ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2019.06.19

外科医として

 「老眼」になっても内視鏡や、顕微鏡のおかげで、

日常診療はほぼ問題ないが、

困るのは耳鼻科の手術だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっと前に1歳上の日赤のS部長から、紹介状に対し

もう細かい手術はやりません、とのお返事をいただいたが、

ワタシもここにきて手術を選ぶ時期にきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この間、来院された「副耳」の赤ちゃんですが、

今までは、自分でやっていましたが、病院に紹介しました。

ちなみに当院の副耳手術第1号は、

今も働いているウチの看護師さんのお子さんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後に来た「粘液嚢腫」の方も紹介状を書きました。

口唇粘液脳腫も、これまでさんざん手術しましたが、

もうこれからは基本、紹介しちゃおうかな、と。

口唇粘液脳腫なら病院でも局所麻酔日帰りでできるでしょうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この手の手術はもはや肉眼では無理だが、

顕微鏡をつかえばできないことはないのですが、

顕微鏡はどうしても視野が狭い。

術野は良いとして、持針器に5-0の針糸を把持するのに

また、これが見えない。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 助手さんに器械出しをやってもらう手もありますが、

術野が狭いと、やはりオープンな手術では何か事故があると困るので、

今後は紹介してやってもらうことにしました。

ナサケナイ。

今後、ホームページを書き換えておかないと・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 内視鏡でも顕微鏡下の鼓膜チューブ留置や、鼻内内視鏡下の手術は

術野が外耳道内、鼻腔内とクローズなのでまだ大丈夫です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この間、病院でこの子は暴れるから全身麻酔だねー、

といわれた男の子の鼓膜チューブ留置などは、局麻で行い、

病院にお返ししました。

こういう他の施設ではできず、当院でしかできない手術は、

まだやる意味があります。

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、この程度の小手先で何とかなる手術はやりますが、

これだって顕微鏡で見えても、気力がいつまでもつかどうか・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2019.06.16

水いぼ

 スイミングの先生からいきなり質問を受けた。

「先生のところは、水いぼの方、来ます?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そりゃ、皮膚科で水いぼ治療中です、っていうお子さんはいっぱいいますけど

ウチは耳鼻科だから、水いぼの治療に来る方はいませんよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 季節がら、スイミングスクールの父兄から

水いぼに関する問い合わせが多いらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水いぼとは「伝染性軟属腫」のことで、

「伝染性軟属腫ウイルス」によって起こる感染症である、

ということくらいは耳鼻咽喉科医のワタシでも知っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いぼへの接触でうつるが、

ウイルス感染なので、いずれ抗体ができて治るわけで、

この辺、おたふくかぜや水ぼうそうなんかと一緒。

ウイルスで、ヒトにうつるが、自力で治る、という点では

普通の風邪と同じともいえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、プールでうつる、というウワサがあるので、問題にされるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホントのところはどうなんでしょう。

東京都福祉保健局のホームページ

学校感染症 第三種 その他の感染症:皮膚の学校感染症とプールに関する
日本臨床皮膚科医会・日本小児皮膚科学会・日本皮膚科学会の統一見解」

ということらしい。

つまり、「プールの水ではうつらない」

「タオル、浮き輪、ビート板を介してうつることがある」

ということですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なーんだ、大丈夫じゃん。

と、思いますが、事情を複雑にしていることがいくつかあるようです。

ひとつは、ウイルスに感染してから発症までの期間が長いことと、

自然に治るまでに6カ月から3年を要する、という点。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風邪なら、3日、おたふくでも1週間で治っちゃうけど、

半年から3年は長い。

~1年半、とかいてある文献もあるが5年というのもありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらには、治療法が確立してないこと。

治療はホームページにあるように大きく3つあるようで、

①ピンセットなどでむしりとる

②自然治癒を待つ

③薬物療法

ですが、自然治癒には時間がかかる場合が多いし、

クスリははっきり言って効いたんだか、

自然に治ったんだかわからない程度の効果だし、

むしりとるのは、相当イタイ(らしい)。

耳鼻科の処置が痛くてキライな子が、でも、いぼ取りの方がもっと痛かった、

と口をそろえていうくらいですから。(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、どの治療法が良い、とはどのホームページにも書いて無く、

最適な方法を皮膚科の先生と相談して下さい、などとお茶を濁してあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにウチの子が小学生のころ水いぼになった時は、

しばらくテープ貼っておいて、そのうちに消えちゃったようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも、いぼってすぐ見てわかっちゃうし、見た目が良くない。

風邪のセキなら、マイコプラズマのセキかRSウイルスのセキかなんてことは

ワカラナイし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神経質な親御さんもいるんで

なかなか、学校側、スイミングスクール側の対応は厄介でしょうね。

誰とかちゃんからもらった、とか、

ウチの子は痛い思いをして一生懸命治療に通っているのに、

あそこの家は、ほったらかしだ、とか。

イジメに発展することなんかもあるかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、当院は耳鼻科なので、水いぼの治療しなくて済むので良かった

と思うような、メンドクサイ病気ですね。

無責任でスイマセンが、早くもっといい治療法が確立されるといいですね。

ワクチンとかできないのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2019.05.31

キレイな空気でごはんを食べたい

最近自炊がマイブームで、めっきり外食が減った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナポリタンもそうだが、カレーライスも焼肉定食も

自分で作ると大変美味い。

カレーの玉ねぎ、にんじんや、焼き肉のたれや肉の厚さなど、

自分のイメージに沿ってできることもあり、

「オレナポ」ではないが、満足度が高い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は朝の味噌汁もインスタントではなく、

自分でダシをとって作るようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自炊のもう一つのメリットは意外なところにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは「タバコ」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシは定食屋が大好きで、外食の時はなるべく

昔ながらの「○○食堂」的なお店を選ぶことが多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、残念ながら、その手の大衆食堂は、喫煙率が高いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お店に入って店内を見まわし、

タバコを吸っている人、あるいは吸いそうな人がいると、

なるべくそこから離れた席をとるが、

せっかく料理が来た、といったタイミングで

あとから来たお客さんが、

席につくなりタバコに火をつけたりするとがっかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どんなに美味しい料理も台無しになってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

受動喫煙を防ぐための改正健康増進法が制定され、

禁煙化する飲食店が増えてきているとはいうものの、

田舎では、東京に比べてどうもそのスピードが遅いようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の下野新聞によれば禁煙・分煙推進店に登録された店舗は278。

うち飲食店関係は40ほどだという。

むろん登録してない禁煙のお店も増えているが、まだまだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この間の前橋の「レストランとよだ」は禁煙でした。

さすが、群大病院御用達のお店。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 我が家から歩いて1分、子供のころからおなじみの

ラーメン屋さん「泰鵬」も、店内改装後数年前から全面禁煙です。

お店はますます繁盛しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事は人生の楽しみですから、すべての飲食店に完全禁煙を望みます。

今日、5月31日は世界記念デーです。

 

 

 

 

 


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2019.05.27

運動会の代休

 最近は秋でなく、この時期に運動会をやる学校が多いようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先週末の土曜日は、足利市内のかなり多くの小学校が運動会だったようで、

息子さんが小学生の当院のスタッフも1人有給休暇取ってました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土曜日に運動会だと、週明けの月曜日は「代休」になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、月曜日の午前中の外来は相当忙しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、その来院患者さんの多くが学校健診の「健診票」を持参。

足利市では黄色い紙に印刷されるので

ワタシは「イエローカード」と呼んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 健診なので、今具合が悪いわけでは無いため、

学校を休んでまで病院に行くことはない。

だが、平日はなかなか時間が取れず、夕方も塾やお稽古事で忙しい。

しかも、プール開きまでに、提出しないとプールに入れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ということで、この春の運動会明けの月曜日は耳鼻科受診にもってこい、

ということになるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、コチラとしては、小学校が秋に運動会やってた頃は

イエローカード持参者は土曜日に集中していたので、

月曜日に分散されることは悪くはないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当院が開院して外来患者さんがはじめて1日100人を突破したのが、

10月に開業して8か月後の6月最初の土曜日であったことは、よく覚えています。

何しろ、開院当初は毎日、10~20人程度の患者さんしか来ませんでしたからねー。

冬場や花粉症時期よりも学校検診の時期の患者さんが多いとは

思いもよらなかったので、ビックリ、てんてこ舞いでした。

でも、健診票の方はたいがい1,2回で治療が終わっちゃうので、

またその後、患者数が増えるのには時間がかかりましたけど。

まあ、いまは逆に1年を通じて100人を切ることはあまりないので、ナツカシイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、今週末もいくつかの小学校で運動会があるみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば、ワレワレが子供のころ、運動会の代休って、あったっけ?

そっか、そもそもムカシは土曜日は「休日」ではなかったから、

代休も存在しないわけか。

今の子はいいなあ。

 

 

 

 

 

 

 


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2019.05.23

ニキ・ラウダの時代

5月20日の月曜日に飛び込んできた訃報が、

ニキ・ラウダ氏の逝去のニュースだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1975年、1977年、1984年のF1ワールドチャンピオンであり、

言わずと知れたレース界の「巨人」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オーストリア、ウィーンの出身でデビューは1971年、マーチから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、BRMを経て、1974年にフェラーリに移籍。

そして1975年、名車「フェラーリ312T」を駆って、

初のワールドチャンピオンに輝くのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この「312T」は3リッターの12気筒、

Tはトランスバース・トランスミッション、すなわち横置きギヤボックスのTである。

ラウダはこのマシンでフェラーリに1964年以来、11年ぶりの

コンストラクタータイトルをもたらしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は、タミヤの1/12。

作ったのはもう5,6年前だったかなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ニキ・ラウダにとって運命の1976年。

そこまで、このフェラーリ312T2 でポイントリーダーとして快進撃を続けたラウダは、

8月1日のドイツグランプリ本戦でクラッシュ、クルマは大火災に包まれる。

ドライバー、コースマーシャルの捨て身の救助でラウダは九死に一生を得るが、

衝突の際ヘルメットが脱げてしまい、顔の大きなやけどを負い、

有毒ガスを吸い込んだ影響で肺に深刻なダメージを受けた。

全身の70%の血液を入れ替え、一時は生命も危ぶまれたが、

その後驚異的なペースで回復。

事故からわずか6週間後のイタリア・グランプリで奇跡の復活を成し遂げるのである。

そして、タイトルの行方は最終戦。

舞台はこの時はまだ、イレギュラーだった日本開催のF1世界選手権イン・ジャパン。

富士スピードウェイの決勝は大雨で、ラウダは危険すぎると判断し、

わずか2周で自らクルマを止め、リタイア。

チャンピオンは1ポイント差でマクラーレンのジェームズ・ハントにわたった。

この312T2は、

一昨年作った今は無きイタリア「プロター社」製の1/12モデルであるが、

作りにくさでは定評がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コチラは、ハセガワ製の1/20の312T2。

レインタイヤでその富士スピードウェイの仕様になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、翌1977年、ラウダはシーズン3勝などで72ポイントを上げ

またこの「フェラーリ312T2」で2度目の王座に返り咲いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、フェラーリを離れブラバムで2シーズンを戦いました。

これは1/20のブラバムBT46。

タミヤ製、限定クリアカウル版。

カウルはクリア塗料で塗ったので、透けて見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドライバーフィギュア付き。

ラウダ先生、運転してます。(^^)v

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オーストリアカラーのヘルメットにはニキ・ラウダの文字が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブラバム時代にはアルファロメオエンジンの不調もあり勝利は無く

1979年、いったんは現役を引退。

しかし、1982年にマクラーレンから現役復帰し、

1984年にマクラーレンMP4/2で、最後のワールドチャンピオンを獲得。

このモデルはアオシマの1/20「マクラーレンMP4/2」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マルボロカラーはカッコええなあ。

タバコは、ダメよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その翌年、1985年にマクラーレンのチームメイトのアラン・プロストの

初のワールド・チャンピオン獲得を見届けて

ニキ・ラウダ氏はドライバーズ・シートを降りた。

写真はマクラーレンMP4/2C。アラン・プロストのチャンピオン・マシンである。

これもプロター1/12。

作りにくいがフェラーリのキットよりはまだマシだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現役引退後はラウダ航空など、航空会社の経営に携わる。

フェラーリのアドバイザーを経て、

先日までメルセデスF1チームの役員を務めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

70歳という年齢での死因は肺の病気といわれ、肺移植も受けていた。

あのドイツGPでの肺損傷が後年まで後遺障害を残したのであろうか。

偉大なドライバーの冥福を祈りつつ、

今週末は伝統のモナコGPが開催される。

 

 

 

 

 

 


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2019.05.20

翼をください

空を飛ぶことは人間の古来からの夢である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥の様に大空を自由に飛べたら、どんなに素晴らしいことか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえ、それが、夢の中であっても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、昨夜、空を飛べるようになった夢を見ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうなった状況はよくわからないが、

夢の中で、ある日突然ワタシは、空を飛ぶ能力を身につけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、その「飛行法」に問題があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人が空を飛ぶスタイルというと、

スーパーマンやウルトラマンみたいに

手を上にあげてしゅーっと飛んでいくイメージ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あるいは両手を翼のように広げて

ゆるやかに羽ばたきながら滑空するイメージだったりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが、夢の中でワタシの獲得した飛び方は、

ちょうど平泳ぎのように両手両足をかきながら飛ぶ、というものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それも、がんばってかくと天井の高さくらいまではいけるが、

それ以上はどうやっても上がれず、

一生懸命かいてないと落ちてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必死でかきまくるが、いや、疲れるのなんの・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爽快感は、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、せっかく空を飛ぶ夢を見たのだが、

朝起きたら、妙な疲労感が・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やはり、人間は空を飛ぶようにはできていないのだ。(^^;

 

 

 

 


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2019.05.14

還暦

さて、5月13日はワタシの60歳の誕生日、

ってことはついに「還暦」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが生まれた60年前、昭和34年、1959年といえば、

少年マガジン、少年サンデーが創刊。

NHK教育テレビ、フジテレビ、テレビ朝日(当時はNET)が放送開始。

4月の皇太子ご成婚と、9月の死者5000人超の伊勢湾台風が

最も大きなニュースであったようです。

1964年の東京オリンピックの開催が決まったのもこの年。

ちなみに在京テレビ局では日本テレビの放送開始は1953年、TBSが1955年でしたが、

テレビ東京はかつて東京12チャンネルといい、

放送開始が1964年とワタシの生まれたあとなので

その放送開始時のことだけは記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その前年の1958年にチキンラーメン、ホンダのスーパーカブ、三菱鉛筆ユニの発売。

東京タワーの完成もその年だった。

ワタシが4歳の1963年には国産初の連続アニメ「鉄腕アトム」が放映を開始し、

鉄人28号、エイトマンが、すぐそのあとを追う。

提供はそれぞれ明治製菓、グリコ、丸美屋だった。

同年、日本初の高速道路として名神高速道路の一部が開通。

そして、翌1964年には東海道新幹線が開通し、

東洋で初めてのオリンピックとなる東京オリンピックが開催されるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1954年から1973年まで続いたとされる日本の高度経済成長期。

すると、ワタシが生まれたのは、高度経済成長期に入って5年目、

もう、終戦から15年がたち、日本は敗戦からは復興していました。

そこから1973年までといえば、ワタシが中学2年生になった年です。

つまり、ワタシは日本が躍進を続ける14年間に生まれ育ったわけです。

国内だけではなく、世界的にも科学の発展とともに

超音速機が飛ぶようになったり、衛星中継が始まったり

米ソの宇宙開発競争の果てに1969年には人類がはじめて月に立ち、

その生中継をテレビで見たのは感動でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、大変ラッキー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生活はどんどん豊かになり、トイレは水洗になり、

窓はアルミサッシになり、新しい電化製品や自動車が次々に登場。

街は加速度的に近代化され、暗闇はどんどん姿を消していきます。

都市部の人口は増え続け、市街地は常に活気に満ちていました。

物価は上昇するも、賃金も倍増し、

国民は「明日はきっと今日よりよくなる」ということを実感していました。

「科学は万能である」「科学は人類を幸せにする」ということは、

子供たちの心に大きな夢と希望を与え続けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今思えば、日本の歴史上きわめて特殊な良い時代に

たまたま居合わせた幸運を感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなワタシもついに「還暦」。

ちなみに10年前のブログではこんなこと書いてましたね。

半世紀の男

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、何とかここまで生きてきました。

思えば、10年前に黒かった髪は白髪になり

(ただ、毛染めをやめたからで、ずいぶん前から白髪はあったが)

その後受診するようになった人間ドックで

高血圧症、動脈硬化、心臓の異常を指摘され、

今では3種類のクスリを常用することになっており、

「老い」は徐々に身近なものになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前は60歳というと多くの企業では「定年」であり、

ワタシの同級生でも、ことしから勤務医を辞めた者もいたり、

ワタシより1個上の耳鼻科のS先生は、

もう細かい手術はやめ、後輩に任せることにしました、

と先日の紹介状のお返事にありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう、この歳は医者としての人生も先が見えており、

今後は、まとめに入る時期だなあ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は、いつ、どんな形で仕事を辞めるか、

ということは、ことあるごとに考えております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、ワタシと同学年の天皇陛下は、

これから「本職」が始まるわけで、大変ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 妻からの誕生日のプレゼントはワタシがリクエストした「お茶碗」と「お椀」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は最近ワタシ「自炊派」でして、

味噌汁なんかもインスタントではなく、煮干しで出汁とって自分で作っています。

今朝から、このお茶碗とお椀で60歳最初の朝飯を美味しくいただきました。

卵かけごはんに納豆と白菜と大根の味噌汁。

醤油とお味噌は「減塩」です。(^^;

 

 

 

さあ、ようやく60歳。

お楽しみは、これからだ。

 

 

 

 

 


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2019.05.03

平成から令和へ~徳仁陛下

 そして、新天皇になられたのが、徳仁陛下です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この方には、ワタシはかなりのシンパシーがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず、なんといっても同学年。

ワタシは昭和34年5月、陛下は昭和35年の2月早生まれだから、

同じ年に小学校に入り、同じ年に高校を卒業した。

残念ながら、大学入学はむこうの方が1年早かったけど。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、同じ時代を経験してるわけです。

たぶん、小学校低学年のころは怪獣ブームに夢中になり、

そのあとはドリフのテレビや、スティーブ・マックィーンの映画なんかも見たかと思う。

中学時代に好きなアイドルは誰だったか知らないけど、ワタシは山口百恵ちゃんでした。

皇族の方なので、自分で買いに行くのは難しいけれど

学校のトモダチからエロ本を借りたこともあったかもしれない。

高校時代には旺文社や進研の全国統一模試を一緒に受けたはずで、

場所は違えど、同じ時間に同じ数学の問題に取り組んでいた可能性は高い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシには同い年の女の子のイトコがいて、

実は、彼女は学習院初等科で徳仁親王、当時は浩宮さま、の同級生だった。

運動会とか、マスコミの取材が大変だったそうだ。

親戚の中では、将来のお妃になったりして、なんて冗談もありましたが、

御縁はなかったようで・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、一家の長男で、弟がいる点も同じ。

我が家は祖父も父も医者だったので、

何となく、医学部に入らねばならいのではないか、

というプレッシャーも、ちょっと似てるかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、子供のころ、何かにつけて、浩宮さまに抱く感情は、

「大変だなあ。オレは天皇家の長男に生まれなくて良かった。」

ということであった。

別に、医者にならなくて好きな職業についてもそれは構わないわけで。

いっぽう、浩宮本人的には

「なんで、オレはこんな家に生まれちゃったんだろう。」

と思った事が、ゼッタイあると思う。

子供のころから大きくなったら何になりたいか、

なんてことは折に触れ考えるものだが

全国の同学年の男子で、将来天皇になりたいやつ、なんて

多分ゼロだったでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 特に、中学、高校あたりになると、ワレワレの世代は特に

大人社会に対する反発や、親に対する反抗心が芽生えるものである。

徳仁親王もいろいろ悶々とした事があったでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でもそんな中で、ガンバレ、と同級生として

心の中でエールを送っておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、うれしかったのは結婚が決まった時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じような意味で、皇后になりたい女の子なんて、

たぶん限りなくゼロに近いので、

果たして浩宮くんは、結婚できるのだろか、と余計な心配をしておりました。

言っちゃあなんだけど、そんなにイケメン

(当時の言葉では「ハンサム」)、ってわけでもないしなあ。

もし結婚できるとしても、家柄の良いブサイクな女性であろう、カワイソウに、

と思っていたので、美人の雅子さんとの婚約が発表された時は

おー、やったぜー、ホント、よかったねー、おめでとう、

と、これも心の中で快哉をあげました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、結婚8年目に待望の赤ちゃんができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雅子さまが、愛子さまを出産されるとき

ワタシの大学時代の同級生の産婦人科医の定月さんが

東宮職御用掛として、雅子さまの侍医を務めたので、

これまた、シンパシーがあるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、雅子さまがストレス(イジメ?)から

「適応障害」といわれたときも、大変心を痛めておりました。

ガンバレ、お前が助けるんだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、即位された天皇陛下はオレと同い年なので59歳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 厚労省の最新の調査では60歳定年の企業が全体の79.3%、

1000人以上の企業では実に90.6%が60歳が定年だという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシの友人でも60歳の定年で病院を辞めたものもいて、

世間一般には59歳といえば、いままで仕事頑張ってきたけど、

そろそろ引退、のんびり悠々自適の老後を考えようか、

という発想が出てくる年代なので、

この歳から、本職の天皇職に就職する徳仁親王は、またこれ大変だなあ、

とつくづく思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でも、ご挨拶に立たれた陛下のお姿を見て、

頑張ってねー、と、またエールを送りたくなりました。

何より、雅子さんの笑顔がステキでしたね。

お二人の国内外での、ご活躍を期待しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2019.05.02

平成から令和へ~明仁陛下

 天皇が譲位し上皇となり、平成が終わり令和が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平成天皇とは崩御後に呼ばれる呼称であろうから、

旧天皇、現上皇陛下のことですが、

実に立派な人物であったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 NHKで天皇陛下についての4集にわたる特番見ましたが、

改めてそう感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生まれたのは昭和8年、ということは

少年時代は日本が急速に軍事国家になってゆく時代。

太平洋戦争が始まった昭和16年には8歳で、

ゆくゆくは自分が、

今まさに米英と戦争中である

この大日本帝国の陸海軍を統帥しなけれなばならないわけで、

そのような意識が次第に培われ、

かつ、周囲もそのような教育を徹底的に刷り込んでいったと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、敗戦は10歳の疎開先で知ることになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんどは、わが身が今後どうなるか。

10歳の明仁少年が

とてつもなく激しい不安と恐怖にさいなまれたことは

想像するにあまりあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、明仁親王は聡明で、また高潔な方であった。

天皇制そのものが議論される戦後社会にあって、

皇太子時代から

自分のなすべきこと、自分の生き方を

周囲の意見や、皇室の慣習ではなく

自分の考えで決めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お妃も初めて民間からめとられたわけですが、

なんといっても、一緒にテニスやった女の子のことが好きになっちゃって、

プロポーズして、結婚しちゃうなんて、今でもステキなのに

当時の時代背景で考えたら、もう、カッコ良すぎますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生まれた子供を、自分たち夫婦のもとで育てる、というのも、

それまでの皇室の慣例に反することでした。

自らが2歳から親元から離れされて育てられたことに対する反発かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 55歳で即位されてからは、どこまでも国民のため、

日本国民の「象徴」として自分ができることはすべてやる、といった様子でした。

64年間という、長い父昭和天皇の在位期間中に、

いろいろ考えられていたことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とくに太平洋戦争の戦争責任と、世界平和への希求は、

上皇陛下が、もっとも心を砕いていたところでしょう。

沖縄や、中国、サイパンなどへの訪問、

特に沖縄には皇太子時代には火炎瓶を投げつけられる

などの事件があったのにもかかわらず繰り返しご訪問され、

サイパンでは自らの意向で韓国・朝鮮人慰霊碑にも立ち寄ったといいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 譲位の意向を示されたのも、自らのことよりは、

自分が長く在位しては、皇太子の天皇としての仕事が十分できないので、

といった思いもあったのではないでしょうか。

上皇陛下が即位されたのは55歳でしたが、

今回の天皇陛下はワタシと同級なので、59歳で即位、ということになります。

この辺も、古いしきたりにとらわれず、

現在の情勢に合わせて、改善すべきところは改善する、

という陛下の明確な意思が感じられて大変好感が持てます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とくに、譲位のお言葉の際に、

平成という時代が、日本に戦争が無い時代で本当に良かった、

というくだりで、感極まって声がやや上ずったのが印象的でした。

陛下は、戦争のない平和な時代、ということに対し、

日本中の誰よりも深く望んでいるのだと思います。

政治家たちに爪の垢でも煎じて飲ませたい感じです。

ノーベル平和賞とらないかなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、この方が日本の象徴で良かった。

このような立派な天皇をいただけたことは国民として誇りに思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 業務と、責任から解放され、

まだまだお元気で

上皇后さまとラブラブな日々をお送りいただきたいものだと思います。

このカップルも「日本の象徴」たるにふさわしい

本当にステキなご夫婦です。

 

 

 

 

 

 


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2019.04.26

いだてんとレオタード

何とか見続けている(笑)大河ドラマ「いだてん」ですが、

最初から気になっていたオープニングテーマに出てくるこの選手。

(もちろん右の女の子の方)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あー、見覚えがある、

とっさに頭に浮かんだ名前は「オルガ・コルブト」だったのですが、

先日ネットで調べたら、コルブトちゃんではなく、

同じミュンヘンオリンピック女子体操ソ連代表のルドミュラ・ツリスチェワさんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、ネットで検索した情報をもとに、記憶をたぐり寄せてみました。

2人はともにソビエト連邦代表といっても、

コルブトはベラルーシ出身なので、今ならロシア代表ではない。

ツリスチェワはロシア連邦内のチェチェン共和国出身だから、

今でもロシア代表ではあるが、ロシア連邦からの独立をめぐって

いまだ紛争の絶えないあのチェチェン、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ツリスチェワは20歳、ソ連女子体操のエースであったが、

そこに彗星のごとく現れたのが17歳のコルブト選手。

コルブトはそのテレビ映えする愛くるしさで、一躍人気者となり

ミュンヘンの恋人といわれた。

そして平均台、床で金メダルをとったが、

ツリスチェワは個人総合の金メダルはとったが、種目別では、銀、銅にとどまった。

こちらがコルブトちゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、何で、オレはこの顔を覚えているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミュンヘン・オリンピックは1972年の開催で、

札幌オリンピックと同年、ワタシは札幌大会の時小6、

ミュンヘンは中1で、実は最も印象に残っているオリンピックである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水泳では、日本の田口信教選手が100m平泳ぎで金メダル、200mで銀、

青木まゆみ選手が100mバタフライで金メダル、

マーク・スピッツ選手が1人で7個の金メダルをとったのも印象深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんといっても松平監督率いる日本男子バレーが金メダル。

オリンピック前にテレビで「ミュンヘンへの道」という

日本バレーチームのドキュメンタリーアニメを放映し、

その期待通りに本番で初めての金メダル、

しかも決勝ブルガリア戦はセットカウント0-2からの大逆転勝利、というのは、

サッカー少年だったワタシですが、

数か月前札幌オリンピックでの70m級ジャンプで

笠谷、金野、青地が金、銀、銅を独占したことを凌ぐほどの感動を覚えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ナゼに女子体操か?

というと、考えるにこれはたぶんおそらくレオタードでしょう。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4年前のメキシコ大会の時は、まだ小学4年生のガキだったわけですが、

ミュンヘン・オリンピックは中学1年生、

急に色気づいて来た年ごろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女子体操選手のレオタード姿には、

4年前には感じなかった魅力を感じたはず・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、当時のオリンピックといえば国家間の対立を背景とした

政治的な影がつねにつきまとう。

ミュンヘン・オリンピックではパレスチナのテロ組織「黒い九月」が

選手村でイスラエルの選手11人が殺害されるという

オリンピック史上最悪の事件も起きている。

 

女子体操でいえば、その前のメキシコオリンピックで

チェコスロバキア代表のベラ・チャスラフスカが、

その直前に行われたソ連軍のプラハ侵攻に抗議の姿勢を示し、

西側諸国の賛同を得た事件があった。

ソ連代表の選手は図らずも、

悪役の役回りを演じさせられる羽目になった。

ワタシ的には当時オバサンぽかったチャスラフスカ選手よりも

ソ連のクチンスカヤ選手の方がタイプだったんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんな東西冷戦の時代、社会主義陣営のリーダーであるソビエト政府は、

ソ連代表選手にも国家の威光を示すように強く求めたはずであり、

ベラルーシ出身のツリシュチェワ選手などは、

かなりのプレッシャーと、

また、自身がチェチェン出身であることによる違和感を感じていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オルガ・コルブトは初めて現れたアクロバット系の選手で、

まったくの小児体形で、

軽さと機敏さを武器に次々と軽業のような演技を繰り出した。

それまでの女性らしさ、優美さで競ったチャスラフスカ時代の体操を

一変させたとも言える。

その意味で、ツリスチェワは

最後のクラシカル・スタイルの選手だったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、そのミュンヘンの4年後のモントリオールオリンピックでは、

女子体操界には精密機械のような演技をする10点満点少女、

当時わずか14歳のナディア・コマネチの時代がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事を書くためにネットを検索していたら、思わぬニュースを発見。

その一つは、

当時コルブト選手はソ連代表の体操コーチから

性的虐待を受けていた、というもの。

そしてもう一つは、昨年のニュースで、61歳のオルガ・コルブトさんが、

金銭的に困窮していたため、

自身の金メダル、銀メダル、はてはレオタード(!)などを

オークションで売りさばいた、とのこと。

うわー、どちらも、悲しくなる事件です。

うーん、あのミュンヘンの恋人は幻想だったのか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば最近は男子体操は日本選手の活躍で時々見ますけど、

女子体操の方はさっぱり知らないですねー。

今はどこの国が強いんでしょうか?

 

 

 

 

 さて、最後にミュンヘン・オリンピックの記録映画

「時よとまれ、君は美しい~ミュンヘンの17日」から。

 


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