ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2019.07.26

続・子供の名前

 以前、子供の名前は時代を反映する、

という話を書きましたが、

最近気づいたことがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳鼻咽喉科という科の性質上、

乳幼児のお子さんを見ることが多いのですが、

この間は「遊」の字を使った男の子が来ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「遊」の字もそうですが、最近は

「夢」とか「楽」とか「心」とか、

ワレワレのころにはまず選ばれなかった漢字を使って

子どもに名前を付ける親御さんが多いようです。

何となく、将来に不安を抱えるこの時代に

子供に託す親の気持ちがわかる感じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「勝」の字が使われた戦中からひと時代が過ぎて、

高度経済成長の昭和30年代に生まれたワレワレ世代の男の子には、

「登」「昇」「進」「勉」「努」「学」などの漢字が、

多く使われていたようです。

所得倍増、人口増加、物価上昇、何事も右肩上がりの時代に

受験戦争、学歴主義、立身出世を子供に託す親の思いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これも時代の流れでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今どきの漢字を使った名前を否定するものではありませんが、

よく調べてつけないとあとで困ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「心」を使って「心太」なんて名前をうっかり付けないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「心太」の読みは「ところてん」ですので。

 

 

 

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2019.07.25

ケンとメリーのスカイラインからの

 北海道旅行ではからずもケンとメリーのスカイラインのことを思い出しました。

このクルマには、思い出があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが子供のころ小倉家のクルマは日産ブルーバードであった。

初代の310型と呼ばれるモデル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 父がワタシの1歳の誕生日を記念に買ったというから、

この1960年モデルですね。

なぜか、このカタログではフェンダーミラーが描かれていません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実車の写真もありました。

我が家のクルマも色はこれに近かったが、もうちょっとベージュ色がかっていたかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このモデル、愛称は「柿の種」。

理由は、このテールランプの形状です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、もと軍医で質素倹約、質実剛健を旨としていた父は、

このクルマに12年乗りました。

桐生の遊園地も、多摩動物園も、熱海のおじいちゃんの家にも、このクルマでいきました。

赤城山に登ると、しばしば途中でオーバーヒートしちゃうので、

停まってエンジンを冷やさなければなりませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今でこそ、同じクルマに12年乗ることはザラですが、

なんせこのダットサンブルーバードは国産初のモノコックボディの量産車。

しまいには、ドライブに出れば好奇の目で見られ、

同級生にはオグラんちのクルマ、動くのかよとまで言われる始末。

実際にエンジンは不調になり、しばしばクランクで起動、

コラムシフトのギアもなかなか入らなくなり、いきなりエンスト、ということも起こった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、ついに父も買い替えを決意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日産のクルマなので、次も日産のクルマから選ぶことになった。

そこで、ディーラーさんに見に行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、見たのが新型スカイラインである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うわー、カッコイイ。

日本グランプリでの日産車の活躍を目にしていていたワタシは、

ゼッタイ、これにしよう、と思ったものだ。

(注;当時の日本グランプリはF1レースではなく、

日産、トヨタなどのディーラーとプライベータ―が争うスポーツカーレースであった。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このスカイラインが1972年に発売されたスカイラインとしては4代目、

ケンメリと呼ばれる、ケンとメリーのスカイラインであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時ワタシは中学1年生。

ちょっと色気づいてきて、こんなロマンチックな恋人同士のコマーシャルに

何となく、あこがれたりするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディーラーさんでもらった、このステッカーはしばらく大事にとってあった。

スカイラインが、わが家に来ることを願いつつ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、実際は、またくダメだった。

新型ブルーバードへの乗り換えは最初の候補。

我が家の初代ブルーバードは1200ccだったが、

その間にブルーバードは2回のフルモデルチェンジをしており、

高度経済成長の波に乗って1400~1800ccまでボアアップされていた。

中学校の担任の先生がのっていた510型系は人気モデルであったが、

父はそんな高級車はいらん、とこれを却下。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな父がさらにグレードが上である

1600~2000ccクラスのスカイラインを買おうなどというはずがない。

弟の同級生の家が、この時期スカイラインを購入し、うらやましかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 けっきょく、わが家にやってきたのは

1973年1月に新発売となったサニー1200。

2ドアセダンで、リアウインドの処理が、ちょっとスカイラインに似てるところが、

ワタシ的にはちょっと、イイかな、と。(^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 色は、ちょうどこのグリーンであった。

アマガエル的な・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、この12年の国産車の進歩はすさまじく

ワタシ的にはいろいろ満足しました。

なんたって、クルマにラジオや時計がついてるなんて、スゴイ。

いっぽう、インパネなどは鉄製だった旧ブルーバードに比べて

プラスチック樹脂製部品が多用され、ちょっとちゃっちいな、とも思いました。

近代化されたとはいえ、まだ、エアコン、カークーラーの類は当然無かったので、

夏のドライブは大変でしたけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父はこのクルマに約4年乗りましたが、

1977年、急性心筋梗塞で他界。

母には運転免許が無く、長男のワタシはまだ高校2年生でした。

よって、このクルマは、知り合いのつてを頼って売却。

一度、わが家のクルマが他の場所に停まっているところを見たときは、

何となく、寂しかったなあ。

 

 

 

 

 

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2019.07.23

純アリスさんと、セレステと、

先日、元タレントの純アリスさんが亡くなられたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それほど知名度の高い方ではありませんが、

ワタシのブログには一回登場したことがあります

 

 

 

 

 

 

 

 

俳優さんと結婚されお子さんがいらっしゃるとは知りませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡崎友紀さんのドラマシリーズ「ママはライバル」で

有名になったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡崎友紀さんといえば当時の絶対的アイドル、

一人でAKB48の48人分以上の人気がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「奥さまは18歳」「なんたって18歳」に続く第3弾は、

父親の新しい奥さんが、同級生という設定でしたね。

そのママであり、同級生役が純アリスさんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「奥さまは18歳」と「なんたって18歳」はよく見ていたのですが、

この「ママはライバル」はあまり見ていた記憶が無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

調べてみると放送が1972年10月からなので、

当時ワタシは中学1年生。

それまでは、お茶の間でテレビ見ながら過ごしていたのが、

勉強と称して自室にこもって

ラジオばっかり聴くようになった年頃ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

純アリスさんも岡崎友紀さんと同じ1953年生れ、

享年66歳だったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 別にファンだった、というわけではありませんが、

前も書いたようにランサー・セレステで印象が強いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、はるか前に買って押し入れの隅に眠っていたプラモデルです。

1/24の童友社製ランサーセレステ1600。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この箱絵の写真のヒトが純アリスさんです。

今見ると、岡崎友紀ちゃんより、カワイイかも。

ランサーセレステの実車の広告写真をそのままパッケージにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつかは、作らなくては、なのだが・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 買った時も、模型屋さんの棚に長くあったようで・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、この純アリスさん、何してるか、というと「ナマロク」です。

ポータブルデッキを使って鳥の声や、蒸気機関車の音などをステレオで録音し、

オーディオルームのステレオで再生して楽しむ「生録」は

当時、若者の間で大変なブームでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ソニーのカセットデンスケ、欲しかったなー。

早すぎる、純アリスさんの死を悼みつつ・・・。

 

 

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2019.06.25

すきやきの味

牛肉話第3弾(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんな高級食材である牛肉は

ワタシが子供のころは我が家の食卓に上ることはまずなかった。

ビフテキはおろか、スキヤキなんてものも食べたことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのころ登場したのが、コレである。

これは今のパッケージ。発売は1963年。

55周年と書いてありますが、今年は56周年かな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつてのデザインはこんな感じ。

青空が目に染みるが、目を引くのはなんといっても「牛肉」の文字。

高級品だった牛肉入りだぞー、と。

今でいうと、何でしょうね。キャビア入り、とか牛肉なら松阪牛とか、のイメージか。

ワタシなどは、ホンモノの「すきやき」より先に、

こちらの「すきやき」の味を覚えちゃったのであった。

ビーフ味のふりかけではあるが、これがすきやきの味かというと、ちょっとギモン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、完全に定かではないが、

一度この「すきやきふりかけ」をご飯にかけたら、虫が混入していて、

以後一時期「すきやきふりかけ」が食べられなくなった記憶がある。

当時は食品衛生事情は今とは比べようもなく悪かったし、

輸入物のチョコレートから生きたウジ虫様の虫が出てきたのを見たのは

一度や二度ではないので、

特に大騒ぎもせず、

しばらくしたらまた普通にふりかけ食べてましたけどねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おりしも当時丸美屋はテレビ放映中の「エイトマン」のスポンサーであり、

強力にマーケティングをしていた。

ここでも「牛肉」は強調されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中でも、ふりかけに封入されるエイトマンシールは

子供たちのあこがれの的であり、

シール欲しさにふりかけをねだったものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、当時うちの医院に住み込みで働いていた看護婦さんの実家が

いわゆる「よろずや」さん的な、田舎の食料品店で、

遊びに行ったときに子供たちにお土産、といって、

丸美屋のエイトマンカレンダーふりかけもらって超感激したことを覚えています。

これは、ふりかけの小袋が、厚紙のカレンダーに貼ってあって、

月曜日は「のりたま」、とか火曜日は「すきやき」、てな感じのものだったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、「エイトマン」は少年マガジン連載中は「8マン」であったが、

テレビ放映時はカタカナの「エイトマン」になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは放送が6チャンネルのTBSテレビだったため、

8チャンネルのフジとの誤解を避けるため、といわれています。

ムカシはTBSとかフジテレビではなく、

みんな6チャン、8チャンなどと呼んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エイトマンの主題歌は前田武彦氏作詞。

あの「巨泉前武ゲバゲバ90分」の方だと知ったのはずいぶん後になってからでした。

なんか、牛肉から完全に話がそれましたね。(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.06.24

ビフテキ

 先日ステーキを焼いて食べましたが、

かつてはステーキのことを「ビフテキ」と呼んでいましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 むろん「ビーフ・ステーキ」なので、「ビフテキ」なんですが、

要するに当時は牛肉は高級食材だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いま高級料理といえばフレンチとか京懐石などがイメージされるが

ワタシが子供のころは夢のご馳走≒ビフテキであった。

この辺、今では高級車というとベンツ、フェラーリあたりが想起されるが、

昭和30年代には高級車といえばキャデラックだった感覚に極めてよく似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い浮かぶのはこの話。

巨人の星第28話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 延長戦の上、東京都大会の決勝に駒を進めた青雲高校野球部のために

PTA会長伴大造氏が、決勝戦前に自宅で前祝いの食事会を催すのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、供されたご馳走の数々だが、おそらくメインディッシュはビフテキであった。

たしか、テキにカツとかいってビフテキとトンカツが出たのでは・・・。

しかし、野球部、ユニホームのままメシ食うなよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天野先生は、この事態に憂慮していたが、コイツもトレーニングウエアだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果的に食中毒か食べ過ぎかで、

伴宙太と星飛雄馬を除く全員がヒドイ下痢に見舞われ、

決勝戦は大ピンチになるのだが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、ビフテキの赤い部分みると、

時々チラッとこのエピソードが頭をよぎることはありますね。(^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、ここまで書いて、ちょっとネットで調べたら、意外な事実が判明。

なんと「ビフテキはビーフステーキの略じゃない?

↑ クリックしてみてください。知らなかったー、そうだったのかー。

じゃあ、「トンテキ」とかは文脈的にオカシイということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにここのお店のお肉、かなりいいお値段です

少なくとも自分で焼く勇気はないなあ。

 

 

 

 

 

 

 

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2019.06.22

計算ドリル

夕方、受診する小学生の中には、

宿題を持参して、待合室でやっている子がいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと目にとまった「計算ドリル」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、もっともキライなヤツだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

算数は音楽やスポーツと同じ「先天的才能」が大きく関与するが、

おそらくワタシにはその才能は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 例えば国語なぞは、漢字書き取りを除けば、

小、中学校時代はいつもほぼ満点、

高校、大学受験でも古文、漢文はともかく

試験勉強的なことをした記憶がほとんどないにもかかわらず、

現国は常に高得点であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、算数は、ともかく計算が苦手。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それがわかったのは小学2年生の時。

授業でヒトケタの足し算を20問くらい、

できた順に先生のところにノートを持って行って採点してもらう、

ということがあった。

みんながどんどん仕上げて、先生にみてもらったが、

ワタシが持って行ったのはクラスの半分より後ろだったと思う。

担任の若い女性のU先生は、ワタシの顔をビックリしてみながら、

「小倉くん、ずいぶん遅いね。」

と言ったことを今でも覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以後算数は、ワタシの超苦手科目であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、だいたい年度の初めは「数と計算」で、チョー苦手だが、

2学期後半から「図形」関連、いわゆる「幾何」になるので、

ここからは、大変算数が楽しくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 算数はやがて数学になり、中学から高校になるにつれ、

数字が減って、a,b,c,やx,y,z,になってくると、

数学は次第に苦手科目ではなくなり、むしろ得点の狙える科目にかわってきた。

方程式、二次関数、微分、積分など、問題を解く喜びもあり、

助かった、と思ったものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今でも、数字は苦手で、買い物のおつりとか、

グループで呑みに行った時のワリカンとかは、

基本、ひとまかせである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 てなわけで、たとえば高校の数学参考書などは、

ヒマがあったら、買ってみてまた問題を解いてみたいな、と思うことはあるのだが、

小学校の算数ドリルだけは、カネもらっても絶対やる気はないぞ。

 

 

 

 

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2019.06.05

健診で学校に行くと感じるモヤモヤ

 やっと春の学校検診が終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう、これが苦痛で、苦痛で・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午前中の外来が終わってから

昼休みの時間を利用して250人程度、時には300人近くを診て、

また、戻って午後の診療、というのはこの歳になるとさすがにツライ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、学校という場所は好きなんだけど、

いまだに学校の先生はなんとなく苦手。

コレはナゼなんだろうと考えると

高校はそうではないけど、

特に小学校あたりで感じるのは自分の記憶と重なってしまうせいなのか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは小学校、中学校とも地元の公立。

成績は良かったので、小学校の時はずっと学級委員長、

中学校の時は学級長をどの学年でもやっていました。

常にクラスのリーダーで、学芸会ではかならず主役だし、

目立っていたと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、授業態度は不真面目、

素行はあまりほめられたものでは無かったような。

でも当時は、そんなことは自覚が無く、

自分は、ほぼ「良い子である」と思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケンカをしたり、女の子に意地悪したり

校内の器物を破損したり

(雨の日に教室内でバレーボールやってガラス割ったなあ)

授業中のヤジや、無駄話は多く、

小学4年生の時はワタシの席は、担任の目の届く

最前列の前、教卓の横に机を置かされていた。

廊下や、職員室に座らされたことも多く、

ゲンコツ、ビンタなどの体罰も当時は日常でした。

まあ、自分が悪ければ罰は当然だったので、

今回はちょっとマズった、くらいしか思わなかったでしたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、テストはいつも満点で、作文や書道、理科研究では

常に学校代表になってしばしば賞をもらっていたので、

自分はそんなに悪い子ではない、と思っていたが、

今になって、改めて記憶にある客観的事実から分析すると

不良ではないが、いわゆる問題児で、

親や教師に心配や苦労かけたんだろうと、推測される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オソロシイことだ・・・・。(ーー;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親は、もう死んじゃったけど、

小中学校時代の先生が何人か医院に訪れることがあります。

今でも緊張しますし、当時の話は怖くてできませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、何とか、オトナになって良かった。

 

 

 

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2019.05.28

ナポリまでの遠い道のり

そもそも最初はこのお店。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スパゲティ専門店の密集度は日本一ともいわれる

群馬県央部で青春時代を過ごしたワレワレ夫婦は、

その味が恋しくなって、定期的に群馬のパスタ屋さんに足を運ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 注文するメニューは様々だが、前回はナポリタンを注文してみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うーん、なんか違うなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも、かつてはスパゲティ、当時はスパゲッティーといったが、

スパゲッティといえばナポリタンとミートソースしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこの洋食屋に行っても、デパートの大食堂でも、喫茶店でも

メニューにあるのはナポリタンとミートソースの二択。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが、大学に入って、この「シャンゴ」なんかに行くようになって、

「ボンゴレ」だとか「カルボナーラ」だとか「ペスカトーレ」なんかに

初めて出会ったわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、逆にこの「シャンゴ」で食べたナポリタンは「オレのナポリタン」ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、ナポリタンのことが気になって気になって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨年12月のこのブログもそんなことを反映している。

だが、このナポリタンも「オレのナポリタン」では無かったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1月に足利にある美味しい洋食屋さん「伴兵衛」でナポリタンを注文。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コレはかなり近い。

その時に「オレのナポリタン」に必要なものは

「タマネギ」「ピーマン」「粉チーズ」そして少々の「タバスコ」であることがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、残念なことにこのお店、

その後まもなくご主人が急にお亡くなりになりお店を閉めてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうなったら、自分で作るしかない。

で、作った第1弾がコチラ。

市販のレトルトのナポリタンにピーマン、キャベツ、ベーコンを足してみた。

色からもわかるように、何となく、野菜の追加で薄味になっちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、かようなものを導入。

これなら味の調節は「好きなだけ」できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてタマネギ、ピーマンは必須として、

ワタシが子供のころは、ベーコンなんて洒落たものは

まだあまりなかったと記憶しているので、

代わりにソーセージでいってみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらに、前回は調達しそこなった粉チーズ&タバスコの往年のコンビを招聘。

やっぱ、ミュンヘンオリンピックの松平ジャパンにあって王古、森田に対する、

猫田、嶋岡みたいな役割といえばこのコンビだ。

これは、ほぼ「オレのナポリタン」だ、と満足。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、完成を見たかに見えた「オレナポ」であるが、

この間スーパーでこんなモノを発見。

おおー、コレだ―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さっそく、導入。

赤ウインナといえば避けては通れない「タコさんウインナー」。🐙

そこで、人生初の「タコさんウインナ―」にも挑戦。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 充分炒めたのち、パスタを投入。

やっぱ、色が、イイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これにて、究極の「オレナポ」完成。(^O^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、調子こいてタコウインナーを投入しすぎたので、

「タコの惑星」になってしまったのが、反省点です。

 

 

 

 

 

 

 

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2019.05.14

還暦

さて、5月13日はワタシの60歳の誕生日、

ってことはついに「還暦」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシが生まれた60年前、昭和34年、1959年といえば、

少年マガジン、少年サンデーが創刊。

NHK教育テレビ、フジテレビ、テレビ朝日(当時はNET)が放送開始。

4月の皇太子ご成婚と、9月の死者5000人超の伊勢湾台風が

最も大きなニュースであったようです。

1964年の東京オリンピックの開催が決まったのもこの年。

ちなみに在京テレビ局では日本テレビの放送開始は1953年、TBSが1955年でしたが、

テレビ東京はかつて東京12チャンネルといい、

放送開始が1964年とワタシの生まれたあとなので

その放送開始時のことだけは記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その前年の1958年にチキンラーメン、ホンダのスーパーカブ、三菱鉛筆ユニの発売。

東京タワーの完成もその年だった。

ワタシが4歳の1963年には国産初の連続アニメ「鉄腕アトム」が放映を開始し、

鉄人28号、エイトマンが、すぐそのあとを追う。

提供はそれぞれ明治製菓、グリコ、丸美屋だった。

同年、日本初の高速道路として名神高速道路の一部が開通。

そして、翌1964年には東海道新幹線が開通し、

東洋で初めてのオリンピックとなる東京オリンピックが開催されるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1954年から1973年まで続いたとされる日本の高度経済成長期。

すると、ワタシが生まれたのは、高度経済成長期に入って5年目、

もう、終戦から15年がたち、日本は敗戦からは復興していました。

そこから1973年までといえば、ワタシが中学2年生になった年です。

つまり、ワタシは日本が躍進を続ける14年間に生まれ育ったわけです。

国内だけではなく、世界的にも科学の発展とともに

超音速機が飛ぶようになったり、衛星中継が始まったり

米ソの宇宙開発競争の果てに1969年には人類がはじめて月に立ち、

その生中継をテレビで見たのは感動でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、大変ラッキー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生活はどんどん豊かになり、トイレは水洗になり、

窓はアルミサッシになり、新しい電化製品や自動車が次々に登場。

街は加速度的に近代化され、暗闇はどんどん姿を消していきます。

都市部の人口は増え続け、市街地は常に活気に満ちていました。

物価は上昇するも、賃金も倍増し、

国民は「明日はきっと今日よりよくなる」ということを実感していました。

「科学は万能である」「科学は人類を幸せにする」ということは、

子供たちの心に大きな夢と希望を与え続けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今思えば、日本の歴史上きわめて特殊な良い時代に

たまたま居合わせた幸運を感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなワタシもついに「還暦」。

ちなみに10年前のブログではこんなこと書いてましたね。

半世紀の男

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、何とかここまで生きてきました。

思えば、10年前に黒かった髪は白髪になり

(ただ、毛染めをやめたからで、ずいぶん前から白髪はあったが)

その後受診するようになった人間ドックで

高血圧症、動脈硬化、心臓の異常を指摘され、

今では3種類のクスリを常用することになっており、

「老い」は徐々に身近なものになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前は60歳というと多くの企業では「定年」であり、

ワタシの同級生でも、ことしから勤務医を辞めた者もいたり、

ワタシより1個上の耳鼻科のS先生は、

もう細かい手術はやめ、後輩に任せることにしました、

と先日の紹介状のお返事にありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう、この歳は医者としての人生も先が見えており、

今後は、まとめに入る時期だなあ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は、いつ、どんな形で仕事を辞めるか、

ということは、ことあるごとに考えております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、ワタシと同学年の天皇陛下は、

これから「本職」が始まるわけで、大変ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 妻からの誕生日のプレゼントはワタシがリクエストした「お茶碗」と「お椀」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は最近ワタシ「自炊派」でして、

味噌汁なんかもインスタントではなく、煮干しで出汁とって自分で作っています。

今朝から、このお茶碗とお椀で60歳最初の朝飯を美味しくいただきました。

卵かけごはんに納豆と白菜と大根の味噌汁。

醤油とお味噌は「減塩」です。(^^;

 

 

 

さあ、ようやく60歳。

お楽しみは、これからだ。

 

 

 

 

 

2件のコメント
2019.04.26

いだてんとレオタード

何とか見続けている(笑)大河ドラマ「いだてん」ですが、

最初から気になっていたオープニングテーマに出てくるこの選手。

(もちろん右の女の子の方)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あー、見覚えがある、

とっさに頭に浮かんだ名前は「オルガ・コルブト」だったのですが、

先日ネットで調べたら、コルブトちゃんではなく、

同じミュンヘンオリンピック女子体操ソ連代表のルドミュラ・ツリスチェワさんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、ネットで検索した情報をもとに、記憶をたぐり寄せてみました。

2人はともにソビエト連邦代表といっても、

コルブトはベラルーシ出身なので、今ならロシア代表ではない。

ツリスチェワはロシア連邦内のチェチェン共和国出身だから、

今でもロシア代表ではあるが、ロシア連邦からの独立をめぐって

いまだ紛争の絶えないあのチェチェン、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ツリスチェワは20歳、ソ連女子体操のエースであったが、

そこに彗星のごとく現れたのが17歳のコルブト選手。

コルブトはそのテレビ映えする愛くるしさで、一躍人気者となり

ミュンヘンの恋人といわれた。

そして平均台、床で金メダルをとったが、

ツリスチェワは個人総合の金メダルはとったが、種目別では、銀、銅にとどまった。

こちらがコルブトちゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、何で、オレはこの顔を覚えているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミュンヘン・オリンピックは1972年の開催で、

札幌オリンピックと同年、ワタシは札幌大会の時小6、

ミュンヘンは中1で、実は最も印象に残っているオリンピックである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水泳では、日本の田口信教選手が100m平泳ぎで金メダル、200mで銀、

青木まゆみ選手が100mバタフライで金メダル、

マーク・スピッツ選手が1人で7個の金メダルをとったのも印象深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんといっても松平監督率いる日本男子バレーが金メダル。

オリンピック前にテレビで「ミュンヘンへの道」という

日本バレーチームのドキュメンタリーアニメを放映し、

その期待通りに本番で初めての金メダル、

しかも決勝ブルガリア戦はセットカウント0-2からの大逆転勝利、というのは、

サッカー少年だったワタシですが、

数か月前札幌オリンピックでの70m級ジャンプで

笠谷、金野、青地が金、銀、銅を独占したことを凌ぐほどの感動を覚えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ナゼに女子体操か?

というと、考えるにこれはたぶんおそらくレオタードでしょう。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4年前のメキシコ大会の時は、まだ小学4年生のガキだったわけですが、

ミュンヘン・オリンピックは中学1年生、

急に色気づいて来た年ごろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女子体操選手のレオタード姿には、

4年前には感じなかった魅力を感じたはず・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、当時のオリンピックといえば国家間の対立を背景とした

政治的な影がつねにつきまとう。

ミュンヘン・オリンピックではパレスチナのテロ組織「黒い九月」が

選手村でイスラエルの選手11人が殺害されるという

オリンピック史上最悪の事件も起きている。

 

女子体操でいえば、その前のメキシコオリンピックで

チェコスロバキア代表のベラ・チャスラフスカが、

その直前に行われたソ連軍のプラハ侵攻に抗議の姿勢を示し、

西側諸国の賛同を得た事件があった。

ソ連代表の選手は図らずも、

悪役の役回りを演じさせられる羽目になった。

ワタシ的には当時オバサンぽかったチャスラフスカ選手よりも

ソ連のクチンスカヤ選手の方がタイプだったんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんな東西冷戦の時代、社会主義陣営のリーダーであるソビエト政府は、

ソ連代表選手にも国家の威光を示すように強く求めたはずであり、

ベラルーシ出身のツリシュチェワ選手などは、

かなりのプレッシャーと、

また、自身がチェチェン出身であることによる違和感を感じていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オルガ・コルブトは初めて現れたアクロバット系の選手で、

まったくの小児体形で、

軽さと機敏さを武器に次々と軽業のような演技を繰り出した。

それまでの女性らしさ、優美さで競ったチャスラフスカ時代の体操を

一変させたとも言える。

その意味で、ツリスチェワは

最後のクラシカル・スタイルの選手だったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、そのミュンヘンの4年後のモントリオールオリンピックでは、

女子体操界には精密機械のような演技をする10点満点少女、

当時わずか14歳のナディア・コマネチの時代がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事を書くためにネットを検索していたら、思わぬニュースを発見。

その一つは、

当時コルブト選手はソ連代表の体操コーチから

性的虐待を受けていた、というもの。

そしてもう一つは、昨年のニュースで、61歳のオルガ・コルブトさんが、

金銭的に困窮していたため、

自身の金メダル、銀メダル、はてはレオタード(!)などを

オークションで売りさばいた、とのこと。

うわー、どちらも、悲しくなる事件です。

うーん、あのミュンヘンの恋人は幻想だったのか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば最近は男子体操は日本選手の活躍で時々見ますけど、

女子体操の方はさっぱり知らないですねー。

今はどこの国が強いんでしょうか?

 

 

 

 

 さて、最後にミュンヘン・オリンピックの記録映画

「時よとまれ、君は美しい~ミュンヘンの17日」から。

 

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