ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2019.06.24

ビフテキ

 先日ステーキを焼いて食べましたが、

かつてはステーキのことを「ビフテキ」と呼んでいましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 むろん「ビーフ・ステーキ」なので、「ビフテキ」なんですが、

要するに当時は牛肉は高級食材だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いま高級料理といえばフレンチとか京懐石などがイメージされるが

ワタシが子供のころは夢のご馳走≒ビフテキであった。

この辺、今では高級車というとベンツ、フェラーリあたりが想起されるが、

昭和30年代には高級車といえばキャデラックだった感覚に極めてよく似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い浮かぶのはこの話。

巨人の星第28話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 延長戦の上、東京都大会の決勝に駒を進めた青雲高校野球部のために

PTA会長伴大造氏が、決勝戦前に自宅で前祝いの食事会を催すのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、供されたご馳走の数々だが、おそらくメインディッシュはビフテキであった。

たしか、テキにカツとかいってビフテキとトンカツが出たのでは・・・。

しかし、野球部、ユニホームのままメシ食うなよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天野先生は、この事態に憂慮していたが、コイツもトレーニングウエアだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果的に食中毒か食べ過ぎかで、

伴宙太と星飛雄馬を除く全員がヒドイ下痢に見舞われ、

決勝戦は大ピンチになるのだが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、ビフテキの赤い部分みると、

時々チラッとこのエピソードが頭をよぎることはありますね。(^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、ここまで書いて、ちょっとネットで調べたら、意外な事実が判明。

なんと「ビフテキはビーフステーキの略じゃない?

↑ クリックしてみてください。知らなかったー、そうだったのかー。

じゃあ、「トンテキ」とかは文脈的にオカシイということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにここのお店のお肉、かなりいいお値段です

少なくとも自分で焼く勇気はないなあ。

 

 

 

 

 

 

 


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2019.06.22

計算ドリル

夕方、受診する小学生の中には、

宿題を持参して、待合室でやっている子がいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと目にとまった「計算ドリル」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、もっともキライなヤツだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

算数は音楽やスポーツと同じ「先天的才能」が大きく関与するが、

おそらくワタシにはその才能は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 例えば国語なぞは、漢字書き取りを除けば、

小、中学校時代はいつもほぼ満点、

高校、大学受験でも古文、漢文はともかく

試験勉強的なことをした記憶がほとんどないにもかかわらず、

現国は常に高得点であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、算数は、ともかく計算が苦手。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それがわかったのは小学2年生の時。

授業でヒトケタの足し算を20問くらい、

できた順に先生のところにノートを持って行って採点してもらう、

ということがあった。

みんながどんどん仕上げて、先生にみてもらったが、

ワタシが持って行ったのはクラスの半分より後ろだったと思う。

担任の若い女性のU先生は、ワタシの顔をビックリしてみながら、

「小倉くん、ずいぶん遅いね。」

と言ったことを今でも覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以後算数は、ワタシの超苦手科目であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、だいたい年度の初めは「数と計算」で、チョー苦手だが、

2学期後半から「図形」関連、いわゆる「幾何」になるので、

ここからは、大変算数が楽しくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 算数はやがて数学になり、中学から高校になるにつれ、

数字が減って、a,b,c,やx,y,z,になってくると、

数学は次第に苦手科目ではなくなり、むしろ得点の狙える科目にかわってきた。

方程式、二次関数、微分、積分など、問題を解く喜びもあり、

助かった、と思ったものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今でも、数字は苦手で、買い物のおつりとか、

グループで呑みに行った時のワリカンとかは、

基本、ひとまかせである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 てなわけで、たとえば高校の数学参考書などは、

ヒマがあったら、買ってみてまた問題を解いてみたいな、と思うことはあるのだが、

小学校の算数ドリルだけは、カネもらっても絶対やる気はないぞ。

 

 

 

 


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2019.06.05

健診で学校に行くと感じるモヤモヤ

 やっと春の学校検診が終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう、これが苦痛で、苦痛で・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午前中の外来が終わってから

昼休みの時間を利用して250人程度、時には300人近くを診て、

また、戻って午後の診療、というのはこの歳になるとさすがにツライ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、学校という場所は好きなんだけど、

いまだに学校の先生はなんとなく苦手。

コレはナゼなんだろうと考えると

高校はそうではないけど、

特に小学校あたりで感じるのは自分の記憶と重なってしまうせいなのか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは小学校、中学校とも地元の公立。

成績は良かったので、小学校の時はずっと学級委員長、

中学校の時は学級長をどの学年でもやっていました。

常にクラスのリーダーで、学芸会ではかならず主役だし、

目立っていたと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、授業態度は不真面目、

素行はあまりほめられたものでは無かったような。

でも当時は、そんなことは自覚が無く、

自分は、ほぼ「良い子である」と思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケンカをしたり、女の子に意地悪したり

校内の器物を破損したり

(雨の日に教室内でバレーボールやってガラス割ったなあ)

授業中のヤジや、無駄話は多く、

小学4年生の時はワタシの席は、担任の目の届く

最前列の前、教卓の横に机を置かされていた。

廊下や、職員室に座らされたことも多く、

ゲンコツ、ビンタなどの体罰も当時は日常でした。

まあ、自分が悪ければ罰は当然だったので、

今回はちょっとマズった、くらいしか思わなかったでしたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、テストはいつも満点で、作文や書道、理科研究では

常に学校代表になってしばしば賞をもらっていたので、

自分はそんなに悪い子ではない、と思っていたが、

今になって、改めて記憶にある客観的事実から分析すると

不良ではないが、いわゆる問題児で、

親や教師に心配や苦労かけたんだろうと、推測される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オソロシイことだ・・・・。(ーー;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親は、もう死んじゃったけど、

小中学校時代の先生が何人か医院に訪れることがあります。

今でも緊張しますし、当時の話は怖くてできませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、何とか、オトナになって良かった。

 

 

 


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2019.05.28

ナポリまでの遠い道のり

そもそも最初はこのお店。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スパゲティ専門店の密集度は日本一ともいわれる

群馬県央部で青春時代を過ごしたワレワレ夫婦は、

その味が恋しくなって、定期的に群馬のパスタ屋さんに足を運ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 注文するメニューは様々だが、前回はナポリタンを注文してみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うーん、なんか違うなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも、かつてはスパゲティ、当時はスパゲッティーといったが、

スパゲッティといえばナポリタンとミートソースしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこの洋食屋に行っても、デパートの大食堂でも、喫茶店でも

メニューにあるのはナポリタンとミートソースの二択。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが、大学に入って、この「シャンゴ」なんかに行くようになって、

「ボンゴレ」だとか「カルボナーラ」だとか「ペスカトーレ」なんかに

初めて出会ったわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、逆にこの「シャンゴ」で食べたナポリタンは「オレのナポリタン」ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、ナポリタンのことが気になって気になって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨年12月のこのブログもそんなことを反映している。

だが、このナポリタンも「オレのナポリタン」では無かったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1月に足利にある美味しい洋食屋さん「伴兵衛」でナポリタンを注文。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コレはかなり近い。

その時に「オレのナポリタン」に必要なものは

「タマネギ」「ピーマン」「粉チーズ」そして少々の「タバスコ」であることがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、残念なことにこのお店、

その後まもなくご主人が急にお亡くなりになりお店を閉めてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうなったら、自分で作るしかない。

で、作った第1弾がコチラ。

市販のレトルトのナポリタンにピーマン、キャベツ、ベーコンを足してみた。

色からもわかるように、何となく、野菜の追加で薄味になっちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、かようなものを導入。

これなら味の調節は「好きなだけ」できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてタマネギ、ピーマンは必須として、

ワタシが子供のころは、ベーコンなんて洒落たものは

まだあまりなかったと記憶しているので、

代わりにソーセージでいってみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらに、前回は調達しそこなった粉チーズ&タバスコの往年のコンビを招聘。

やっぱ、ミュンヘンオリンピックの松平ジャパンにあって王古、森田に対する、

猫田、嶋岡みたいな役割といえばこのコンビだ。

これは、ほぼ「オレのナポリタン」だ、と満足。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、完成を見たかに見えた「オレナポ」であるが、

この間スーパーでこんなモノを発見。

おおー、コレだ―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さっそく、導入。

赤ウインナといえば避けては通れない「タコさんウインナー」。🐙

そこで、人生初の「タコさんウインナ―」にも挑戦。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 充分炒めたのち、パスタを投入。

やっぱ、色が、イイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これにて、究極の「オレナポ」完成。(^O^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、調子こいてタコウインナーを投入しすぎたので、

「タコの惑星」になってしまったのが、反省点です。

 

 

 

 

 

 

 


3件のコメント
2019.05.14

還暦

さて、5月13日はワタシの60歳の誕生日、

ってことはついに「還暦」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが生まれた60年前、昭和34年、1959年といえば、

少年マガジン、少年サンデーが創刊。

NHK教育テレビ、フジテレビ、テレビ朝日(当時はNET)が放送開始。

4月の皇太子ご成婚と、9月の死者5000人超の伊勢湾台風が

最も大きなニュースであったようです。

1964年の東京オリンピックの開催が決まったのもこの年。

ちなみに在京テレビ局では日本テレビの放送開始は1953年、TBSが1955年でしたが、

テレビ東京はかつて東京12チャンネルといい、

放送開始が1964年とワタシの生まれたあとなので

その放送開始時のことだけは記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その前年の1958年にチキンラーメン、ホンダのスーパーカブ、三菱鉛筆ユニの発売。

東京タワーの完成もその年だった。

ワタシが4歳の1963年には国産初の連続アニメ「鉄腕アトム」が放映を開始し、

鉄人28号、エイトマンが、すぐそのあとを追う。

提供はそれぞれ明治製菓、グリコ、丸美屋だった。

同年、日本初の高速道路として名神高速道路の一部が開通。

そして、翌1964年には東海道新幹線が開通し、

東洋で初めてのオリンピックとなる東京オリンピックが開催されるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1954年から1973年まで続いたとされる日本の高度経済成長期。

すると、ワタシが生まれたのは、高度経済成長期に入って5年目、

もう、終戦から15年がたち、日本は敗戦からは復興していました。

そこから1973年までといえば、ワタシが中学2年生になった年です。

つまり、ワタシは日本が躍進を続ける14年間に生まれ育ったわけです。

国内だけではなく、世界的にも科学の発展とともに

超音速機が飛ぶようになったり、衛星中継が始まったり

米ソの宇宙開発競争の果てに1969年には人類がはじめて月に立ち、

その生中継をテレビで見たのは感動でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、大変ラッキー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生活はどんどん豊かになり、トイレは水洗になり、

窓はアルミサッシになり、新しい電化製品や自動車が次々に登場。

街は加速度的に近代化され、暗闇はどんどん姿を消していきます。

都市部の人口は増え続け、市街地は常に活気に満ちていました。

物価は上昇するも、賃金も倍増し、

国民は「明日はきっと今日よりよくなる」ということを実感していました。

「科学は万能である」「科学は人類を幸せにする」ということは、

子供たちの心に大きな夢と希望を与え続けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今思えば、日本の歴史上きわめて特殊な良い時代に

たまたま居合わせた幸運を感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなワタシもついに「還暦」。

ちなみに10年前のブログではこんなこと書いてましたね。

半世紀の男

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、何とかここまで生きてきました。

思えば、10年前に黒かった髪は白髪になり

(ただ、毛染めをやめたからで、ずいぶん前から白髪はあったが)

その後受診するようになった人間ドックで

高血圧症、動脈硬化、心臓の異常を指摘され、

今では3種類のクスリを常用することになっており、

「老い」は徐々に身近なものになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前は60歳というと多くの企業では「定年」であり、

ワタシの同級生でも、ことしから勤務医を辞めた者もいたり、

ワタシより1個上の耳鼻科のS先生は、

もう細かい手術はやめ、後輩に任せることにしました、

と先日の紹介状のお返事にありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう、この歳は医者としての人生も先が見えており、

今後は、まとめに入る時期だなあ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は、いつ、どんな形で仕事を辞めるか、

ということは、ことあるごとに考えております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、ワタシと同学年の天皇陛下は、

これから「本職」が始まるわけで、大変ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 妻からの誕生日のプレゼントはワタシがリクエストした「お茶碗」と「お椀」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は最近ワタシ「自炊派」でして、

味噌汁なんかもインスタントではなく、煮干しで出汁とって自分で作っています。

今朝から、このお茶碗とお椀で60歳最初の朝飯を美味しくいただきました。

卵かけごはんに納豆と白菜と大根の味噌汁。

醤油とお味噌は「減塩」です。(^^;

 

 

 

さあ、ようやく60歳。

お楽しみは、これからだ。

 

 

 

 

 


2件のコメント
2019.04.26

いだてんとレオタード

何とか見続けている(笑)大河ドラマ「いだてん」ですが、

最初から気になっていたオープニングテーマに出てくるこの選手。

(もちろん右の女の子の方)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あー、見覚えがある、

とっさに頭に浮かんだ名前は「オルガ・コルブト」だったのですが、

先日ネットで調べたら、コルブトちゃんではなく、

同じミュンヘンオリンピック女子体操ソ連代表のルドミュラ・ツリスチェワさんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、ネットで検索した情報をもとに、記憶をたぐり寄せてみました。

2人はともにソビエト連邦代表といっても、

コルブトはベラルーシ出身なので、今ならロシア代表ではない。

ツリスチェワはロシア連邦内のチェチェン共和国出身だから、

今でもロシア代表ではあるが、ロシア連邦からの独立をめぐって

いまだ紛争の絶えないあのチェチェン、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ツリスチェワは20歳、ソ連女子体操のエースであったが、

そこに彗星のごとく現れたのが17歳のコルブト選手。

コルブトはそのテレビ映えする愛くるしさで、一躍人気者となり

ミュンヘンの恋人といわれた。

そして平均台、床で金メダルをとったが、

ツリスチェワは個人総合の金メダルはとったが、種目別では、銀、銅にとどまった。

こちらがコルブトちゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、何で、オレはこの顔を覚えているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミュンヘン・オリンピックは1972年の開催で、

札幌オリンピックと同年、ワタシは札幌大会の時小6、

ミュンヘンは中1で、実は最も印象に残っているオリンピックである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水泳では、日本の田口信教選手が100m平泳ぎで金メダル、200mで銀、

青木まゆみ選手が100mバタフライで金メダル、

マーク・スピッツ選手が1人で7個の金メダルをとったのも印象深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんといっても松平監督率いる日本男子バレーが金メダル。

オリンピック前にテレビで「ミュンヘンへの道」という

日本バレーチームのドキュメンタリーアニメを放映し、

その期待通りに本番で初めての金メダル、

しかも決勝ブルガリア戦はセットカウント0-2からの大逆転勝利、というのは、

サッカー少年だったワタシですが、

数か月前札幌オリンピックでの70m級ジャンプで

笠谷、金野、青地が金、銀、銅を独占したことを凌ぐほどの感動を覚えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ナゼに女子体操か?

というと、考えるにこれはたぶんおそらくレオタードでしょう。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4年前のメキシコ大会の時は、まだ小学4年生のガキだったわけですが、

ミュンヘン・オリンピックは中学1年生、

急に色気づいて来た年ごろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女子体操選手のレオタード姿には、

4年前には感じなかった魅力を感じたはず・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、当時のオリンピックといえば国家間の対立を背景とした

政治的な影がつねにつきまとう。

ミュンヘン・オリンピックではパレスチナのテロ組織「黒い九月」が

選手村でイスラエルの選手11人が殺害されるという

オリンピック史上最悪の事件も起きている。

 

女子体操でいえば、その前のメキシコオリンピックで

チェコスロバキア代表のベラ・チャスラフスカが、

その直前に行われたソ連軍のプラハ侵攻に抗議の姿勢を示し、

西側諸国の賛同を得た事件があった。

ソ連代表の選手は図らずも、

悪役の役回りを演じさせられる羽目になった。

ワタシ的には当時オバサンぽかったチャスラフスカ選手よりも

ソ連のクチンスカヤ選手の方がタイプだったんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんな東西冷戦の時代、社会主義陣営のリーダーであるソビエト政府は、

ソ連代表選手にも国家の威光を示すように強く求めたはずであり、

ベラルーシ出身のツリシュチェワ選手などは、

かなりのプレッシャーと、

また、自身がチェチェン出身であることによる違和感を感じていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オルガ・コルブトは初めて現れたアクロバット系の選手で、

まったくの小児体形で、

軽さと機敏さを武器に次々と軽業のような演技を繰り出した。

それまでの女性らしさ、優美さで競ったチャスラフスカ時代の体操を

一変させたとも言える。

その意味で、ツリスチェワは

最後のクラシカル・スタイルの選手だったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、そのミュンヘンの4年後のモントリオールオリンピックでは、

女子体操界には精密機械のような演技をする10点満点少女、

当時わずか14歳のナディア・コマネチの時代がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事を書くためにネットを検索していたら、思わぬニュースを発見。

その一つは、

当時コルブト選手はソ連代表の体操コーチから

性的虐待を受けていた、というもの。

そしてもう一つは、昨年のニュースで、61歳のオルガ・コルブトさんが、

金銭的に困窮していたため、

自身の金メダル、銀メダル、はてはレオタード(!)などを

オークションで売りさばいた、とのこと。

うわー、どちらも、悲しくなる事件です。

うーん、あのミュンヘンの恋人は幻想だったのか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば最近は男子体操は日本選手の活躍で時々見ますけど、

女子体操の方はさっぱり知らないですねー。

今はどこの国が強いんでしょうか?

 

 

 

 

 さて、最後にミュンヘン・オリンピックの記録映画

「時よとまれ、君は美しい~ミュンヘンの17日」から。

 


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2019.04.11

「ニュープリンス」と「トータル」

 教科書つながりで思い出したこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中学1年生から「英語」の授業が始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは小学校時代、習い事は「習字」のみでしたが、

英語だけは小学校5年生から、近くの塾に

通わされるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「○○ゼミナール」とか「××進学塾」なんていう

いわゆる大手の「予備校」ではなく、

(そもそも、そんなものは田舎町にはなかった)

近所のおばさんが、口コミで集めた子供たちを教えている、

という寺子屋みたいなものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハラダ先生は、子供さんが一人いるシングルマザーで、

自宅の部屋を利用して、7.8人入れる教室で

小・中学生に英語を教えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこに週1回通い、最初に習ったのが「万国音標文字」、

いわゆる「発音記号」でした。

毎週毎週、こればっかし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おかげでワタシはカタカナで英語を覚えたことはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、次にアルファベットのブロック体と筆記体を習いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、いよいよ「教科書」の話です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、地元の中学校で採用されていたのは

「開隆堂」の「New Prince Readers」。

自由の女神が表紙の、通称「ニュープリンス」です。

なので、6年生のころ、この教科書を少し塾で勉強しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この、最初は「Lesson 1」。

内容は、たしか、

「A pen.

A desk.

This is a pen.

This is a desk.」

これは、うろ覚えですが、

いわゆる、有名な「This is a pen.」

のフレーズは、ここにあったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、ワタシが中学に上がるときに、

足利市教育委員会は英語の教科書を開隆堂から

三省堂の「Total English Junior Crown Series」

通称「トータル」に変更したのです。

なので、ワタシは1年生の教科書の最初の部分に関しては、

2種類の教科書で習いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ニュークラウン」が「Be動詞」から入るのに対し、

「トータル」は「一般動詞」から始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は「Step 1」です。

「ニュープリンス」が「Lesson」なのに対し、ここも差別化しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 内容は、以下のものです。(多分、確実。)

「I like English.

I study it.

I speak it.

You like English.

You study it.

You speak it.

You and I like English.

We study it.

We speak it.」

もしかしたら4行目は

「You like English,too.」

だったかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうしてみると、こっちはかなり難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、「Be動詞」より「一般動詞」から入る方が

自然だとは思いますが。、いきなり覚える単語多いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 登場人物もたしか「ニュープリンス」は

男の子が「Ben」女の子が「Lucy」先生が「Miss Green」だったかと思うが

「トータル」では

男の子「Vincent」で、やや難しく、

女の子は「Susie」(スペリングは「スシエ」と覚えた)だけど、

先生はたしか「Miss Lovelace」。

しかも「Vincent」は「スタニスラス(スペリング忘れた)」くんという

ロシア人(当時はソビエト人)のペンフレンドがいたりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、今にして思うと当時は東西冷戦の真っただ中であり、

その中で、アメリカ人のビンセント君とソビエト人のスタニスラス君の

鉄のカーテンを越えた友情というのは、

世界平和を願う教科書編纂者の思いがあったのかも、

と、深読みしちゃったりします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんせ、このペンフレンドのエピソードのタイトルは

「From Russia with love」!

そう、007ボンド映画の最高傑作のタイトル、

邦題は「ロシアより愛をこめて」。

なんと、粋なセンスでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、中学生だったビンセント君もスタニスラス君も、

やっぱりもう還暦なんだろうか。

 

 


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2019.04.10

この新鮮な気持ちを

 新学期が始まり、入学式も行われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しい学年の始まり、いいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが小学校に入学したのは昭和41年。

1年2組、名札は青色。1組が赤、3組が黄色。

担任は河内先生、トナリの席は金井みつこちゃん、

字は「美津子」だったと思う。

そして、覚えているのは国語の教科書の最初のページ、

「みえる、みえる。」

でした。

これは、多分、確実。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんか、高台から景色を眺めている挿絵で、

先生は、その絵を見ながら

「○○くん、なにがみえますか?」

みたいな、授業をしていたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次のページが

「うみがみえる。ふねもみえるよ。のってみたいな。」

だったような気もするが、これは不確か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小学校2年生の時の担任は若い女の先生で、

ウエタケ先生、だった。

字は「上武」だったと思うが確実ではない。

国語の教科書の一番最初は、たしかフナの3兄弟が、

池から川に流されて冒険をするような話だったかと・・・。

ストーリーは覚えてませんが、挿絵の3匹のフナのうち、

一匹だけ目がデカかったのを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、小学校3年生以降の国語の教科書は、覚えていないなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、昭和47年、足利市立第一中学校に入学、

1年2組、担任は技術家庭の坂本先生、

で、国語の教科書の最初の部分は、これまた覚えているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルは「この新鮮な気持ちを」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、ネットで検索すると、出てくるんですねー。

さすが、グーグル先生。

この新鮮な気持ちを(石森延男)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、この「ルナールの言葉」は大変印象深く、

オトナになってから、本を買ったほどです。

その中の

「川、水は決して同じものではないが、同じ様子をしている・」

という文に対し、授業の時に国語の沼尻先生が

「これは、日本の鴨長明というヒトが方丈記で同じことを言っている。」

という解説をしたのだが、

そのころはむろん、「カモノチョウメイ」も「ホウジョウキ」も知らなかったので、

なんのこっちゃ、と思っていました。

その後、高校の古文で

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」

というのに出会い、おー、これかー、と数年ぶりに思ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年の新しい1年生は、どんな教科書を開くのでしょうか。

 

 

 

 

 

 


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2019.04.03

万葉集の読みは

 新元号「令和」の影響で、万葉集ブームが起きてるという。

(ところで、本日は「れいわ」は一発変換できました。(笑))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何事にもノリやすい、日本人の特徴ですが、

まあ、日本人の美点でもあるわけで、良いことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、この「万葉集」の読みは、当然「まんようしゅう」ですが、

かつてはそうではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが子供のころ、たぶん中学生のころかな、

学校で「万葉集」を習って、

そのことが、家族のお茶の間の話題に出たことがあった。

ワタシ的にはかなり鮮明に覚えている事件です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「今は、国語で『まんようしゅう』やってるよ。」

といったワタシに、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「おい、ヒロユキ、それは『まんにょうしゅう』と読むんだよ。」

と、あきれ顔の父がいう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「え?」

というワタシに、

さらに母が、すかさず、

「まちがいやすいのよね、知らないと『まんようしゅう』って読んじゃうわね。」

と、追い打ちをかける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、調べたところ、戦前は「万葉集」の読みは

「まんにょうしゅう」だったということが判明した。

当時はグーグルが無かったので、調べるのは大変だったが。

戦後、佐佐木信綱という国文学者が読みを「まんようしゅう」にしたらしい。

父も母も学校教育が戦前だから、そのまま覚えていたのであった。

事実を知って2人とも驚いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのまま読めば「まんようしゅう」と読みたくなるので、

かつてはこの読みは両親が学生時代のテストの有名なひっかけ問題だったりして。

ここに解説があります。「万葉集の書名の読み方の所説

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いま「まんにょうしゅう」を変換すると、一括変換はなく、

「まん」「尿臭」で分割変換され、

なにやら非常にマズイことになってしまいます。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 


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2019.02.21

チキンラーメンのない時代

 NHK朝の連ドラ「まんぷく」は、ご存知の通り

「チキンラーメン」を開発、インスタントラーメンの礎を築いた

安藤百福氏の成功物語をなぞったドラマです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インスタントラーメン・マニアのワタシとしては、

毎朝楽しみに見てたわけですが、

ここにきてようやく「チキンラーメン」が、

番組では「まんぷくラーメン」として、完成しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら、この朝ドラの影響で、全国的にチキンラーメンが売れてるようで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そりゃそうだ。

やっぱり食べたくなりますね、食べるのにそうハードルの高い食べ物でもないし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくいうワタシも、先日、スーパーで購入、食べました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、昭和33年発売のこのチキンラーメン、

ワタシが子供のころ関東地方ではあまり売ってなかった、という記憶がある。

ちなみにワタシは昭和34年生まれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日清食品のホームページを見ても、その辺まったく記載がないのだが、

1980年代になるまであまりスーパーで見かけた記憶が無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供のころはラーメンとはいえ、母親が作るわけで、

お湯かけてできる具のないラーメンなんか、子供に食べさせるわけにはいかない、

と思ったのかもしれないが、

ともかくチキンラーメンが食卓に上ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サッポロ一番、出前一丁、チャルメラは袋めんの御三家であり、

これらは食事としてしばしば提供され、

ワタシは「ゴマラー油」の出前一丁が好きだったので、

母に「ラーメンは出前一丁で」とリクエストしたことも覚えている。

だが、皆、鍋で煮るラーメンでお湯かけてできるラーメンはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オバQこと「おばけのQ太郎」は1965年、昭和40年からの放映で

当時ワタシは幼稚園の年長、大好きでよく見ていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これに登場する有名なサブキャラが、言わずと知れた「小池さん」。

独身男性で、年がら年中インスタントラーメンを食べている設定だったのだが、

彼が食べていたのはお湯をかけて食べるラーメンだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、子供心には不思議で仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのうち、いろいろな話を聴いて自分なりに

「かつてはお湯をかけて食べるラーメンがあったが、

いまは鍋で煮るラーメンにとってかわられた」

という結論に達し、それをずっと信じていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1970年の万博の前にチキンラーメンの発売元でもある日清食品は

「出前一丁食べて、万国博に行こう。」

という大々的なキャンペーンを打っていた。

「チキンラーメン」ではなく「出前一丁」の販売に力を入れていたわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1971年発売の日清食品の「カップヌードル」の登場によって、

「お湯をかけて食べるラーメン」は「カップヌードル」ということになっていく。

当然、日清食品もこの画期的な新商品を売りまくるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袋めんを作っていた各社もこぞって「カップ麺」の開発、販売に力を注ぎ、

カップラーメン黄金時代が到来した。

ちょうどワタシが一人暮らしを始めた浪人~大学時代である。

ありとあらゆるカップラーメン、カップ焼きそばを食べた気がする。(^^;)

だが、チキンラーメンは、無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにカップめんで好きだったのは

ワンタンの入ってるマルちゃんの「激めん」と

チャーシューの入っているエースコックの「大吉ラーメン」でした。

調べたらどちらも1978年の発売。

おお、まさにワタシが大学に落ちた年、浪人してた年でした(笑)。

下宿の電気ポットで作って夜食に食べた思い出が・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなカップラーメン黄金時代であったが、

ある時、例の「すぐおいしい、すごくおいしい」のCMソングにのって

チキンラーメンが、またまた市場に出回ってきたのである。

調べるとこのCMは1984年らしいから、ワタシの記憶に合致する。

1984年といえばワタシが大学6年生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで、たぶん、1969年ころから1984年ころまでの15年ほどの間、

関東地方ではチキンラーメンがあまり売っていなかったはずなんですけど、

誰か、証明してくれる人、いませんか?

 

 

 

 

 


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