、

ガラスケースの中にさながら宝飾品や高級腕時計のごとく

プレミアのついた記念切手が並べられていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

額面が5円、10円の切手が、4000円、5000円、

中には切手趣味週間の「月に雁」「見返り美人」のように

1枚6~7万円もした切手もあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かくいうワタシも、一時は切手収集にハマりました。

もともと収集癖はあり、王冠とか牛乳瓶の蓋とかすぐ集めちゃうほうだったので。

最初は家に来た郵便から切手をはがして集めることから。

雑誌に切手のはがし方が書いてあり、

封筒を切手よりやや大きめの切って、

ぬるま湯につけてはがし、新聞紙に載せて乾かす、

という作業を繰り返しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのうち、郵便についてくる普通切手はほぼそろってしまったので、

切手のカタログを買い、

朝に夕に眺めながら、

お小遣いの中からちびちびと切手を買い集めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高額の切手はもちろん手が出ませんが、

50円から100円くらいで買える切手は何とかなります。

ワタシが買った一番高い切手は

国際文通週間の記念切手、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」で、

たしか、450円だったと記憶しています。

さんざん買うかどうか迷ったので覚えているのでしょう。

でも、この絵が大好きで、小学生だったワタシは、

それこそ、清水の舞台から飛び降りる気持ちで買いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国際文通週間は当初安藤広重の「東海道五十三次」シリーズ、

その後葛飾北斎の「富岳三十六景」シリーズで、

たしか五十三次の「蒲原」が一番高く

2500円くらいはしていたかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのほかにも国宝シリーズ、国立公園シリーズ、国定公園シリーズ、

日本の伝統芸能やお祭りのシリーズ切手もありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、ヒマがあると切手カタログを見ていたので、

そこから得た知識はなかなか侮れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌舞伎の演目は切手にあった

「京鹿子娘道成寺」「助六由縁江戸桜」「勧進帳」

を覚えました。

内容は「勧進帳」以外知りませんでしたが、

読み方は「きょうかのこむすめどうじょうじ」

「すけろくゆかりのえどざくら」と丸暗記しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国立、国定公園の名前と所在地は、

社会科の地図帳で確認し、覚えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国宝も、日本の名画も、浮世絵も、みんな切手で学びました。

阿修羅像や百済観音、尾形光琳や黒田清輝、横山大観、東洲斎写楽の名も

みんな切手で知りました。

切手に取り上げられたものだけですが・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、今どきの切手ってシール切手とかで

キティちゃんだったりドラえもんだったり。

はたまた、自分のお気に入りの写真やイラストを

オリジナルのシール切手にできるみたいで、

こうなるとコレクションという意味では、

全くありがたみがないんだなあ、これが・・・(´;ω;`)

 

 

 

 

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2020.11.01

ラジカセ大作戦(後篇)

さて、ラジカセが頭から離れず、

今はラジカセってあるのかと、

今度はネットショップを見てみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すると、こんなモノがありました。

おお、コレは、まさしく昭和のラジカセ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかも、このデザインは見たことあるぞ。

当時、ソニーのSutadio1700と、人気を二分した

ナショナル(現パナソニック)製MACのコピーだ。

実はウチの弟これ持ってました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コレは、明らかにワレワレ世代を狙った商品だ。

しかし、気になるのはお値段。

ナント6392円。

安っ。

サンスイはかつて日本の高級オーディオ機器メーカーであったが、

多分これは、中国製だな。

すぐ不具合が出るみたいで、

レビューを見てもあまりいいコメントがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ということで再びヤフオクを見てると、

おお、コレ、イイじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうも出品者は中古オーディオ機器を

メンテナンス販売する業者かマニアの人らしく、

他にも昔のラジカセを数多く出品。

このラジカセも外装分解洗浄、スピーカーネットクリーニング、

テープレコーダー部分もオーバーホールして、

ベルト4本交換、テープ速度調整済み、とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さてこのモデル、CF-1900、通称「pro1900」は

ワタシがStudio1700を買ったあと、

1973年に発売されたソニーの主力機種で音響方面に力を入れたモデル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが出たときワタシ的にはちょっと悔しかったが、

こちらはAM/FMの2バンドで短波が入らないので、

まあ、Studio1700の方が良いと自分を納得させていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2,3日悩んだが、当時の定価が38800円なので、

ちゃんと動けば、この値段はけっこうお買い得なのでは、と思い

結局、落札しちゃいました。(*^^)v

キャリングケースもついてました。

そういえば、ムカシのトランジスタラジオはみんなついてましたな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、つけてたためしはないので、外します。

持ち歩くわけでは無いし

この方がカッコイイから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カチッとして、メカっぽいデザイン。

オヤジの中に今も棲む少年ゴコロをくすぐるなあ。

しかも、持つとずしっと重い

最近のオーディオ機器はみんな軽いのです。

これぞ、世界のSONYのスピリット。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チューニングダイヤルは上面についています。

カセット部のスイッチ類はアルミキャップがかぶせてあり高級感があります。

表記はすべて英語。

最近のラジカセは「早送り」「再生」とかが日本語で書いてあって、

あれはいただけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チューニングインジケータは針が動くタイプではなく

フィルムが動くタイプ。

Studio1700もスカイセンサーもこのタイプで、

ワタシはこのタイプがお気に入り。

トーンコントロールがBASSとTREBLEに分かれているのも

それまでのラジカセにはなかったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラジオ受診(●`・ω・)ゞ<ok!

ボリュームのガリもなし。

おそるおそるカセットテープをかけると・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これもバッチリ。

サウンド的には最近の機器には比べるべくもないが、

なんいか、ナツカシイ、あたたかい音です。

レコードから録音したカセットには針が落ちて、また上がる音まで入っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とくに昭和歌謡やムカシのロックを聴くにバッチリかと。

カセットもいっぱい出てきた。

当分、これで遊べそうです。

 

 

 

 

 

 

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