2009.09.04
この夏は女も恋もいらない。
何とか金を稼いで教習所に通い、車を買うのじゃ。
熱い思いで、出勤したのではあったが、社会はあまり甘くなかった。
「よろしくおねがいしまーす。」
班長だか課長だかに導かれて、工場の中に入る。
がらーんと高い天井の大きな部屋中にリフトみたいのがめぐらされており
そこに無数の金属の箱がつるされて流れていく。
そう、ここは石油ファンヒーターをつくるラインだ。
考えればわかることだが、夏用のエアコン、扇風機なんかは冬のうちに
冬用のストーブやファンヒーターは夏のうちに作るのだ。
時は真夏、頭ではわかってもこの暑いのにファンヒーターっつうのはどうもピンとこねえなー。
「ハイ、じゃあ、始まるからね。」
ってなにが始まるかと思いきや、あちこちの拡声器からみょうに明るい音楽が。
そして、アニメの声優みたいに異常にハイテンションなお姉さんの声で
「おはようございまーす。サンヨー体操の時間でーす。
さあっ、今日も一日ガンバリましょう。ハイ、いちにっ。」
なな、なんだこれは。
始業前に体操をするって言ったのが気になってたけど、まさかオリジナルの体操があるとは。
まあ、見よう見まねですぐ覚えちゃいましたけど。
しかし、この手のってどこの企業もあるのか?
東芝体操とか日産体操とかちょっとありそうだけど。
ソニー体操とかカシオ体操なんかもあるのかしら。
カシオ体操ってテクノっぽかったりして。
コマツ体操や新日鉄体操はあったらキツそうだけど。
さて、作業開始。
最初はラインのつながってないところにファンヒーターの外枠や台座を運ぶ仕事。
大学受験の浪人生活で体力はかなり落ちてるところに、なれない仕事はきつい。
あっという間に汗だく。
そもそも工場の冷房はラインのところどころに吹き出し口はあるけれど
全体としては天井が高いこともあってほとんど冷房が効いてない。
最初の休憩までが長かったこと。
10時に休憩があり、ビンの牛乳が配られる。
一気飲みして(もちろん腰に手を当てて飲む)
一息つくとあっという間にまた作業再開。
12時のサイレンで開放され、仲間と食堂に向かう。
「いやー、キツイ、キツイ。」
「もう体ガタガタだよ。」
「お、何食べるかー。」
「カツどん、定食、なんでもあるぞ。」
「いや、ちょっと待て。カツどん400円、定食500円、こんなもん食ってたら金たまんないぞ。」
「あ。そうか。」
「我々は自宅組なんだから栄養は家で稼いでここは出費を抑えないと。」
と、いうわけでそれから1ヶ月、我々の昼食は毎日「素ウドン150円」だった。
食券を買おうと並んでるところに女性工員さんたちのグループが。
「あら、こんにちは。」
Oが声をかけられる。
「あ。どーも。」
「おい、O、何で知ってんだよ。」
「いや、オレあのヒトたちんとこで仕事してるから。」
「えー。女のヒトいるの?」
「いや、女ばっかだよ。おばさんが多いけど若いのもいるぜ。
あの人たちオレの横に座ってんだ。」
「ナニ、座って?お前、座って仕事してんの?」
「いや、だってラインだから。」
Oの行った「製造3課」は、流れ作業のラインで座って簡単な部品を取り付けるらしい。
重いものを持つわけではないので女性が多いわけだ。
一方、我々の配属された製造1課は、ファンヒーターの本体を溶接やプレスで作るところ。
広い工場内は男しかいない!
それでバイト代同じかよ、ずりー!不公平じゃん!
どうやら貧乏くじを引いたみたいだ。
さて、素ウドンをすすって、午後1時から再び作業。
工場内の気温はさらに上がっている。
3時に牛乳とまた体操。
時計は壊れてんじゃないかと思うくらいゆっくりとしか進まない。
へとへとになって1日が終わった。
うえー、これから帰って夜7時からは家庭教師だ。
まずは風呂はいんないと。
しかし、ここでへこたれるわけにはいかないのだ。
~さらに続く
2009.09.03
前回、夏休みの話を書きましたが、
そーいや、夏休みバイトもしましたね。
高校生、浪人の頃はもちろんバイトどころじゃないですが、
一浪の後晴れて大学生になった夏の話です。
入学したのは群馬大学。
入学して思ったのが、「車が欲しい!」
群馬県といえば自家用車の所有率が全国1位。
地下鉄や路面電車はなく、バスも鉄道も路線本数が少なく、
ともかく、車がないと移動が不便でしょうがない。
遊びもあるが、買い物や通学など自家用車がないと生活が困難な土地です。
一方我が家は、父が急死してから、自家用車(サニーでしたね)は運転する人がいないので
売ってしまって家にはありません。
車も欲しいが、我が家に収入もなく私自身も奨学金で大学通ってるので
まさか車買ってくれともいえない。
その前にまず教習所に行って免許も取らねば。
「バイトしかねえべ。」
すでに春から、地元で家庭教師のバイトはしていた。
当時、足利の自宅から自転車、電車、バスを乗り継いで2時間近くかけて大学まで通ってました。
両毛線は本数が少なく、お昼で授業が終わる日は
前橋駅で1時間も電車を待つ、ということもよくありました。
ここは、ひと夏バッチリ働いて、教習所+中古車の頭金くらいを捻出したい。
というわけで、夏休み前のある日職安に足を運んだのだった。
ちょうど、同じ群馬大の工学部に通ってる同級生と東京に大学に行ってる同級生と
落ち合って、一緒に働くことにした。
例のロックな高校生だったベースのO君たちだ。
「やっぱ製造業かな。」
接客は苦手だし、配達は運転免許ないし、ということで工場で働くことにした。
当時、今のショッピングモール「ハーベストプレイス」のところは
「サンヨー電器」のでっかい工場があり、ここなら自転車で通えるので
ここで働くことにした。
作業服を渡され、オリエンテーションを受ける。
「エー、出勤は8時、8時半から体操やってその後作業です。
君たちは4人だから一人製造3課に、後の3人は製造1課に回ってもらう。」
O君が一番小柄なので、ライン作業の3課に、我々は溶接とかの1課になった。
そして、夏休み、初めて作業服に袖を通し、意気揚々と出勤したのであった。
~その2に続く
2009.07.14
自分の部屋にエアコンが入って、快適な生活を送り出しましたが、
その機会に、部屋の整理を始めました。
大体人間、散らかってるとそのままですが、片付け始めるとさらにきれいにしたくなるもので、
そうすると、部屋のタンスの奥まで、逆に引っ張り出して整理したくなります。
ダンボールの箱いっぱいに入ったカセットテープが出てきました。
カセットテープなんて、もう何年も聴いてないですね。
今でこそ、CDなんか、インターネットで大人買いしちゃいますが、
昔はLPなんか、そうそう買えなかった。
だから、友達と手分けして買って、貸し借りして録音したり、
FM雑誌でチェックして番組から録音したりしたものです。
買ったLPも、プレーヤーで再生すると減って次第に音質が悪くなるので
まず、カセットに録音して、普段はそっちを聴いてることが多かった。
レコードの扱いめんどくさくてカセットのほうが手軽だし。
ラジカセ、カセットデッキ、ウォークマン、
・・・・・考えてみると
音楽はほとんどカセットテープで聞いてたわけです。
さて、そのカセット、いろんなタイトルがあったのですが、
まあ、99パーセントはロックです。
ツェッペリンやビートルズ、ストーンズなどラジオからシコシコ録音したものですが、
今や、殆どすべてCDで買いなおしてるので、もう聴くことないでしょうか。
中にはマイナーどこでジョーボクサーズとかオーペアーズとかリップ・リグ+パニックとか
おお、こんなんもあったなー、あとで聴いてみよ、なんてのもけっこうあったりして。
そんな中で、気になるテープが・・・。
「アースバウンド未発表バージョン」
「!」
アースバウンドといえば、私が高校生の時にやってたロックバンド。
「ロックな高校生」「ロックな高校生リターンズ」で紹介し
このブログでもおなじみ(?)のハードロック・バンドです。
そのテープがあったとは・・・。しかも「未発表」って・・・・。
恐る恐る聴いてみると、おおいきなり「ストレンジ・ラブ」。
我がバンドの記念すべき初のオリジナル曲。
そしてオリジナルの「トゥ・ザ・ワンダーランド」「オールド・キャッスル・イン・マイ・ハート」
パープルの「スピード・キング」「ストレンジ・カインド・オブ・ウーマン」と続く。
うわー、なんじゃこら。
そーいえば確か、Kレコードのスタジオで一回録音したことが、もしかしたらあったような・・・。
それにしても若気の至りにもほどがある、っていうような演奏で
1人で聴いてて赤面してしまうほどだ。
「ハイウエイ・スター」に至っては途中で演奏をあきらめてる。
未発表ったって、これは発表できるようなシロモンじゃあないなー。
でも考えてみると、おお、この頃俺たちは17,8のガキだったんだ。
自分の30年以上前の声を聴くなんて、不思議な気持ち。
聴いているうちに、まあ、演奏の完成度はヒドいけど、
そーいえばEのギターもいい音してるし、Oもけっこうちゃんとベース弾いてるし、
Iのドラムもナカナカいけてる。
いや、オレだって高校生にしては、いいシャウトしてんじゃん、
なんて思ったりして・・・・・・。
それにしてもよくこんなカセット、残ってたもんだ。
ちなみにカセット・テープの「カセット」の語源は
「宝石箱」、だそうです。
2008.11.22
ロックな高校生リターンズ、調子に乗ってまた長編を書いちゃいました。
前回の本編は、いつか書きたい、と思っていたネタだったので、
一気呵成に書いちゃいましたが、今回のは前回の反響を受けて書いたもので、
ネタの盛り上がりに、苦労しました。
「ロッキー」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や古くは「猿の惑星」など、2や続編が作られたものは
第1作を越えることができないというのは、映画界の常識です。
(個人的にはインディ・ジョーンズに関しては2が一番面白いと思ってます。
ゴジラはもちろん1954年の第1作が最高だが、寅さんシリーズは、どうなんだろう?)
今回も、そこが一番気がかりでした。
「リターンズ」ではO君の失恋話もないし・・・。
まあ、大学受験というプレッシャーとバンド活動のですごした、
受験生時代を懐かしく思い出しながら書いてみました。
大学受験は確かに大変でしたが、今思い出すとそれなりに充実した日々でした。
さて、その後のロックな高校生ですが、
ギターのE、ベースのO、ドラムのI はめでたく現役で東京の大学に入り、
最初はそれぞれのサークルでバンド活動をしたそうですが、
しかし、後に再び集まって、また、バンド活動を一緒にやったそうです。
ヤマハのコンテストなんかにも応募し、結構いいセンいったようです。
一方、私は・・・・・・・。
学園祭終了後、心を入れ替えて(?)猛勉強し、
一時はまぐれ(?)で校内実力テストで一回だけ学年1位を取り、
担任のネックレスもも3者面談で、「まあ、志望校はこのままで受かるんじゃないの。」
なんて、おふくろに言ってたのだが、
やっぱまぐれだったようで、一期校も二期校もスカッと落ちて、花の浪人生活に入りました(涙)。
この辺の経緯は、後日機会があれば、また小説にしたいと思います。
また、最終話で登場したヒロイン、Fちゃんですが、
その後、何と向こうから連絡があり、
なんかデートみたいなこともしたような記憶があります。(おおー、やるじゃん、オレ。)
今は、どこで、どうされてるんでしょうか・・・。
きっと、幸せな御家庭を築かれてることと思います。
最終話で、まだ、将来のイメージなんて全然出来ない、みたいなことを書きましたが、
医者はともかく、まさか、いまだにバンドでしかもパンク・ロックやってるとはねー。
オレ、来年、50っすよ。
かのアインシュタインの言葉に
「その人の常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションのことである。」
というのがあったが、なるほどー、と思いましたねー。
私の、常識は、中学~高校時代に集めたロックな考え方に支配されてる。
もう、この年になったら、ナカナカこれは変わりません。
私としては、自分のコレクションに自信を持ってるんですが、
ちょっと、変わったコレクションかもしれません。
今回、読んでいただいた皆様、どうもありがとうございました。
また、コメントを入れてくださった皆様、とてもうれしかったです。
(特にT君の件はびっくりでした。)
今後とも多くの皆様にご意見、ご感想などお寄せいただけると、たいへん励みになります。
遠慮なく、書き込みしてください。
でも、「エッチなバイトでなんたら」、ってのはダメよー。
2008.11.20
さて、いよいよ学園祭当日。
我々は、もちろん体育館ステージの一番お客が来そうな時間帯をキープした。
ここら辺は、3年生の特権だ。
なんせ、3年にもなって出てるバンドはウチらだけだ。
我が3年5組は、クラス企画として、お化け屋敷「物怪館(もののけやかた)」をやっており、
これが好評を博していた。
私も、バンド準備とお化け屋敷とあっち行ったり、こっち行ったりで大忙し。
話はややそれるが、足利高校は男子校。
先生も女性は音楽のオバサン先生のみ。
しかし、事務に、高校を出たばかりの若いSさんという女性がいた。
お化け屋敷の、杮(こけら)落としとして、ぜひ、このSさんを第1号にしよう、という意見が出てすぐ可決された。
で、彼女を連れてきたわけだが、ここで誰がエスコート役をするか、ということで小競り合いがあった。
すると、担任の数学教師のネックレス(この先生は太ってて首がないので、こう呼ばれていた)が、あっさり彼女を連れて入ってしまった。
がっかりした我々は今度は嫌いな先生を呼んできて、お化け屋敷に入ってもらい、
暗闇に乗じてコンニャクをぶつけたりしてうさを晴らしていた。
(しかし、後にこのSさんが、あのインドネシアと結婚したと聞いてビックリ!
へー、そーだったのかー。)
さて、体育館のステージが始まった。
最初のバンドは1年生のナントカというバンド。
うわっ、ひどい演奏だ。なんかのコピーらしいが原曲が何かも判然としない。
おまけに、最後まで演奏できず、途中でとまってしまい
バンドのメンバーがお互いの顔を見あわせるというシーンが何度もあった。
次のバンドも1年生。
ギターはギャンギャン弾くが、リズムがめちゃくちゃ、ボーカルは全然聞こえない。
キッスの曲、かなあ。ドラムもヒドイ。
2年生のバンド、おっ、そのイントロは「天国への階段」、演奏できんのか?
あーあ、やっぱり途中で止まってしまった。
何、もう一回はじめからやります?やめとけ、やめとけ。
お、しぶとく、また最初からやり出した。
大体、ギタリスト、アコースティックギターだけど途中からどうすんの?
瞬間的にエレキに持ち替えるのか?そりゃ、いくらなんでも無理だろう。
と、思っていたらジャカジャーン、のところで、終わり、
初めからこういう予定だったらしい。
そんな、「天国への階段」ありか?
「天国の手前の中2階までの階段」か?
それにしても、どのバンドも1~2ヶ月前にはじめたばかりで
人前で演奏するのは、これが初めて、っていう感じのバンドばかりだ。
これじゃあ、オーディションは拒否するわけだ。
さて、こんなバンド見ててもしょうがない。
「俺、ちょっとほか見てくるね。」
といって、ほかの演奏会場の様子を偵察に行った。
まず、校庭組。
お、やってる、やってる。
うーん、見方によってはストリートミュージシャン風といえないこともないが
素直なイメージとしてはチンドン屋だなー。
お客さんは通過してるけど、聴いてる人はいない。
次に、屋上に上ってみた。
ありゃまー。ここは、さらに悲惨じゃ。
演奏者以外、誰もいない。
そりゃそうだ、わざわざ屋上まで上って、演奏聴こうなんて物好きは、まずいるまい。
ここじゃなくて、よかった。
(一説によると、現CRPの土井先生は当時、足高の1年生、ナントこの屋上で演奏してたらしい。)
さて、そろそろ体育館に戻ろうと、階段を2段飛ばしで下りていくと、突然、声をかけられた。
「あら、オグラ君。久しぶり。」
「え、あれ、Fちゃん、もしかして。」
なんと、中学時代の同級生のFちゃんだった。
確か、彼女は宇都宮の高校に行ったんでは。
会うのは、卒業以来だから、ほぼ3年ぶり。
それにしても、雰囲気変わったなー、っていうか美人になったなー。
「あ、このあと3時過ぎからさ、体育館で俺たちのバンドのライブがあるんで、良かったら来ない?」
「あ、行く、行く。」
「じゃあ、よろしく。」
そうかーFちゃんかー。なんか俄然、やる気出てきたぞー。
そして、我々「アースバウンド」のステージが始まった。
そしてまた、これが我々「アースバウンド」の最後のステージだろう。
3月になれば、メンバーはばらばらになり
バンドももう、まず間違いなく一緒に演奏することはない。
最初は、「スペース・トラッキン」、そして「ストレンジ・カインド・オブ・ウーマン」を演奏し、
このライブの前に俺が作ったオリジナル「トゥ・ザ・ワンダーワールド」に続く。
(曲なんか作ってるヒマがあったら勉強しろって。)
午後の体育館のステージは市民会館のときと違って
照明もないし、客席も明るいし、音響も全然だが、
その分、リラックスして、楽しく演奏できた。
やっぱ、メンバーを説得して学園祭に演奏してよかった。
ここんとこずっと頭の中を占めていた、
微分方程式も、複雑な分詞構文も、キルヒホッフの法則も、紫式部も
そしてこの間の模試の志望校の合格判定パーセントも
とりあえず、みーんな頭から出て行ってもらって、気持ちよくロック・アンド・ロールできた。
そして、最後はロック・ボックスでも最後に演奏した俺たちのオリジナル、「オールド・キャッスル・イン・マイ・ハート」。
そして、この曲が、「アースバウンド」として演奏する最後の曲。
オレのロックな高校生活もこれで終わりじゃー。
思い出すなー。
初めて、Oに誘われてバンドの練習場に行った時のこと。
ロック・バンドって、こんなに大きな音出すんだー。
それまでフォーク・ギターしか弾いてなかったから・・・。
耳はジンジンしたけど、心臓はもっとドキドキした。
他の高校のバンド4組と、織物会館を借りてやった最初のコンサート。
100円のチケットを売りまくったが、当日、会場はタバコの煙でもうもう。
他のバンドが、いわゆるツッパリ系(これも死語か?)だったので、
会場は大荒れ、ステージは傘まで飛んできた。
以後、織物会館はライブ禁止になったという。
そして、女子高の文化祭に飛び入り(?)したこと。
女子高で演奏するなんて、結構レアな経験だよなー。
なんといっても、ロック・ボックス。
応募から、当選、練習場の確保、親父の急死、
市民会館の大ホールは、感動した。
やっぱり、ロックを聴いていて、やっていて良かった。
ロックのおかげで、いろんな面白いことや、珍しい経験もしたし、
いい仲間や、変な大人にも会った。
そして、落ち込んだり、ヘビーな時にもロックで元気になる。
親父の通夜の時、お経のあと1階で飲み食いしてる親戚や隣組の人たちの席を離れ、
2階の自分の部屋でラジカセで小さい音で一人でローリング・ストーンズを聴いてた。
オレの高校3年間はいろんな場面でロックなしでは語れない。
・・・・・そして、アースバウンド最後の演奏が終わった。
全員で客席にお辞儀をした後も、最後のコード、Amの余韻がいつまでも耳の中で反響していた。
楽器を片付けて、外に出ると、西に陽の傾いた校庭でFちゃんが待っていた。
秋の陽が暮れるのは、早い。
「オグラ君、見たよ、カッコよかったじゃん。」
「ええー、そう?そりゃ、良かった。」
「オグラ君、やっぱり医学部行くんでしょ。」
「うん、でも今のままじゃちとキビシイかも。(頭から追い出してた、模試の合格パーセントが戻ってきた。)」
「大丈夫だよ、オグラ君、アタマいいから。がんばって。」
「おお、サンキュー。」
おー、なんか、オレ、バンド始めてから、初めて女の子にカッコいいって言われたなー。
(いや、ただ単に外交辞令でしょうけど・・・。)
大学行ったら、バンドやって、女の子にもてるぞー。(希望、願望、妄想、憶測・・・)
・・・しかし、入れんの?
うっ、そこだ。
今のままでは、「ちと」どころか「かなり」キビシイのでは・・・。
明日から、猛勉強だー。
でも、やっぱロックは聴いていよう。
まだ、将来の自分などほとんどイメージできない、18の秋だった。
「おーい、オグラ。打ち上げのファイアー・ストーム、始まるぞー。準備手伝えー。」
「おー、わかったわかった。」
みんなで、大騒ぎした夢のような学園祭が終わった。
そしてそれは、夢のようなロックな高校生活の終わりでもあった。
ファイア・ストームの薪に火がつくと、
少しだけまだ西の空に残っていた明るさも、あっという間に夜の闇になった。
みんなの歓声の中、
数え切れない思い出が、
火の粉や煙とともに晩秋の冷えた夜空に吸い込まれていった。
~ロックな高校生リターンズ・完~
さて、これでロックな高校時代の話はおしまい。
長らくのご愛読ありがとうございました。
2008.11.17
・・・ヤベエな、第1志望D判定だよ。
先日の模試の結果がかえって来た。
「判定D:志望校の変更が望ましい。」
うーん、キビシイ。
英語、数学、物理、現国はまずまずなんだが、
化学と社会、あとなんといっても古典が
足を引っ張ってる。
「いずれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるを・・・」
ったく、源氏物語なんてどこがおもしれーんだか。
そもそも、志望校変更ったって、国立の医学部なんてどこ書いてもD判定だよ。
なんだってこんな合格圏偏差値が高いんだ。
変更して、合格率上がるなら、どこでも変更するさ。
でも、オヤジが死んで、ウチの経済状況では、国立以外は受かったって行けるわけないし、
やっぱ、何とか医学部行きたいし。
日本育英会の奨学金の面接は通ったけど、肝心の大学に入れなきゃ意味ねーよなー。
「おい、オグラ、模試どうだった?」
前の席のOが、わざわざ振り返って訊きやがる。
「うーん、あやしうこそものぐるおしけれ、といったところだな。」
「・・・・何だそりゃ。」
「それはそうと、オグラさ、『大島式英単語』、知ってる?」
「なんだよ、オレ、オマエに教わった『試験に出る英単語』使ってるぜ。
最近あんまり進んでないけど。」
「いや、この本さ、面白いぜ、英単語をダジャレで覚えんのよ。」
「相変わらずオメエは受験オタクだなー。なになに、えーと
『Anniversary{アニバーサリー}:(意)記念日(暗記法)兄がバッサリ切られた記念日』
兄がバッサリでアニバーサリーだとー、なんじゃこりゃー。」
「な、覚えやすいだろ。」
「ちょっとこりゃ、邪道じゃねえか?」
・・・・しかしそれ以来35年、Anniversaryという単語に出会うたびに、兄がバッサリ・・・を思い出す。
やっぱ、暗記法としては正しかったのか?
「さ、そんなことより、学園祭実行委員会始まるぞ。」
「おー、行ってんべー、行ってんべー。」
・・・・・・
「はい、それでは2年6組の”足利の歴史遺産をたずねて”の企画は、このままでいいですね。」
「それでは、次に、有志による”バンド演奏”の企画に移りたいと思います。」
足高祭の実行委員会である。
各参加クラス、サークル、団体の代表が出席している。
「さて、バンド演奏ですが、場所は体育館を予定していますが、バスケット部の親善試合もありますので、使用時間は2日目のみとなります。」
我々は全員で来ていた。
「ったくもー、いーじゃん、どうせウチのバスケ部、弱ええんだから。」
「まあ、あっちは正規の部活だから、そうもいくめえ。顧問のコンドーも強えしな。」
バスケ部の顧問、体育教官のコンドーは、怖かった。
「えー、参加希望バンドが20バンド以上提出されています。
時間的に、すべてのバンドが演奏することが難しいですが、どうしましょうか。
抽選、くじ引きで決めるという方法もありますが・・・。」
「何か、ご意見、ご提案はありますか。」
・・・じょーだんじゃねえ、俺たちがくじ引きで落とされてたまるか。
ここはオレがナントカせねば。
「議長、はい、はーい。」
「はい、どうぞ。」
「えー、3年のオグラです。参加希望バンドが多いので、
オーディションをやって決めたらどうでしょうか。
実際に集まっての演奏が難しければ、テープ審査なら簡単にできると思いますが。」
「えー、はい、オーディションをして参加バンドを絞るという意見が出ました。
さて、この提案に対し、何か意見がありますでしょうか。」
・・・教室はざわつくが、誰も、何も言わない。
「では、この提案に対して、決を採りたいと思います。賛成の方は挙手をお願いします。」
ハーイ、と手を上げたのは我々だけ・・・。
「はい、それではこのご意見に反対の方。」
みんなが、いっせいに手を挙げる。
・・・げっ、全員反対かよ。
さては、てめーら演奏に自信がねえな。
しかし、全員反対とは・・・。
まあ、それもこれも学園祭が3年に1回しかない、という学校のセコイ方針によるものだともいえる。
3年生のバンドは俺たちだけだが、
1、2年生だって、今回出なければ、もう次の学園祭は高校時代にはないわけだから。
会議は紛糾して、結局その場では決まらず。
しかし、その後1年生から、演奏できるなら、体育館でなくてもいい、
という希望が出て、結局、体育館、屋上、校庭、の3箇所に演奏場所を設けることで
すべてのバンドが参加できることになった。
2008.11.13
「あ、そう、うん、じゃあいいんじゃないの。」
意外にも、インドネシアは我々の練習を快諾し、
日曜日に学校に来て鍵を開けてくれることになった。
・・・日曜日にヒマとは、こいつ彼女いないな。(大きなお世話だが。)
そんなことで、練習場所の問題は解決したのだが、新たな問題が起こったのだった。
「おい、オグラ、大変だよ、足高祭にとんでもない数のバンドが申請してるらしいぜ。」
「5つや6つじゃないんだよ、1年生も2年生もバンドがいっぱい出来て20以上出てるらしいぜ。」
「20以上!そんなにいっぱい体育館出らんねーよ。」
「ともかく、今度の水曜に実行委員会があるから。」
1976年から1977年にかけて、日本におけるいわゆる洋楽、ロックの状況は大きく変化した。
いわゆる”洋楽ブーム”の到来である。
洋楽、特にロックは、テレビなどの一般メディアにのることはなく、
いわゆる一部のロックマニアのものだった。
それが、クイーンの初来日(1975年)くらいから、
じわじわと一般の女の子のロック・ファンが増えてきたわけだ。
それまで、郷ひろみや西城秀樹を、追っかけていた、ミーハーファンが
ロックスターのルックスに注目するようになったのだ。
さらに、その動きを加速させたのが「ベイシティ・ローラーズ」の登場である。
彼らの、戦略はターゲットが、完全に
”それまでロックを聴いたこともない女の子”たちだった。
ベイ・シティ・ローラーズはイギリス、エジンバラ出身の「アイドル」ロック・グループで
日本でも、瞬く間に大人気になった。
日本の少女たちの目には、白馬に乗った王子様のように映ったのかもしれないが
よく見ると、ホームベースみたいな顔した奴とか、まゆ毛のつながってる奴とかいて
なんか、キミたちだまされてるぞ、って感じもしてた。
そもそも、楽器もろくに弾けずにコンサートは口パクだし、
男のロックファンは、みんな毛嫌いしていたものだ。
この点、もともとロックバンドとしてスタートしたが、ルックスの良さから
想定外の部分で人気が出た「クイーン」とは、360度違うといってもいいのだが
ほぼ、360度回っちゃったため、同じような扱いをされていた。
ロック雑誌「ミュージック・ライフ」は、記録的に部数を伸ばし、新雑誌も次々創刊、
アイドル誌の「明星」や「平凡」も、毎号ロックスターが登場するようになって来た。
それに伴い、ヒットチャートに洋楽が入るようになり
いわゆる”お茶の間”に、ロックが進出するようになったのだ。
ロック人口が飛躍的に増大し、最初はヒット曲から入ったファンの中にも
次第に本物のロックを聴くヒトも増えてきた。
「キッス」や「エアロスミス」、「チープ・トリック」などの新しい本格的ロックバンドも
人気を上げるようになった。
(ただバンドにルックスのいいメンバーが2人以上いる、ってのがウケル条件だったが・・・。
いくら、ロックの人気が出てもニール・ヤングが「明星」のグラビアを飾ることは無い・・・。)
そして若者の間では、エレキギターを手にすることは、かつてのフォークギターなみに一般化して、
「じゃあ、学園祭で、やってみるか。」
なんて、にわかバンドが、雨後のタケノコのように、この時期現れちゃったのである。
わが足利高校も、それまではロックバンドなんか1学年に1~2組しかなかったはずだが、
それにしても20以上のノミネートはただ事ではない。
1バンド15分に限定しても交代時間なんかを含めて6時間以上もぶっ続けというわけにはいくまい。
「まいったなー。20いくつもバンドあったんじゃ、収拾つかないぜ。」
「ベイシティ・ローラーズが、いけねえんだ。あのくそバンドが。」
「ロゼッタ・ストーンとかパット・マグリンとスコッティーズなんてのも最近あるらしいぜ。」
「スコッティーズ?何だそら、ティッシュ・ペーパーか。」
「でも、女の子に人気あるぜ。」
「バカモノ、男は、ハード・ロックじゃ、パープル、ツェッペリンだ!」
「そーだ、そーだ。」
「そりゃそうだが、ともかく、この事態を何とかしないと・・・。」
2008.11.12
そんなわけで、8月のある日、我々はKレコードの前に集まった。
Kレコードは楽器屋さん部門が今でもあるが、場所は、今の場所ではなく、
本町通、足銀足利支店の並びの(今は足銀も友愛ホールになっちゃったけど)
現在のラーメン屋、Y貴楼の建物だ。
(ここは今もバンドの打ち上げで3時過ぎまで足利の街を飲み歩くと
最後にシメのラーメンを食べに入るとこなので、ロックな場所なのだ。)
「いや、今年の夏は、あっついなー。」
「受験の年に猛暑ってついてねーな。」
1977年の夏は、確かに暑かった。
夏目雅子の「Oh!クッキーフェイス」で幕を開け、キャンディーズは「暑中お見舞い申し上げます」
と歌っていたし、「勝手にしやがれ」は「渚のシンドバッド」を蹴落として1位にかえりざいていた。
王貞治は、9月に達成することになる756号の世界新記録に向かって着実にホームランを重ねていた。(はずだ。)
さて、Kレコードのスタジオは、店舗の2階にあり、多分倉庫かなんかを改造したものだ。
ドラム、アンプ、PAなんかが、雑然と並べられており、とても狭かった。
今の貸スタジオみたいなしゃれた雰囲気はなく、
ダンボールなんかもつんである狭い階段廊下を通って行った。
「Oの工場より相当せまいなー。」
「でも冷房あるからいいよ、暑いから早くエアコン入れろー。」
「よーし、久々にいっちょやるか。」
「スペース・トラッキンから行こうぜ。」
ジャジャッ、チッ、チッ、チッ、ジャッジャッジャッ、ジャージャージャジャッ・・・
おー、いい感じ、さてボーカルだ。
「We have o lot of lack in Venas~」
と歌いだしたとたん、急に音が切れた。
「あれ、停電?」
「別に、昼間だし、カミナリも鳴ってなかったぜ。」
「おい、ちょっとO、お店の人に訊いてこい。」
「わかった。」
と、お店に下りていくO。
「しっかし、エアコン切れると暑いなー。」
「窓もねえしなー。」
少しして、店員さんを連れてOが戻ってきた。
「あー、やっぱりダメかー、まいったなー。」
「何なんですか。」
「いやー、ここんとこ暑いだろ。このエアコン結構電気食うのよ。
だから、アンプ、PA、キーボードまで全部使うとブレーカーがおっこっちゃうんだよねー。」
「えー?!」
「だからさ、君たちさ、演奏中は、送風にしといてアンプ切ってから冷房にしてくれるー。
ウチのアンプ、チューブだから電気食うからさ。」
そ、そんなー、殺生なー。
「じゃあ、そういうことで、がんばって、ごめんねー。」
と、店員さんは降りていってしまった。
「おい、どうするよ。」
「どうするったって、4時間分まとめて前金で払っちゃったし。」
「やっぱ、練習しなくちゃなんないでしょ。」
「しっかし、冷房なしだぜー、この真夏の暑いのに。」
「しかたねー、やるかー。」
というわけで、5分間演奏しては、アンプを切って全員でエアコンの前に張り付いて
体を冷やし、また勇気を奮い立たせてまた演奏をする。
でも、すぐ暑くなってきて、
「(おい、アドリブのギターソロいつまで弾いてんだよー、早く終わりにしろよー、)」
という気持ちになってしまう。
まるで、ガマン大会のような練習に、集中が続かず、結局あまり成果が上がらなかった。
「あー、暑かった、まいったなー。」
「あと、練習、どうするか・・・。」
「うーん、金かけてこれじゃあな。」
「後、何回か練習しないと。」
「そうだ、学園祭の練習なんだから、学校で出来ないかな。」
「学校でー?」
「日曜日の、空き教室とか音楽室使わせてもらえば・・・。」
「そうだな、学校行事だからな。」
「よし、インドネシアに頼んでみるか。」
さて、どうなるか。