ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2017.08.17

勝利を呼ぶ3本線

 

 いわゆる「ブランド物」といえば、

「ルイ・ヴィトン」とか「シャネル」「エルメス」「ブルガリ」などを指すのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一般にブランド品とは上質で作りが良く、

そしてたぶん最も大事なことは値段が高価であること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが子供のころ、昭和30年代は、

基本的に商品は近くのお店(多くは歩いて行ける)で買うものなので、

「ブランド」という概念はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めて「ブランド」みたいなものを意識したのは

サッカーを始めた小学校5年生のころ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足利市教育委員会が主宰する「足利サッカー教室」に加入していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 市内の小学5,6年生を対象にほぼ毎週市営グラウンドで練習を行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは西小から友人数人と参加した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのとき、ある小学校

(ワレワレよりずっと大人数でしかもサッカーの先進校。)の子供たちが

おそろいの巾着バッグを持っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこにかかれていた文字が「adidas」であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それまでまったく知らなかったが、

やがて、それが西ドイツのサッカーシューズメーカーであることを知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中学に進み部活でサッカーをやるころには

雑誌で見るヨーロッパの一流プレイヤーが履いている

「adidas」のサッカーシューズがあこがれの存在であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雑誌の広告のキャッチコピーは

「勝利を呼ぶ3本線」、であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、値段は約20000円と、とても中学生の手の届くレベルではナイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「adidas」と人気を2分したのが、ご存知「PUMA」。

「adidas」がベッケンバウアーをはじめとする

ヨーロッパの選手に多く愛用されていたのに対し、

「PUMA」は、断然南米、ブラジルのプレーヤーが多かった。

(この当時「Nike」は、まだ誕生前である。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「PUMA」の最高級モデルといえば泣く子も黙る「キング・ペレ」。

カンガルー革で、お値段なんと25000円ほどであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが小学生の頃はいていたのは

アキレスや月星のサッカーシューズ風運動靴、たしか1000円はしない。

中学生になって買ったスパイクは4~5000円であったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん「adidas」や「PUMA」では無く、国産のコピーモデルである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時の国産サッカーシューズメーカーは、

オニツカタイガー(現アシックス)、ヤスダ、

ヤンガー、モンブラン、ミツナガ、タチカラなど。

遅れてミズノがサッカースパイクを作り始めたが、まだ「ランバード」ではなく、

ミズノの「M」をかたどった「Mライン」、

強烈にダサかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国産メーカーはオリジナルモデルも作ったが、

「adidas」「PUMA」のラインを模した3本線、1本線の「コピーモデル」

も存在した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「コピーモデル」がある、というところが「ブランド」たる所以である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いまや、小学生が「adidas」「PUMA」のシューズをフツーに履き、

フデバコなどの文房具にまでそのロゴがついてるのを見ると、

今の時代これを「ブランド」と呼ぶ人はいないけれど、

当時サッカー少年だったワレワレ世代のオヤジたちは、

少年の日のあこがれを今もココロに秘めているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで、ワタシが買うスニーカーはこんなんばかり。

当時のサッカーシューズ風が好き。

 

 

 やはり「PUMA」はブラジルカラー(^o^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほいでもって、ついこの間、

またこんなヤツをネットで発見。

そのルックスにサッカー少年だった頃の気分が昂り、

数日間悩んだ末、アマゾンでポチってしまった・・・。

(だって一度クリックすると毎日広告が出てくるんだもの・・・。)

ラインが黄色だとさらによかったのだが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 、

 

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2017.08.12

「日活」といえば

 

 お盆の長期休暇に入ったが、特に今年は旅行の予定はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いっぽう、妻と、娘は連れだって泊りがけでリゾートホテルなんぞに行っちまった。

ワタシは、一人、イヌの世話をする・・・(^^;。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 11日は祝日だがスイミングスクールは営業中とのことで、

普段の金曜日と同じくレッスンを受け、

帰って夕食作ってビールを飲みながら録画していた番組を見る。

これも日常と同じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんか、番組いっぱいたまってるなあ、何見ようかなあ・・・・、

と思ってふと思いあたってこれに決定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この番組好きで毎回録画してみている。

ただし、このお姉さんはあまり好きなタイプではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、コレ、ずいぶん前に録画してHDに入っていたのだが、

何となく見づらくて見残していた回である。

どうも、妻や、ましてや娘の前では見づらくて・・・(^-^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日活ロマンポルノ、いやー、反応しちゃいますね。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「日活」といえば

かつては石原裕次郎や小林旭などのスターを擁する大映画会社だったが、

映画産業の衰退とともに、倒産の危機に見舞われる。

ワタシ的には「日活」=「大巨獣ガッパ」だったんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その起死回生のためにまさに社運をかけて挑んだのが

この「ロマンポルノ」だったのだ。

その第一作が公開されたのが1971年の年末。

ワタシは小学校6年生。

まさに性に対する興味が芽生えるころですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 といいながら、この後1988年まで

1000本を超えロマンポルノ作品が公開されるのだが、

ワタシはおそらく映画館では1,2本しか見たことがナイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、地方の高校生が地元の映画館で見るわけにもいかず、

初めて見たのは東京の予備校時代だったと思うが、

家庭の事情からゼッタイ二浪はできない、という状況から1,2回見たかも、

という程度である。

あー、この字体、なんと扇情的な・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この第一作「団地妻 昼下がりの情事」の主演女優白川和子さんが、

なんとインタビューに登場していました。

なんか、ステキな感じの69歳になられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 映画を見たことがないのですが、

映画のタイトルや、女優さんの顔と名前は良く知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、お世話になった「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」のグラビアは

トップがアグネスラムとか、キャンディーズの水着写真で、

その次が日活ロマンポルノの女優さんのヌード写真。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時は、雑誌でヌードになってくれるような女性はあまりいなかったのだ。

今は、みんなホイホイ脱いでるけど・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、このヒトも良く知っています。

天地真理よりも先に有名になった「元祖真理ちゃん」、田中真理さんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時の大学生に指示されていた「反体制のアイドル」といった感じだったか。

日活ロマンポルノわいせつ裁判で、無罪を勝ち取った。

ただ、ワタシが性に目覚めたころはすでに第一線からは退いていて

グラビア登場はなかったけど伝説のポルノ女優であったように記憶している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これもなんとご本人が出ていまして、動く田中真理さん、初めて見た(^^)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近になって日活ロマンポルノの映画としての素晴らしさが

認識されてきているようで、大変興味深かったです。

 

それにしても、NHKでこんな番組ができるなんて、

当時は思いもよらなかったでしょうね。

そういえば、ロマンポルノ出身の美保純さんは

いまやNHKの昼間の番組のレギュラーですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜も更けたので、もう、寝ますか。

明日も散歩行こうね。

 

 

 

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2017.07.23

新宿の夜

 

 昨日は、外来終了後、東京へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目的地は新宿。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 毎年恒例、大学時代の仲間が集まる「同窓会」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「同窓会」といってもオフィシャルなものではなく、

東京近郊にいて集まれる人だけが、集まって飲む、

というオヤジ呑み会、です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場は毎年変わりますが、決まってることは

「新宿で開催」ともう一つ「3時間飲み放題コース」の2点。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同期で耳鼻咽喉科を選択したのは2人のみ。

ワタシとこの林くん。

彼はこのたび、横浜の300床もある総合病院の院長に就任したそうだ。

「院長スゲエな」といったら「オマエも院長だろが。」とかえされた。

ま、そりゃ、そうですけど・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このメンバーになると、一気に30余年をさかのぼれるのがスゴイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3時間飲み放題コースを飲み倒し、また、新宿の町へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、またまた、飲んでしまうのだった。

皆さん、ますますお元気で何より。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、来年あいましょう。

 

 

 

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2017.07.14

あこがれのハワイ

 

子供の頃に読んだ雑誌で、

太平洋プレートは日本の手前で落ち込んでいるので、

その移動に伴って日本とハワイの距離は年間数センチずつ近づいている、

ということを知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハワイが日本に徐々に近づいているので、

そのうちに茨城まで行けばひとまたぎで、ハワイに上陸できる、

という記事はなかなかにインパクトがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろんその日が来るのは8000万年くらい先だ、というわけだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんか、最近それを思い出すのは、あの例の一件である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハワイのごとく遠いあこがれの存在であった足利女子高が、

ナント向こうから近づいてきて、陸続きになるわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大きな声では言えないが、ワタシが足高生のころ、

天文部の友人に誘われて部室に行くと、

高校の屋上にあるその部屋から、彼ら天文部員は足女を「観測」していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別に着替えやプールを覗くわけではなく、

廊下を歩いている女子高生を眺めるわけである。

(足利高校は女子高の北にあるので、

校舎の構造上、教室ではなく廊下側の窓が見える。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、天体望遠鏡なので上下逆さまであった。(ーー;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなはるか遠くの存在だった女子高が、統合されるなんて・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシの周囲の足高のOBの意見としては、

「ウラヤマシイ」とか

「また高校に入りなおしたい」

というような(不純だが)肯定的な意見が多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが、この間、杏奴ライブの時に聞いた話では、

どうも足利女子高OGのお姉さま方は、この統合に大反対らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 統合されればおそらく名前は「足利高校」になってしまう可能性が高いので、

そこが気に入らないのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、ワタシの意見としては、学校は卒業生のものではなく、

いま在学してるヒトのものなので、

すでに卒業しちゃったヒトビトがとやかく言う筋合いはないと思っております。

 

(でも、意外と現役の学生間でも足高生はワクワクしている一方、

足女の生徒の方はヤダー😩とか言ってる気もする。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、ワタシ、足利高校の校医なんですけど、

そっちの方はどうなるんでしょうねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現時点での足利女子高の校医は市内の耳鼻咽喉科医を仕切る重鎮のA先生。

もうお互い20年になるが、そもそも、今の振り分けも

「僕が女子高見るから、センセイ足高頼むね。」

というA先生の鶴の一声で決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まさか、男子と女子と分けて健診、ってのもヘンだし、

「ああ、それなら、オグラ先生、全部診てよ。」

なんていわれたら、ちょっと負担大きすぎですがな。

 

 

 

 

 

 

 

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2017.07.04

昭和57年2月

 

この間、久坂部羊氏の本を読んで面白かったので、

またお医者さんの書いた本を読んでみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この本、だいぶ以前に買って、ワタシの「積ん読」コーナーにあったものだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イントロで、この作者が工学部の学生のころ、

医師である父がたまたま上京し、ひさびさに会食をする場面になる。

思春期以降対立していた親子がひさびさに、心が通い合うような雰囲気になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、その晩、そのお父さんはホテル火災で亡くなってしまうのだ。

ホテルニュージャパンの火災事故だという。

その後、作者はサラリーマンになるが思うところあって医者になるのである。

この本は、その研修医時代を実話に基づいて書いた作者のデビュー作らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、そういえば、ワタシの母校、群馬大の脳外科の教授も

そのホテルニュージャパンの火事で死んじゃって、学内大騒ぎだったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と思って、何となく作者の名前を見たら「川渕圭一」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はっ。( ゚Д゚)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしか、群馬大の亡くなった教授も川渕教授だったような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マサカと思って読み進むと、間違いない、この作者の川渕氏は

あの群馬大の川渕教授の息子さんであり、

ナントワタシと同い年であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忘れもしない1982年(昭和57年)2月。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ワタシは大学3年生、

ということは医学部専門課程の1年次で、

群馬大生の間で「地獄の学1」と呼ばれる、キビシイ期末試験の真っ最中であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学1は「解剖学」「生化学」「生理学」を学び、

わが群馬大にあってはもっとも「留年(落第)」の危険性の高い年次である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな中に起こった「ホテルニュージャパン火災事件」。

死者33人の大惨事で、その背景には

ホテルの安全管理に関する重大な落ち度が認められ

「人災」の側面が次第に明らされていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勉強しなきゃならないのに、つい、ワイドショー見ちゃうじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかも、そのまさに翌日起きたのが、24人の犠牲者を出した「羽田沖日航機墜落事故」。

あの「機長の『逆噴射』」の一件である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

機長が精神的問題を抱えていたことが発覚し、

こちらも「人災」の要素が次第に追求されて行く。

「心身症」「逆噴射」は流行語にまでなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おー、勉強に集中できない、なんとかしてくれー・・・・。

(テレビ見なきゃいいわけだが、なかなかそうもいかず・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえばそのちょっと前、

1月30日にはイギリスのパンクバンド「クラッシュ」の来日コンサートを

新宿厚生年金まで見に行ってしまい、

同級生から、学1の期末試験前にいい度胸してるぜ、と脅されたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸い、ワタシは無傷で学1を突破したが、留年になった同級生も少なからずいました。

(クラッシュの件でオレにプレッシャーかけた奴は落ちた。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再試験になった同級生に頼まれて

家まで資料もって「家庭教師」に行ったりしたなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非常に印象深い「春」だったので、よっく覚えております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ということで、本の感想はまた別の機会に。(^_^;)

 

 

 

 

 

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2017.06.30

足高、足女、合併( ゚Д゚)

 

今日の「下野新聞」のトップ記事。

 

 

足利高校はワタシの母校である。

 

 

 

 

 

 

 

 

なるほど、最近定員割れやら、人数縮小やら、いろいろ聞いてましたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、有名大学進学の成績も以前に比べて低迷してるようで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはおそらく、

少子化の影響、

この足利市そのものの人口減少・都市としての衰退、

そして、近隣や首都圏の私立進学校への優秀な生徒の流出が

地盤沈下につながっていたということは充分考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我々のころはこの地域の進学校といえば足利高校しかなく

「足高(あしたか)」ブランドはそこそこ権威があったと思う。

群馬県からの「越境入学」もけっこうありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシも小中では一応成績トップクラスであったが、

高校に入ると、なかなか1ケタ取るのは難しく、

さすがに足高はアタマいい奴多いなあ、という印象であった。

(だが、高3の時、一回だけ学年1番取ったのはハッキリ言って自慢です。(*^^)v)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかも、同級生はみんな、普段からよく勉強していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

校則はゆるく、服装や髪形も自由度高く、

それでいて勉強できるのはカッコいいぞ足高生、と思っていたものだ。

男子校として旧制中学のバンカラ校風の「痕跡」程度は残っていたような・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、共学、しかも足利女子高と合併統合ですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足利女子高、通称「足女」のこととなると、また語りたいことイッパイあるんですが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一言で言えば、ともかくあこがれの存在でしたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんど相手にされませんでしたが・・・・。(T_T)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、これも時代の趨勢、この統合により

新時代に向けて母校のますますの発展を期待するわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、共学になっていいとこ見せようと男子生徒の成績が上がるか、

それとも邪念が入って、成績低下になるか・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オレだったら、どっちになっていただろうか・・・・。

 

 

 

 

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2017.06.02

学校のセリフ

 

学校検診が、終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月から始まり、5月はほぼすべての昼休みがつぶれたが、

今月からは「自由の身」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、学校というのは誰でも子供の時行くわけだが、

基本的には「閉鎖的社会」であり、病院などと同じように

学校独特の「業界用語」というか「言い回し」があるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

校医になって、いったん「娑婆」に出て学校に行ってみると、

そんなことに気づく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けっこう気になるのが「命令形でない敬体文による命令」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何のことかというと一般にはうるさい子供たちに対し

「はい、静かにしなさい。」

という命令形で指示をする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが、学校では特に女性の先生はこれをしばしば

「はい、静かにします。」

という普通の敬体文で「命令」するのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「きちんと並びます。」

「口をききません。」

というのは

「きちんと並びなさい。」

「口をきいてはいけません。」

という、命令文の意味なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うーん、コレは学校以外では使わない言い方なのでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校の先生はそのことを意識して使ってるのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、この言い方、フツーの命令文よりも「有無を言わさぬ感」が強く

威圧的、効果的なような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドラマなんかで使ったら、ぐっとリアリティが増すこと間違いなしですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、こんなことがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご存知のようにワタシは毎朝イヌの散歩で、階段の上の神社まで往復する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝の散歩やトレーニングの人に出会うと、たいがいは

見ず知らずの人でもお互いに「おはようございます。」と挨拶をかわす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この間、階段を下りていくとワタシよりも

おそらく一回りくらい年上と思われる男性とすれ違った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とくに、目を合わすわけでもなく

すれ違いざまに普段通りに「おはようございます。」と声をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

するとその初対面の初老のオジサンは軽くうなづきながら

「はい、 おはよう。」

と返答した。

(ゆっくりした口調で、「はい」と「おはよう」の間に0.5秒くらいのインターバルあり。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あー、このヒトきっと、退職した元校長先生に違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017.04.28

アメリカン・ロック

 

うーっむ、ドゥ―ビーブラザースを聴きに行ってから

めっきりアメリカン・ロックにハマってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近はそのような傾向は希薄になったが、ワレワレがロック小僧だったころ、

ブリティッシュ・ロックとアメリカン・ロックの間には大西洋なみに深い違いがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビートルズに端を発するブリティッシュ・ロックの流れは、

その後、クリームやフリーに代表されるブルースロックの流れ、

フェイセスやローリングストーンズなどのロックンロールバンド、

レッド・ツェッペリンやディープ・パープルをはじめとするハードロックのバンド、

そして、キングクリムゾンやイエスを含むプログレッシブロックの一派などが、

大きなうねりをもってロック界を席巻していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その中には様々な音楽性が含まれるが、共通するイメージは「暗い」ということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一年を通じて雨の日の多いイングランド、霧に代表されるロンドンのイメージである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一見明るい曲調のキンクスやバドフィンガーでもその裏には何か吹っ切れない暗さが垣間見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、アメリカン・ロックは「陽」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジェファーソン・エアプレインやCSN&Yに始まり、

のちによりカントリーテイストを含んだイーグルスやドゥ―ビーブラザースによって

一時代を画していくウエストコーストロック、

オールマン・ブラザースやレーナード・スキナードなどの

サザンロックのルーツはやはりブルースやカントリー、

東海岸でエアロスミスやボストンが誕生するのはそのもっと後の話で

当時のアメリカン・ハード・ロックといえば

ランドファンク・レイルロードとステッペンウルフであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、ブリティッシ・ロックとアメリカン・ロックは

「陰」と「陽」、「都会」と「田舎」、「洗練」と「粗野」

といった対比で語ることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロック小僧は聴くだけならどちらかを選択することを求められることはないが、

ことバンドをやるとなるとこの相異なるスタイルはさすがに両立しにくいので

やはり自分は○○派だ、という意思決定をすることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ワタシは「ブリティッシュ・ロック派」であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校時代一番好きだったバンドは「フリー」だったし、

高校のバンドでは、ディープ・パープルの曲を好んでとりあげた。

もちろんアメリカン・ロックも聴いていたけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが、大学に入って、軽音楽部に入り、

いよいよ目一杯バンドやるぞ、とおもったら、

群馬大学医学部軽音楽部にはアメリカン・ロックのバンドしかなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同級生ではメンバーも見つからず、仕方なく先輩のバンドに入れてもらい、

ギターを弾かせてもらったが、

その時に先輩リーダーの趣味で演奏していたのが、

イーグルス、フールズゴールド、そしてドゥ―ビーブラザースだったのであった。

(ちなみに当時軽音にもう一個あったロックバンドはザ・バンドやCCRを演奏していた。

その他はフォークソングとジャズであった。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うーん、グンマは原野に空っ風吹きすさぶ日本のテキサス、

この地にはやはりカントリーロックしかないのかー、

と大いに落胆したものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、その後、2年生になって自分がリーダーとなるバンドを結成したのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、今回ドゥ―ビーブラザースのコンサートを見て、

大変懐かしくなり、

その時は、「やらされていた」バンドであるが

楽しそうなので、今度この手のバンドできないかなあーと思ったりするのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2年前に見たロバート・フリップは相変わらずむっつりギターを弾いていたが

今回、トム・ジョンストンもパット・シモンズも実に楽しそうに演奏していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰か、一緒にやりません?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017.04.27

ドゥ―ビーブラザース日本公演

 

来たぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

行くぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつもながら、この坂を上ると、気分がアガるなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんか、こう城に攻めあがるサムライの気分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸に向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地に着き、まずは物販に並ぶ。

列は短い。販売開始は17時から。

昨日のポール・マッカートニーはこんなのんびりしたペースではなかったはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パンフレットの販売はなく、Tシャツとパーカー、バンダナ購入。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意外と肌寒く、パーカーはすぐ役立つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開場18時までしばし間がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度目の武道館かなあ。

一番最初は、1975年、クイーン初来日公演であった。

この前はディープ・パープルだったかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その1975年当時、全米で圧倒的人気を誇り、

ヒットチャートに3曲も同時にチャートインしていたバンドが

この「ドゥービー・ブラザーズ」であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

席は2階席、武道館は東京ドームに比べれば相当コンパクトなので、結構見やすい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ツインドラムがウリだったが、今はドラムは1台のようだ。

ちょっと、残念。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7時ちょいすぎ、開演。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オープニング・チューンは「キリストは最高」。

物販で並んでるときこの曲のリハーサルの音がもれ聞こえていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回はスマホの撮影はOK。

トムジョンストンも元気そうだし、パット・シモンズも遠目には変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「テイクミーインユアアームズ」「ブラックウォーター」「スィートマキシン」・・・

お馴染みのヒット曲が続く。

オーロラビジョンも舞台装置も無いシンプルなステージだが、

曲の魅力でぐいぐい引っ張っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一応、マイケル・マクドナルド時代の

「Takin’ It to the Streets」もサラッとやったが、

全体に「キャプテン・アンドミー」「ドゥ―ビー天国」

あたりのアルバムからの曲が多く、ノリノリである。

これぞドゥ―ビー(≧◇≦)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに「Doobie Brothers」は血縁の兄弟などは全く関係なく、

「Doobie」とはスラングで「マリファナ」の意味。

当時のワタシが読んだ音楽雑誌の「ドゥ―ビーブラザース」のグラビアのタイトルは

「ノリにノッてるヤク兄弟」!!! (゚Д゚;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ダークアイドケイジャンウーマン」はヒット曲ではないが、

大学に入った時、軽音部で先輩のバンドに入って演奏した曲。

ナツカシー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チャイナ・グローブで締めたあと、

アンコールは「ウィザウト・ユー」そして最後は

お約束のリッスン・トゥ・ザ・ミュージック」。

会場は大合唱。・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1時間半余りの比較的短いステージでっあったが、大満足。

まあ、向こうもこっちも年寄りだからなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、今回一緒だったのは大学時代の同級生、佐野くんと小川くんである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人とも明日は横浜で外科学会に出席とのこと。

オレは仕事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあと、近くの飲み屋で今夜のコンサートの感想を語りつつ旧交を温める。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故か、行き当たりで入った店はカープファンの集う広島お好み焼きの店であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、今回もう一人の同行者は佐野くんの病院の元事務、

なんと27歳の正岡さんである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お父さんが洋楽ファンでその影響を受け、

自身もシンガーソングライターを志して四国から上京したという。

こう見えて暗い歌を歌うらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音楽の話、学生時代の話など、話題は尽きない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんか、カープも無事巨人に勝ったみたいでヨカッタヨカッタ。

(店内の広島ファンは盛り上がっていた)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シメは当然、広島風お好み焼き。

美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いくつになっても音楽と友人は心を青春の日々に戻してくれる。

またの再会を楽しみにして、各々帰路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシはまた北千住駅最寄りの宿に泊。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝の始発で戻って、仕事です。

 

 

 

 

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2017.03.25

馬のマークの参考書

 

 先日の万博記念館で教学研究社が万国博覧会のガイドブックを出していてビックリ、

という記事を書きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、気になって「教学研究社」を調べてみると、

これは大阪の会社だったのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてさらに衝撃の事実が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その「教学研究社」は2012年に倒産してしまっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ありゃまー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ドリル関係が多かったような記憶があり、

けっこう大手だったような気がしたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにワタシはしばらく会社名を「数学研究社」と間違って認識していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんで「数学研究社」が漢字ドリル出すんじゃい、なんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中学参考書の大手といえば似たような名前の「受験研究社」が有名です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワレワレ世代であれば

「〽ウマ―のマークのさーんこうしょ、受験、じゅけーん研究社」

のテレビコマーシャルは誰でも覚えがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この会社のフラッグシップとも呼べる参考書があの「自由自在」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのネーミングのカッコよさとコマーシャルに魅かれて、

書店で何回も手に取ってみたが、

その厚さ、ボリュームの多さに、とてもコレは手に負えない、

ワタシにとっては全く「不自由自在」だと思い、結局買いませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 という話を妻にしたら、何と妻は中学時代「自由自在」を使っていたという・・・(@_@)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が言うには情報が多く文章による書き下し調なので、

まとめや復習には向かないけど、予習にはもってこいだという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナント、サスガ優等生は違う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自慢じゃないがワタシは中学時代授業の予習をしたことは1回もありません。

(ホント自慢じゃねえな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先読みするのは卑怯、授業での出会いを大事にしたい、

と勝手にいいわけしていましたが、

いわゆるただのサボリです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 参考書はもっぱら中学コースの付録についてる、

テスト対策用小冊子で済ましていたような・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにこの「受験研究社」も本社は大阪で、

「自由自在」は今もあるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たしか「応用自在」ってのもあったなあ、と調べてみるとこれは別の会社の本の様です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかもこの手の検索で上がってくるのは有名中学受験対策サイト!

ってことは小学生が参考書を使うのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うーん、イマドキの小学生は大変なんっすねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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