ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2020.07.20

Go To トラベル

新型コロナウイルスが流行してから、

いろいろな「新語」が登場しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「三密」「クラスター」「ソーシャル・ディスタンス」なんて言葉は

半年前に聞いたら、何?

という感じでしたが、すっかり「定着」しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても横文字好きの小池知事の影響なのか

ヘンな英語まじりの言葉が多いような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もともと小池さんは「クール・ビズ」など、

カタカナ新語を作るのが好き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあいだの「東京アラート」もしかり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「東京アラート」もヘンテコな言葉ですが、

そのあと神奈川県知事が発出した「神奈川警戒アラート」は

さらにオカシイ。

「アラート」が警報、警戒の意味だから、言葉が重複しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、このたびの「Go Toトラベル」に至っては、

文法上の誤りがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“go”は「自動詞」なので、目的語には「前置詞」が必要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこそこに行く、という場合の前置詞は”to”で、

”go to the hospital”とか”go to Tokyo”でいいわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ですが、「目的地」ではなく「行為」を現す場合、

たとえば「ピクニックに行く」や「旅行に行く」は

“go on a picnic”、”go on a trip”

と”on”を用います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、名詞で使うなら”travel”の前に”a”もしくは”the”、

あるいは複数形で”travels”でなければおかしい。

だが、”go on a trip”は普通に使いますが、

“go on a travel”とは、英語ではあまりいわないようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  “travel”は、名詞もありますが、通常は動詞で使うことが多い。

あるいは”traveling”と現在分詞で用います。

“I want to go traveling abroad.”のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、どうでもいいことですが、

「GO to トラベル」という言葉を聞き馴染んだ中学生が、

英語の試験で間違わなければいいな、

とは思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに”go on a picnic”は、

いまを去ること約45年前の受験生のころ

英語の先生が、

「いいか、ゴー・オンナ・ピクニックだぞ。

ピクニック行くなら、男より女の子と行く方が楽しいに決まってるだろ。」

と、教えてくれたので、

男子高生だったワタシには非常にインパクトがありました。

以来、これは、もう一生忘れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.06.06

影響を受けたレコード(国内編)⑪「STOP JAP/ザ・スターリン」

さて、前回予告(?)の通り、ザ・スターリンです。

ザ・スターリンは1981年12月にインディーズから

デビューアルバム「Trash」を発売しているが、

2000枚の限定生産で、

放送禁止用語連発のため放送や再発はなく、

その音を聴くことはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、ザ・スターリンの名前は

メディアを通じて多く耳にしました。

だが、その内容は、音楽記事ではなく

「過激なパンク・バンド」

「変態的パフォーマンス」

「荒れるステージ」

「熱狂のあまり暴徒となる観客」

「会場が破壊されるためコンサート会場はどこも出入り禁止」

といった、三面芸能記事的なものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この「噂のスターリン」を初めて耳にしたのが、

1982年7月1日、徳間音工から発売された「STOP JAP」。

スターリンのメジャーデビュー盤です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザ・スターリンに関してのワタシの印象は

「いまさら、パンク?」

というものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1977年に誕生したパンク・ロックは、

その爆発的エネルギーで音楽業界の下克上を起こしただけでなく、

社会現象として芸術、ファッション、風俗の分野

などに影響を及ぼしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、そのビッグ・バンは猛烈なスピードで拡散し、

次々に新しいものに姿を変えていったので、

その根源的なパンクロックのスタイルは、

すでに、むしろ時代遅れ、ダサいもの、

になっていったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、パンクロックの一つの重要なファクターに

テクニックの否定、があったのですが、

当初は

「テクニック<スピリット、アティチュード」

という式だったのが、そのうち

「テクニック<センス」

という数式にすり替わっていったことが原因です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、パンクの根源的なエネルギー、

欲求不満のはけ口、社会に対する不満の受け皿、

というニーズは、テクノポップや、アヴァンギャルドでは受け止められず、

スターリンの様なバンドを求めていた層が存在し続けていた、

ということでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザ・スターリンのアルバムを聴いた印象は、

セックス・ピストルズの「Never Mind the Bollocks」

を聴いた印象に大変近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、音作りの上手さです。

インディーズのパンクバンドがレコード盤で再現できなかった、

ヘビィでクリヤーな音が記録されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠藤ミチロウは、セックス・ピストルズのアルバムを研究し、

クリス・トーマスが行った、ギターを何重にも重ねて、

音の厚みを出す手法を使ったそうです。

ある意味「後出しじゃんけん」な故に、

本アルバムは高い完成度を持っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、歌詞。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福島随一の進学校から

国立山形大学の人文学部を出た遠藤ミチロウは

おそらく文学少年であったと思います。

少なくとも文学の才能は豊かで、この点でも

前回の「INU」の町田町蔵と共通点があり、

実際、二人は個人的にも交流が深かったといいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠藤ミチロウの文学性は、

ザ・スターリン解散後のソロプロジェクトでも

確認することができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アコースティックギター1本での弾きかたりスタイルになった

遠藤ミチロウの曲は、非常に内省的で、暗い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はここに彼の本質があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、パンクロックという「時代の器」があったために、

彼の音楽表現があのような形になった、

と言うことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、この間書いた遠藤賢司が、1960年代に

「フォークソング」という「時代の器」を使って

自己表現をしたことと同じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一見、破天荒でめちゃくちゃな変態バンドに見えるザ・スターリンは、

実は、冷静な計算による演出と

確かな演奏、録音技術に裏打ちされた

プロフェッショナルなパンク・バンドでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、パフォーマーは冷静でもオーディエンスは過激。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは大学時代に「ザ・スターリン」の前座をしたことがありますが、

いやもう、怖かったのなんの。

その模様は以下のブログに書いています。

アメリカばかりがなぜ赤い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1983年4月にザ・スターリンは3枚目(メジャー2枚目)

のスタジオアルバム「虫」を発表します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠藤ミチロウの言語感覚はますます研ぎ澄まされ、

このアルバムでザ・スターリンはバンドとしての頂点を極めます。

それは、また、パンクロックというジャンルに限れば、

日本のパンクロックの一つの完成形といっていいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このあと、ザ・スターリンはメンバーが流動的になり

パンクからの脱却を試みた「Fish Inn」を1984年末に発売したのち、

1985年1月15日に解散します。

遠藤ミチロウによると「Fish Inn」は

「ザ・スターリンをいかに殺すか」

が、テーマだったといい、

「パンクロックという器」が、

もはや彼の本意ではなかったことを示しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、その2か月後、

ワタシは大学を卒業し、

4月に医師国家試験をうけ、無事、合格。

バンドも解散し、研修医として新たなスタートを切ったのでした。

 

 

 

 

 

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2020.06.05

影響を受けたレコード(国内編)⑩「メシ食うな!/INU」

影響を受けたレコード(国内編)も10枚目。

当初は10枚のはずで、あらかじめ10枚選んだのですが、

途中で、これもいれなければ、というものがあり

どうしてもおさまりきれなくなり、

12、3枚くらいになっちゃう模様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9枚目は「メシ食うな!/INU」1981年3月1日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時群大医学部は最初の2年間は医学進学過程、といって

荒牧キャンパスで一般教養、英語、数学、物理、社会学、心理学などの科目を履修。

3年生から附属病院のある昭和キャンパスにうつり、

解剖実習などの医学部の専門的な内容に入ります。

3月はその直前で、前橋で下宿探しなんかをしていたころですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒涛の1980年を経て、音楽シーンは変革を続けていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パンクロックのスタイルは完全に過去のものになり、

ポストパンクやニューウェーブといた「次の一手」が

模索されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その流れの一つは60年代ポップスへの回帰を含んだ、

いわゆるパワーポップ、と呼ばれる路線です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルビス・コステロを筆頭に

ニック・ロウ、グラハム・パーカー、ジョー・ジャクソン、スクイーズ、

などはポップなメロディを持った軽快な、

しかし、60年代の明るさとは違う

どこかねじれたロックンロールを演奏していました。

また、コーギスやブロンディ、プリテンダーズなども

60年代風の曲で人気を呼びます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いっぽう、パブリック・イメージに代表される、

アヴァンギャルド、ノイズ・ミュージック的なアプローチも見られ、

ポップ・グループや、コントーションズなどは、

サックスをフィーチャーしたフリージャズ的な演奏を取り入れ、

独自の流れを作っていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とくにイギリスの

ラフ・トレード・レーベルに所属する一連のアーチスト、

キャバレー・ボルテイル、ペル・ウブ、モノクローム・セットなどは

オルタナティブといわれるジャンルを確立しつつありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本もシーナ&ロケッツは60’s調の

「ユー・メイ・ドリーム」をヒットさせ、

ザ・ヴィーナスはオールディーズ風の「キッスは目にして!」で大ブレイク、

常に時代に敏感であった沢田研二は

「おまえがパラダイス」「渚のラブレター」と

60年代ポップスを下敷きにした曲のあと、

ネオ・ロカビリー調の「ス・ト・リ・ッ・パ・-」で

1981年のレコード大賞金賞を受賞しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしていっぽうのポストパンク、オルタナティブ系としては

この間あげました「フリクション」が、

いきなり完成度の高いアルバムを発表しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PASSレコードは日本のラフ・トレードとでもいうべきレーベルで、

「フリクション」のほか、

「Phew」「突然段ボール」「グンジョーガクレヨン」

など、のちにオルタナティブといわれるような

先鋭的、前衛的なアーティストが所属していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、大阪から突然登場したのがこの「INU」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このバンドについては大阪ということもあって、

一切の事前情報がなく、

いきなりラジオの新譜紹介で聴いて、

ぶっ飛んでレコード屋に走った、

というものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとから知ったことですが、

もともとは高校生バンドで

ストーンズやチャック・ベリーのような

オーソドックスなロックンロールをやっていたバンドが

セックス・ピストルズの洗礼を受け、

さらにパブリック・イメージ・リミテッドに影響され

ポストパンクの音になっていったといいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その高校生バンド時代の名前が「腐れおめこ」だそうですが、

本当にこの名前でチャック・ベリーやってたんだろうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、ジャケット写真を見てもわかる通り、

このバンドはボーカルの町田町蔵氏のワンマンバンドといってもいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

町田町蔵氏は、こののち1996年に作家に転向。

町田康名義で数々の文学賞を受賞し、

2000年には純文学の最高峰である「芥川賞」を受賞しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバムの作曲は半分ですが

作詞はすべて町田町蔵が手掛けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音は過激なノイズミュージックですが、

歌詞は非常に言葉が選ばれているという印象。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

収録されている「つるつるの壺」は、

のちに同じ名前の随筆のタイトルになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここが、このあと出てくる(ネタバレですが)

ザ・スターリンと非常に似ている点です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文学少年だったと思われる遠藤ミチロウのスターリンと

INUは互いにシンパシーを感じていたようで、

遠藤ミチロウはザ・スターリンのメジャーデビューアルバムで

「ワルシャワの幻想」という、

このアルバムのタイトルチューン「メシ食うな!」に対する

アンサーソングをレコーディングしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうしてみると、ワタシの日本のロックの好みとなると

海外の作品と違い「歌詞」が、

好きか嫌いかの重要な要素になっている、

ということがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音の趣味はもちろん、最重要なのですが、

歌詞が幼稚だと、そっちが気になってどうも曲に入り込めない。

同時代の「ボウイ」とか「アナーキー」が

めちゃくちゃつまらなかった理由はそこだな。

 

 

 

 

 

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2020.06.04

影響を受けたレコード(国内編)⑨「RHAPSODY、PLEASE/RCサクセション」

RCサクセションという奇妙なグループを知ったのは

1972年から1973年にかけてのはず。

1972年12月20日に発売されている「三番目に大事なもの」

が、ワタシが初めて聴いたRCサクセションだったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、フォークソングにハマっていて、

ガロの「君の誕生日」や、よしだたくろう「伽草紙」、

かぐや姫の「僕の胸でおやすみ」などをラジオからカセットに入れ、

雑誌「明星」「平凡」のソングブックを見ながら、

買ってもらったばかりのモーリスギターで

弾きかたりに挑戦していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、この「三番目に大事なもの」は、

うまく歌えなかった。

忌野清志郎、変な歌い方をするシンガーだな、

という認識でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、RCサクセションの名はあまり聞かなくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、ワタシの音楽志向が

日本のフォークから海外のロックに変わった、ということだけではなく

RCサクセションそのものが、売れなくなり、

活動休止状態になっていたためでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、1980年を迎えRCサクセションは、

突如、それも全く違った姿でシーンに登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまでのねじれたフォークグループではなく、

ノリノリのロック・バンド、ライブ・バンドとして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それには1979年に古井戸の解散とともに

RCサクセション加入を発表したチャボこと仲井戸麗市の存在が大きいが、

忌野清志郎自身も、ウイキペディアによると

複雑なコード進行の曲ばかり作って行き詰ったことの反省から、

シンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つ

ローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねたそうです。

そして、この頃、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンに影響を受け、

それまで長くしていた髪を切り落とし、

ステージでは髪の毛を立てたり奇抜なメイクを施すようになったという。

ここでも、セックス・ピストルズが登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、この再スタートになる4年ぶりのアルバムを

ライブアルバムというかたちで発売したのが良かった。

1980年6月5日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1980年4月5日の久保講堂でのライブを、

1980年6月5日にリリースする、というスピード感も重要だが、

スタジオ盤を出すべきというレコード会社の声に対し、

ライブの勢いを伝えたい、

という忌野清志郎が押し切ってのライブ盤発表だったとのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、日本のライブ盤の中でもおそらく1,2を争う名盤です。

ほかに思い浮かぶのは

「キャンディーズ・ファイナルカーニバル」くらいか・・・。(^^)v

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、バンドは1980年のサブカルチャーブームの中で

新しい若者文化の象徴として日本のロックバンドの旗印に祭り上げられます。

当時ワタシが熱心に愛読していた雑誌「宝島」にも

たびたび特集が組まれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝島の熱心な読者だったワタシ自身も、

このRCサクセションにハマりました。

ロックのカッコよさ、ライブの楽しさをこんなに体現できるバンドは

それまであまりありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのステージには、忌野氏が参考にしたという

ザ・ローリング・ストーンズの姿が垣間見え、

本家ストーンズの来日は、おそらく未来永劫ないだろう、

と思われていた時代ですから、

これが日本で見られるとはアリガタイ的な

感覚もあったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「雨上がりの夜空に」はバンドでもコピーし、

ダンスパーティーでこの曲を演奏すると最高に盛り上がりました。

またまた、発掘写真。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1980年10月にはスタジオ録音のニューシングル

「トランジスタ・ラジオ」を発表。

歌詞には、忌野清志郎の洋楽ポップスへの愛が満ち溢れていて、

ワタシは、とくに

「ベイエリアから、リバプールから、

彼女が聞いたこともないナンバーを聞かせてくれるトランジスタラジオ」

という、くだりが好きでした。

忌野少年が聴いていたのは、間違いなくFENでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに続き、新生RCサクセションの初のスタジオアルバムとして

1980年12月5日に発売されたのが、この「PLEASE」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは大いに期待をもって、このアルバムを聴きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1曲目の「ダーリン・ミシン」では、

お正月に向けて彼女が僕へのプレゼントに

赤いコール天のズボンを縫っている、という設定が、

ちょうど、発売日の季節感とマッチして印象的でした。

歌詞の内容としてはおよそロック的ではない、

むしろ四畳半フォークの素材かとも思いますが、

これはアメリカのルーツミュージック的な

ブルースに対するオマージュと読むことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このアルバムを聴いて感じるのは、

忌野清志郎氏がいかに黒人音楽としてのブルース、

およびリズム&ブルース、ソウルミュージックを敬愛しているか、

ということです。

「Sweet Soul Music」では、

オーティス・レディングのドック・オブ・ベイが織り込まれ、

「例えばこんなラブソング」でも、R&Bに対する愛が感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 折しも1980年はアメリカで

映画「ブルース・ブラザース」が公開され、大きな話題を呼びました。

日本公開は、このアルバムの発売から間もない1981年3月でしたが、

すぐに映画館に見に行きましたが、

カッコよさにすっかりシビレました。

これが、このアルバムのカッコよさとシンクロします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他にも「いい事ばかりはありゃしない」は、ひょっとしたら

ザ・ローリング・ストーンズの

「You Can’t Always Get What You Want」が

ベースになってるんじゃないかなあ、

などと、聴いてて楽しくなってくる曲ばかりでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 RCサクセションはロックバンドでありながら、

フォーク出身なので、忌野清志郎氏の書く歌詞は、

非常に素晴らしい。

特に好きなのが「ぼくはタオル」。

パンクロックの歌詞はこうでなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本語のロックバンドに多くある、

シラケてしまうほど稚拙な歌詞とは、レベルが違う。

この同じ年、日本のパンクバンド「アナーキー」がデビューしています。

クラッシュのカバーなんかがあって、曲は良かったのですが、

ともかく、歌詞が幼稚でひどかった・・・。

なまじ日本語だと、ここが悩みどころです。

たぶんライブだと、歌詞が聞き取れないから

そうでもないんだろうけど。

その後、最近までのJ-POPも歌詞は適当ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1980年のこの「大爆発」によって

こののち、RCサクセションは日本を代表するロックバンドとして

長く君臨することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2件のコメント
2020.06.03

影響を受けたレコード(国内編)⑧「Drink!/ジューシィ・フルーツ」

1980年は、ロックの価値観が

ひっくり返っていった時代。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インディーズ、テクノブーム、サブカルチャー、ヘタウマ、

キッチュ、コピーライター、ポップアート、通好み・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 感覚的な印象、センスとアプローチが重視され、

テクニックや楽典、重厚さや仰々しさが忌み嫌われる時代になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長髪や革ジャンはカッコ悪い、

ギターソロや、チョーキングはダサい、

ツーバスのドラムセットよりはリズムボックスのほうがイマ風で、

ボーカルは熱唱、シャウトはダメ、という具合。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DEVO、B-52’sなどの海外バンドに加え、

本邦でもプラスチックスなどが人気を博しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのなかで、グループサウンズや、ベンチャーズサウンドが見直され、

ジャガーや、ジャズマスターなどの過去の「ダサい」ギターや、

国産のテスコ、グヤトーンなどの「ビザールギター」が

時代にマッチしたルックスであるとリバイバルします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オールディーズ風のアレンジが時代の流行になり、

太田裕美の「さらばシベリア鉄道」(作曲:大瀧詠一)

YUKI(岡崎友紀)の「Do You Remember Me?」(作曲:加藤和彦)

などは1980年のリリース。

1979年の「愛しのキッズ/プリテンダーズ」の影響を感じさせます。

「シーナ&ロケッツ」はこの路線で

「ユー・メイ・ドリーム」をヒットさせました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、オールディーズのスタイルを取り入れたとはいえ、

それはピッタリ重なるようにコピーをしたものではなく、

ほぼ360°回ってきたけど、

サークルではなくスパイラルなので、

水平に見ただけではあまりわからないけど、

斜めに見ると違いが浮き出て見える、

というものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、近田春夫の登場です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近田春夫氏は、電撃的東京で、歌謡曲を270°回転させて、

ユニークな音世界を作ったのですが、

それをさらに進めて、

360°回転させたアイドル歌謡を作ろうとしたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、一般大衆にはアイドル歌謡曲にしか見えないけど、

見る人が見れば最先端の洗練された音とわかる

アーティストを作ろうと、考えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近田春夫氏のバックバンドであった「BEEF」をもとに、

ギターのイリアこと奥野敦子さんを前面に立てて

つくったのが「ジューシィ・フルーツ」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、おそらく、近田春夫氏の想像以上に当たった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジューシィ・フルーツのデビュー前、

近田春夫氏はバンドのコンセプトについて語っていて、

でも、ホントに大衆が勘違いしてヒットチャートに乗っちゃうかもね。

などといっていたのですが、

実際にデビュー曲「ジェニーはご機嫌ななめ」はオリコンの5位まで上がり、

ザ・ベストテンなどの歌謡番組に登場するまでになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バンド名の「ジューシィ・フルーツ」は

1974年のロック・ミュージカル映画

「ファントム・オブ・パラダイス」に登場する

ロックバンドの名前からとっており、

実はその前身の「BEEF」も

その映画に登場するオカマロックシンガーの名前です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボーカル兼リード・ギターのイリアさんは、

1977年に日本のランナウェイズとして結成された

ガールズバンド「GIRLS」のメンバーでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、本家「ランナウェイズ」と同様、

レコード会社が「仕掛けた」バンドで、

メンバーのニックネームである、

ジニー、イリア、リタ、レナ、サディの頭文字をとって

「G.I.R.L.S.」ということになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、これは当初仮の名前で、「ガールズ」のバンド名を

テレビ番組で一般公募したのですが、

結果、そのまま「ガールズ」になり、

司会者が「それでは、ガールズの正式名はガールズに決まりましたー。」

と言ったので、見ていたワタシは大いにシラケた記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガールズは1979年に解散し、

イリアさんは近田春夫氏のバックバンドに参加しますが、

ボーカルのリタさんは、「ピンナップス」

というニューウエーブ系のバンドに参加し、ちょっと売れました。

この辺、ランナウェイズのジョーン・ジェットと

リタ・フォードみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなわけで、デビュー前から興味津々だった

「ジューシィ・フルーツ」、

デビューアルバムが、この「Drink!」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これも、相当ハマりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歌謡曲風な味付けなのに、

その目で見るとウラの仕掛けがみえて、

またそれが「楽屋落ち」のように自己満足心をくすぐります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何より、このバンドがどんどん有名になってゆくのが不思議でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、ワタシが大学生当時使っていたギターは、

グレコのBG-800、愛称「ブギー」というギターですが、

イリアさんも、同じモデルを使っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、買ったのはワタシの方が先です。<(`^´)>

お茶の水のイシバシ楽器でハードケース付き定価¥80000のところ

6万円ちょっとで買った記憶アリ。

もちろん、当時は消費税などありません。

写真は大学時代のワタシ。ワカイナー、オレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.06.02

影響を受けたレコード(国内編)⑦「軋轢/フリクション」

1977年のパンクロック誕生を経て、

ロック・シーンは明らかに構造改革が進んでいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大手レコード会社が、

ヤマハポプコンとか、イーストウエストといった

大規模ミュージックコンテストで優勝したバンドを

商品として売り出す、という方法ではなく

のちに「インディーズ」といわれる

自主制作盤や、カセットテープを輸入レコード店においてもらい、

いわゆる「ライブハウス」で活動を行い、

そこから、口コミ、ミニコミで評判を集め、

頭角を現してくるバンドが出てきたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1979年3月に発売されたアルバム「東京ROCKERS」は

そんな、新宿、六本木のライブハウスで活躍する、

東京ロッカーズといわれたバンドのライブ盤で、

そこに参加していたのが

リザード、S-KEN、ミラーズ、ミスター・カイト、

そして、今回取り上げるフリクションでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの「フリクション」は、

坂本龍一のプロデュースにより

1980年4月25日、パスレコードから初のフルアルバムを発売しました。

このアルバム、発売時のレコード帯のコピーから

「軋轢」と呼ばれているが、

正式タイトルは「フリクション」らしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ワタシは田舎の大学2年生。

パンク、ニューウェーブにどっぷりつかっていましたが、

東京のライブハウスに出かける

時間的、金銭的余裕もなく、

また、そんな怖そうなところに一人で行く度胸もなかったので、

音楽はもっぱらラジオ、雑誌、レコードに限られていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑誌の記事で興味を持って購入したのが、

このアルバム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

衝撃的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまで、ロックに関しては、

ともかくロックはアメリカ、イギリスのもの。

日本のロックなどとても同じ土俵では語れない、

と思い続けていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サディスティック・ミカ・バンドにしろ、

四人囃子にしろ、

あくまで「日本のロック」として、評価していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、このアルバムのサウンドは、

アメリカや、イギリスのものと同列、でした。

いや、むしろ、パブリック・イメージとか、ポップ・グループより

カッコイイかも、と思ったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、このアルバムは「日本の」という前置きをつけずに

ワタシのプレイリストに加えて、何の違和感もない、

と感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンバーはレック(Ba、Vo)、チコ・ヒゲ(Ds)、ツネマツマサトシ(Gt)

の3人組ですが、

ライブの緊張感が伝わるようなサウンドは、

ニューヨークで活動していたメンバーの鍛えられたグルーブ感と、

やはり、この時期ノッていた坂本教授のプロデュース力が

結実したものでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レック、チコ・ヒゲの2人は

ニューヨークのニューウェーブシーンの中心であった、

ジェームス・チャンスのコントーションズに参加していた、

というのも和洋の違和感のないアルバムになっている要因でしょう。

「ジェームス・チャンス&コントーションズ」の「BUY」、

また、別名義での

「ジェームス・ホワイト&ブラックス」のアルバムは、

大学時代の愛聴盤で、

このあいだの10選にも、加えるか迷ったものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかくワタシ的には、このレコードは

ヨーロッパの文化であるF1で、

ホンダのマシンが優勝した、と近い感覚の驚きでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音はいわゆる「ポスト・パンク」の流れで、

のちに「オールタナティブ」というジャンルができる前夜のサウンドです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メタリックでノイジーなギターと、

縦割りの重く激しいリズム。

そこには、パブリック・イメージにはない

疾走感を併せ持っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本語のボーカルの載せ方もユニークで、

曲のスピード、雰囲気をスポイルすることなく、

見事にハマっていました。

ジャンル、スタイルは違うが、日本語の処理は、

「外道」を聴いた時の印象に近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、残念なことに

こののち、ギターのツネマツマサトシが脱退してしまい、

彼は「E・D・P・S」を結成し、

フリクションはメンバーチェンジを行いますが、

どちらも、その後、このアルバムほどの輝きを

見せることはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミュージシャンとプロデューサー、

そしてなんといっても時代が絶妙にクロスした上に出来上がった、

瞬間芸術的な作品でした。

 

 

 

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2020.06.01

影響を受けたレコード(国内編)⑥「1980X/PANTA & HAL」

当初の予定ではあらかじめ10枚を選んで

Facebookの投稿を始めたんだけど、

このあいだ、コメントで「一人忘れてる!」

と気づかされて、のこのアルバム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6枚目「1980X/PANTA & HAL」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PANTAこと中村治雄氏は、「頭脳警察」のリーダーで、

そのバンドの名前は、早くから知っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「頭脳警察」という、凄いロックバンドがあるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、その音を聴くことはなかなかできませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田舎の中学生にとって、

ロックバンドのライブに行くなどということは

まったく考えられず、

ロックのソースはラジオとレコードのみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが「頭脳警察」が1972年に製作したファーストアルバムは

いきなり、その過激な内容から発売禁止。

その直後に製作された「頭脳警察セカンド」も3曲が放送禁止だったが

発売後1か月でアルバムそのものも「回収」「発禁」に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、噂ばかりが先行し、

ライブ中にズボンを下ろしてマスターベーションをしたそうだ、

コンサートが出入り禁止になったらしい、と

いろいろ聞くけど、肝心の音はなかなか聴けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、「頭脳警察3」が1972年10月に発表されたが、

ワタシが最初に聴いたのは1973年3月に発売された「誕生」からの

「やけっぱちのルンバ」だったような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとから聴くとこの曲は、

それまでの「頭脳警察」の過激さは消えており、

相次ぐ「発禁」「放禁」にやけっぱちになったPANTAが

カネのためにレコード会社に迎合して書いたような曲にも聞こえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシが「頭脳警察」の曲をまとめて聴いたのは、

NHK-FMで放送された「若いこだまスタジオライブ」だったと思います。

調べてみるとどうも1975年8月の放送だったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記憶が定かではないのですが、

5夜連続で日替わりで日本のロックバンドの

スタジオライブを放送する、というもの。

出たのは「頭脳警察」「クリエイション」「イエロー」

「めんたんぴん」「テツ山内&グッドタイムスロールバンド」だったような。

ひょっとして「四人囃子」も出たかも。

司会は当時「若いこだま」のパーソナリティーをしていた

サンディー・アイさん。

のちに「夕焼け楽団」の久保田真琴氏と結婚(のちに離婚)、

「サンディー&ザ・サンセッツ」を結成します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このとき録音したテープは繰り返し聴きました。

今は、どこへ行ったか・・・。

たぶん相当な「お宝」のはずですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、この番組で過激だった「頭脳警察」を追体験したわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、その直後「頭脳警察」は解散。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PANTAはソロとして「PANTAX’S WORLD」を1976年に発表。

「屋根の上の猫」や「マーラーズ・パーラー」などに

かなり影響を受けました。

今回、これを取り上げようとも思ったのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後1977年の「走れ熱いなら」を経て、

1979年にPANTA& HALとして

ムーンライダースの鈴木慶一プロデュースの

「マラッカ」をリリース。

グループ名の「HAL」は、当然

「2001年宇宙の旅」のコンピューター「HAL9000」

からとったものだと思われます。

名曲「つれなのふりや」を含む名盤ですが、

その翌年1980年に、同じく鈴木慶一プロデュースで発表したのが

今回の「1980X」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしか、初めて聴いたのはNHK-FMの

渋谷陽一のヤング・ジョッキー、

あるいはその後のサウンド・ストリートで、

PANTA本人をゲストによんで、

曲についてのインタビューをしながらアルバムを紹介する、

という番組だったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのサウンドは前年の「マラッカ」とは全く違うものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マラッカ」がタイトル通り

東南アジアの赤道直下の海がテーマで、

レゲエや、フュージョン的なサウンドを取り入れていたのに対し

「1980X」は、テーマは「都市」。

演奏は一転してソリッドなロックサウンドでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり変革の1980年を迎え、

パンクからニューウェーブ、テクノポップの台頭を受けて

時代の流れに舵を切った、ということでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロデューサーの鈴木慶一氏は、

「HAL」のメンバーに、もう長髪の時代じゃない、

といって髪を切らせたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルバムに収録されシングルカットされた「ルイーズ」は

1978年、世界初の体外受精で誕生した女の子の名前。

当時は「試験管ベビー」といわれ、大ニュースでした。

このことは倫理的、宗教的に物議をかもしましたが、

その後不妊治療の決め手として、多くの人に福音を与え、

これを成功させたエドワーズ教授は2010年に

ノーベル医学・生理学賞を受賞しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バンド「頭脳警察」のネーミングは

フランク・ザッパの「Who Are The Brain Police?」

からとったといわれていますが、

そのザッパの「Brain Police」は

ジョージ・オーウェルが1949年に出版した

小説「1984年」に登場する「Thought Police」(思想警察)

に由来するといわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1984年が舞台であるこの小説は

近未来の管理社会の恐ろしさを描いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このアルバム「1980X」は小説の舞台となった

1980年代を実際に迎えるにあたって、

「試験管ベビー」のようにかつては想像もできなかった

テクノロジーの進歩とともに

PANTAは「臨時ニュース」や「IDカード」という曲で、

知らず知らずのうちに我々の周囲に忍び寄る

管理社会の危険性を切り取って見せていたかのようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、PANTA氏は反戦や反原発を訴えながら、

70歳を迎えた今も現役のロッカーとして、活躍しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発禁だった「頭脳警察」のアルバムも

CDの時代になり、相次いで再発売され、全て所有しています。

どちらかというと「頭脳警察」時代の粗削りなサウンドが好きなのですが、

リアルタイムということですと、

この「1980X」が一番かな、ということで選びました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2018年11月この「1980X」を再現したライブが開催され、

あのPANTAを生で見た、ということは

非常に感慨深いものがありました。

 

 

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2020.05.31

影響を受けたレコード(国内編)⑤「In A Model Room/P-MODEL」

影響を受けたレコード5枚目は1979年8月25日発売の

「In A Model Room/P-MODEL」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初にこのバンドの曲を聴いたのは

「Kameari Pop」でした。

ラジオから流れたこの曲を聴いたとき、

それまで聴いたことのない不思議な曲だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエローマジックオーケストラのデビューによって、

テクノポップは時代の最先端の音楽スタイルになっていましたが、

このサウンドは、YMO経由ではなく、

テクノポップの元祖である

クラフトワークから直輸入といった印象でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとから知ったのですが「P-MODEL」はもともと

プログレッシブ・ロックのバンド「MANDRAKE」が前身。

セックス・ピストルズを見て、時代の流れを感じ、

パンク路線に転向した、といいます。

ここでも登場、セックス・ピストルズ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバムは1979年8月25日発売。

初回プレスはピンク色でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしかにこの「Kameari Pop」はテクノポップですが、

アルバム全体を聴くとパンク~ニューウェーブ色が強く、

初期のXTCと似た印象を受けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1979年7月25日先行シングルとして発売された

「美術館であった人だろ」がA面1曲目ですが、

「Kameari Pop」とずいぶん違った印象にちょっと戸惑いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボーカルも演奏もパンク風の曲調ですが、

印象的なのはキーボードの使い方。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、テクノポップは「ピコピコ」

という擬音で表現されることが多かったのですが、

P-MODELの曲で用いられている「ピコッ」という音が気に入って

バンドで使いたいと思い、弾けもしないシンセサイザーを買いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このアルバム発売の少しあとだと思いますが、

ニューウエーブ~テクノポップのバンドが、

テレビに出演してスタジオライブをやる、という番組がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芳村真理さんが司会をしていたのを覚えているのですが、

調べてみると、それはどうも

日本テレビで金曜日の10時から放送されていた

「金曜娯楽館」という番組だったようです。

司会は山城新伍さんで、女性司会者の2代目が芳村真理さんで

1979年12月から1980年8月まで担当、とありますから、

この間であったと考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時出たのが「P-MODEL」のほかに、

「プラスティックス」「ヒカシュー」で、

この3バンドは当時「テクノ御三家」といわれていました。

いかにもマスコミ的、テレビ的な括りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽コーナーの司会は、

このあいだ、「電撃的東京」で紹介した

近田春夫氏が担当していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ、芳村真理さんをよく覚えているかというと、

当時の若者の「新奇な」音楽を紹介する、というコンセプトで、

芳村真理さんは「ヘンテコな若者の音楽が理解できないオバサン」

という役回りだったと思われます。

演奏中、顔をしかめ、耳をふさいで、

そのあとで、「ちょっと、ちょっと、新伍ちゃん、何コレ?」

と言っていたのが大変印象に残っているからです。

実際に、理解できなかったと思われますが、

あのリアクションは番組の演出だったのかも、と今は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにこの3バンドはすでに知っていましたが、

同じ番組に出た「チャクラ」は衝撃的でした。

「福の種」を歌ったと思いますが、

ファンになりレコードを買いました。

その後の、小川美潮さんのソロアルバムも好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒカシュー」は舞台演劇出身、

「プラスティックス」はイラストレーター、グラフィックデザイナー、

ファッション・スタイリストなどの音楽経験のない

アート系の人が集まって作ったバンドでしたが、

その中で「P-MODEL」は、

ロック・バンドとしてやってきた中で、

時代の匂いに敏感に反応して音楽性を変えてきた、

という意味ではワタシはシンパシーを感じたわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このアルバムに入ってる「MOMO色トリック」では

「ユージさんにはわかるまい」

「アホのリノでも見に来るぜ」

という歌詞があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでいう「ユージさん」とは、音楽評論家の今野雄二さんのことで、

当時、洋楽レコードのライナーノーツを多く書いていた

「洋楽崇拝者」の今野さんに、

「P-MODEL」が酷評されたことを受けての歌詞です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アホのリノ」とは、その今野雄二氏が司会を務める

水曜イレブンの、アシスタントだった「かたせ梨乃」さんのことで、

かたせさんは今でこそ立派な女優さんですが、

当時は11PMのカバーガールで、

オッパイの大きいだけのお姉ちゃんと認識されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この「MOMO色トリック」は、

ワタシが大学2年生で「不滅の男」ウスイくんと結成したバンドの

デビューライブで、最後に演奏しました。

1980年6月のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのバンド名「LANDSALE(ランドセル)」は

その2か月前、1980年4月25日に発売されたばかりの

「P-MODEL」の2nd.アルバム

「LANDSALE」からいただきました。

「ランドセル」と「売国奴」のダブルミーニングです。

メンバーチェンジを繰り返しつつ、

ワタシとウスイくんが卒業するまでこのバンドは継続しました。

ナツカシイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.30

影響を受けたレコード(国内編)④「東京ワッショイ/遠藤賢司」

遠藤賢司は日本のフォークソングの草分け的存在です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フォーク・ソングとはもともと「Folk(民族の)」歌、という意味ですから、

もともとは「民謡」という意味です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリカで生まれたフォークソングは、

1930年から40年代にウディ・ガスリーが

民謡、ゴスペルなどに取材した音楽を、

反戦や、資本主義者に反発する歌詞に載せた独自のスタイルを作り、

コンテンポラリー・フォークとして現在のフォークの原型となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、ボブ・ディランに継承されたこのスタイルは、

メッセージ性を前面にし「プロテスト・フォーク」といわれます。

その中でピーター、ポール&マリーのように

公民権運動などのメッセージ性を強くを持った歌詞を歌いながら、

美しいコーラスを聞かせるアーティストがでると、

そのうち、メッセージには興味ないけれど、

美しい声やコーラスが好き、というファンも出てきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すると、フォークソングは次第に分化してゆき、

スタイルだけを踏襲しながら、

メッセージ性のない、主として恋愛の歌などを歌う

フォークシンガーも増えてくるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のフォークソングもこの流れをなぞっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のフォークソングは1960年代に最初のブームを迎えますが、

このときのアーティストは、

時代の学生運動を受け、

ベトナム戦争反対や日米安全保障条約反対と結びついて

メッセージ性の強い反戦歌を歌ったシンガーが多い。

この時に岡林信康、加川良、中川五郎、高田渡などとともに

第1期フォークブームを担ったのが遠藤賢司なのです。

その後、叙情派フォーク、四畳半フォーク、商業フォークなどが

派生してゆくわけですが、

初期のフォークシンガーは骨太のメッセージを持った「反体制」派で、

アコギ1本であっても、そのスピリットは

のちの「ロック」や「パンク」に極めて近いものでした。

そんな彼が1979年1月に発表したのが、

この「東京ワッショイ/遠藤賢司」です。

1979年1月21日といえば、

ワタシが浪人の時受けた第1回共通一次試験のちょうど1週間後です。

経済的事情から私立大学医学部の受験はなかったのでしたが、

国公立大の来る二次試験に向け、

準備を怠りなく進めなければいけないときでしたが、

ラジオは聴いていました。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはさておき、

そんなわけで、「フォークシンガー」であった遠藤賢司が、

時代のパンクムーブメントの勃興を受け、

このような「パンク・フォーク」というべきスタイルのアルバムを作ったことは

ある意味必然のことだったともいえます。

このアルバムの前、1975年に彼は「HARD FOLK KENJI」という

ロックにインスパイアされた作品を発表しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本人のインタビューを見ると、

このアルバムは「セックス・ピストルズ」を聴いて触発された、

と明言しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで、もう一人上げなくてはならないのが、

ニ―ル・ヤングの存在です。

カナダ出身、バッファロー・スプリングフィールドを経て

クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、

そして、自身のバンドクレイジー・ホースを率いてのバンド作品や、

ソロ作品を数多く発表しています。

遠藤賢司はハイトーンの声もあり、

日本のニ―ル・ヤングと呼ばれたこともありしたが、

その後の音楽的変遷も、また、重なるところがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのニ―ル・ヤングが1979年に発表したアルバム

「ラスト・ネバー・スリープス」は

まさに「パンク・ロック」「セックス・ピストルズ」に触発された作品で、

歌詞にも「ジョニー・ロットン」が登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洋の東西を隔てて熱いスピリットを抱き続けた

フォーク界の草分け、重鎮が同じようなコンセプトのアルバムを

発表したことになります。

しかも、時間的には遠藤賢司の方が、1年以上早い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかも遠藤賢司の方がブチ切れ方がすごい。

このアルバムは音楽的には「電撃的東京」のような

パンクアルバムではありません。

パンクにインスパイアされながらも

フォークシンガーとしてのエンケンの個性を残し、

アコギ1本の曲もあれば、

また、バラエティに富んだ独自の世界観を展開しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「哀愁の東京タワー」では、

「クラフトワーク」のパロディ的に

いち早くテクノポップを取り入れています。

まだ、イエロー・マジック・オーケストラの

デビューアルバムが出た直後、

ソリッド・ステート・サバイバーより前です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大学に入ってから、同級生でロック好きなやつがいないかなあ、

と思っていたのですが、

あるときウスイくんと話をした時に

同じく一浪の彼が、ロック好きであることを知りました。

「オレは群大の入学試験の時に

エンケンの『不滅の男』を口ずさみながら試験会場に入ったんだ」

という話をきき、コイツしかない、と思って

それまでまったくバンド経験のない彼を引っ張ってバンドを結成したのでした。

 

 

 

 

 

 

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2020.05.29

影響を受けたレコード(国内編)③ 「電撃的東京/近田春夫とハルヲフォン」

影響を受けたレコード(国内編)第三弾はコレです。

「電撃的東京/近田春夫とハルヲフォン」1978年6月21日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このレコードを語るには、まずあるテレビ番組について書かなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その番組とは「ロックおもしロック」。

1978年4月から東京12チャンネル(現テレビ東京)で放映が始まった

関東ローカル番組。

放送は毎週日曜日午前10時からの30分。

提供はグレコギターの「神田商会」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時としては画期的なロックの情報番組で、

プロのミュージシャンのスタジオライブもあったが、

アマチュアバンドがその腕前を競う、

「勝ち抜きバンド合戦」というのも面白かった。

爆風スランプの前身、「スーパースランプ」と「爆風銃(バップガン)」は

ともにこのコーナーに出ていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、この番組司会が近田春夫さんだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハルヲフォン」というバンドは知っていて、

エドガー・ウィンターみたいにキーボードをぶら下げて弾くヒトだ、

とは知っていたのですが、

この番組の近田春夫氏のコメント、語り口に興味を持ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、彼がパーソナリティーを務めていた

ニッポン放送のオールナイトニッポンを聴くようになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は1978年10月から同番組火曜2部を担当していました。

ラジオ深夜放送オールナイトニッポンは

第1部が午前1時から3時まで、第2部が3時から朝の5時まででした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ワタシは受験に失敗し、浪人生。

神田駿河台の駿台高等予備校午前部に通う身分でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、当時我が家には子供を東京に下宿させる経済的余裕がなく、

ワタシは4月から毎日足利市から新御茶ノ水まで電車通学をしていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当然、特急列車なんか使う贅沢はできませんから、

毎朝6時30分発の普通列車。

乗換は1回ですが、片道2時間かかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時のワタシの生活は

午後2時くらいに予備校が終わったあと、夕方帰宅。

夕食を食べ、風呂に入ったあとは疲れているのでとりあえず就寝。

夜中に起き、夜食を食べて朝まで勉強。

朝飯を軽く食べて、自転車で駅まで行き

6時半の各駅停車に乗り、そこで仮眠をとる。

北千住で超満員の千代田線に乗り8時半に新御茶ノ水に着き、

9時から授業、以下、その繰り返し、

という毎日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学時代から勉強はラジオを聴きながらの「ながら族」でしたから、

午前3時から5時までの深夜放送ももれなく聴けたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その番組は近田春夫氏がずっとしゃべり続ける、

というものでした。

というと、当たり前のように聞こえますが、

ここで「ずっと」というのは、

曲をかけている間も、ああだ、こうだ、としゃべり続け、

曲の途中でも、ああ、この曲はもういいや、今度はこの曲行きましょう、

と、別の曲をかけさせ、さらにまたしゃべり続ける、

というような破天荒なものでした。

そしたら、ナント、当時の放送の一部がYoutubeにありました。

Youtubeおそるべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで、近田氏が強調していたのは「歌謡曲のすごさ」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロック・ミュージシャンでロック番組の司会をしているので、

ロックの曲や情報が聴けるかと思いきや、

「もう、オレは、歌謡曲しかかけないからね。」

といい、流れる曲はすべて歌謡曲。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで近田氏が歌謡曲を実にロック的に聴いてることにビックリ。

歌謡曲が、しっかりした音楽的素地を持った

才能あるプロ集団によって生み出されており、

ヘタなロックや、ニューミューックのアーチストなど、

足元にも及ばない音楽だ、ということを知らされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都倉俊一、馬飼野康二などのヒットメーカーがいかに偉大か、

そして、日本ポップス歌謡界の巨人、筒美京平氏に対しては

最大級の敬意を払っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまで、歌謡曲の作者など、

あまり考えたことのなかったワタシには、

まさに目から(耳から?)ウロコの話ばかりで、

歌謡曲のすごさ、カッコ良さを再認識させられたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな近田春夫氏が自身の音楽理論を体現すべく(?)

作成したのが、この「全曲歌謡曲のカバー」(ただしラスト1曲を除く)

という、その名も「電撃的東京」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おなじみの歌謡曲が、ほぼすべてパンクロック風のアレンジになり

矢継ぎ早に耳に飛び込んできます。

原曲は森進一ですが、

この、ベースのビビン、という音から入るイントロのカッコよさといったら・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もともと「ハルヲフォン」は、ナイトクラブの箱バンとして、

ソウル、R&Bの洋楽カバーから、グループサウンズ、ムード歌謡まで、

お客の好みに合わせて何でも演奏していたバンドなので、

演奏力は高い。

これはザ・ピーナッツの曲。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それまでの歌謡曲の固定観念を取り払い、

歌謡曲を再認識させてくれる格好の入門書でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、このアルバムは、来る80年代に向けて、

新しい音楽が、市場を席巻する可能性を予見していたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すなわち、ニューウエーブの台頭と、

新しいポップカルチャー、サブカルチャーの展開。

歌謡界では、松田聖子、小泉今日子や、たのきんトリオなどの、

アイドル黄金時代の到来。

ベンチャーズや、三橋美智也、平山三紀などに

新たな角度からスポットがあてられ、新しい解釈でブームになること。

それら、1980年代初頭の社会現象の一つの預言書としても

このアルバムを聴くことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、わかるか、わからないかで、その人のセンスを問う

「踏み絵」的な存在でもあったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、このレコードの影響で、

ワタシはレコード屋さんに田原俊彦のファーストアルバムを買いに行き、

高校生の頃から馴染みのレコード屋のお兄さんに、

いったい、どうしちゃったんだよ、といわれ、

そののち、大学生になってから結成したバンドで、

「哀愁でいと」のパンク・バージョンを自らアレンジして演奏したのでした。

 

 

 

 

 

 

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