秋は夕暮
子供のころから最も好きな季節は夏である。
夏休みはもとより、夏にはなにか「非日常的な」うかれた感じや期待感がある。
「夏にご用心」とか「ひと夏の経験」とか「渚のシンドバッド」とか、
夏の歌は、そんなワクワク感をかき立てる。
その反動で、秋は最もキライである。
イジメは無かったが、
夏休み明けの9月に学校に行くのは苦痛であった。
今年の秋は気温高めであるが、
それでも朝晩の空気や、
何より、外来の患者さんのハナの中をみてると、
ああ、秋が来たなあ、と思うわけで。
いつの間にか、日も短くなり、
夕暮の早さにあらためて気づかされたりする。
そこで唐突に思う。
清少納言が「枕草子」を書いたのはいつであったか。
いや、平安時代とかいってるのでは無いですよ。
「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮」「冬はつとめて」、
の「枕草子」は四季折々の「オイシイところ」「味わうべきキモ」を書き連ね、
いわゆる「あるあるネタ」で約1000年前に「イイね」をいっぱいもらって
随筆の端緒、日本文学の金字塔の名をかちとった作品である。
当時は印刷機も出版業界もないわけなので、
宮廷で回し読みしたり、写本が出回ったり、ということは、
いまだったら、ブログに近い。
そういう意味ではコンセプトは
この「ロックな耳鼻科」にかなり近い、ともいえる。
(むろん、クオリティは別にして。)(*^^)v
で、その春夏秋冬の随筆はいったい、
いつの季節に書かれたものだろうか
むろん、月刊誌のコラムや、新聞の日曜版みたいに
その季節、その季節ごとに書かれ、
季節の移り変わりに応じて公開され、
あとでまとめて編集されたものかもしれないが
その可能性は低いと思う。
物書きの発想から言えば、
四季について書こうと思ったときには、
まず、どれかの季節を思いついて
「春はあけぼの」ならば、「夏は夜」かな、
そのあと「秋は~」「冬は~」と、一気に書いたに違いない。
そこで、ワタシの推理であるが、書いたのは秋だな、と。
春は「夜明け」夏は「夜」冬は「早朝」が良いと言ってるが、
秋は「夕暮」である。
ムカシは暗いので夜にはあまりものを書かないような気がするし、
寒くて凍えてる冬の朝でもないだろう。
すると、春か秋だが、
秋になり、あー、夏が終わっちゃったなー、このあとは冬がくるなー、
とぼんやり夕焼けを眺めていたら、秋の夕焼けって素敵ね、
などと思いついた、とか。
さらに有力な根拠としては、時間帯のチョイスである。
暑い夏が終わったあとに、
あー、夏は暑かったわ、
夏場に十二単なんてバカみたい、やっぱ、夏は夜よね、夜、
ということで、夜をチョイス。
いっぽう、暑い夏が終わったあとは、なんとなく冬の寒さにあこがれるもの。
だから、冬の早朝のあのピンと張り詰めた感じ、懐かしいわあ、
との思いで「冬はつとめて」。
もし、寒い冬を経験した直後だったら、
もう、サムイのはこりごり、ということで冬の早朝なんか選ばないであろう。
ムカシは夏は今ほど暑くはなく、冬は今よりも寒かったのに、
この選択に至ったのは、このような段取りが推理される。
いかがでしょうか?
ところでヴィヴァルディが「四季」を作曲したのは、
どの季節だったのであろうか?
コレは、多分「春」、でしょう。
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