ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2021.10.01

5years

 コメントもいただきましたが、

ワクチン陰謀論のなかで有名な説に

「ワクチンを打つと5年後に死ぬ」

というものがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この議員さんのコメントにも5年とあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ「5年」なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多分、5年くらいが一番都合が良いのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば、1年後に死ぬ、とかだと、

すぐ1年後が来ちゃうのでウソがばれてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かといって20年、30年後に死ぬ、ということだと

先過ぎて、実感がわかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり5年くらいが、不安を煽るには

ちょうどイイ線なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1970年の英国特撮ドラマ「謎の円盤UFO」は

設定が1980年で、すでに人類は月面に基地があって

地球防衛システムを構築している、

という設定でしたが、実際はそうはなりませんでした。

1950年代から続いた米ソの宇宙開発のスピードが

1969年のアメリカの月面着陸の成功によって

1970年代に入って以後、急減速したためです。

1968年の映画「2001年宇宙の旅」も同様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近未来の管理社会の恐ろしさを描いたジョージ・オーウェルのSF小説

「1984年」が出版されたのは1949年のことでしたが、

ワタシがこれを知ったのは1974年のデビッド・ボウイのアルバム

「ダイヤモンドの犬」で取り上げられていたからでした。

小説の方も、そのころ読みました。

当時中学3年生。1984年まではまだ10年ありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1999年に地球が滅亡するという、

ノストラダムスの大予言が出版され、

大きな話題になったのは1973年でした。

日本中で大ブームになり、映画まで作られましたが、

実際に1999年を迎えるころには、みんなすっかり忘れてしまっていて

コンピュータが誤作動するかもという2000年問題の方が話題でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、5年後、ワクチンによる大量死は起こっているのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば、デビッド・ボウイの1972年の大傑作アルバム

「ジギー・スターダスト」のオープニング曲は

5 years」でした。(リンクに歌詞の和訳あります)

歌詞は、地球が差し迫った終末論的な災害によって破壊されるまで

あと5年しか残っていないというニュースが流れてきた、

というものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

5件のコメント
2010.08.01

8月2日のメモリー(最終話)


 前々々々回の続きです。
順番にお読みください。
 フェリーでの一夜が明け、広い船室の中でも次第に人々が起き始めた。
 夏休みなので大広間に雑魚寝状態の2等船室は
ほぼ満員状態だった。
 そこかしこで、グループや家族連れが、徐々に荷物の整理などを始めていた。
 さて、もうすぐ九州か、と思った頃、
ざわつく船内に呼び出しの放送が流れた。
「前橋からお越しのT内様、お電話が入っております。
船内受付までお越しください。」
「あれ、今、前橋って言ってた?」
「えっ、T内ってことはウチらのこと?」
 良く耳を澄ますと、やはり我々に対する呼び出しだ。
「なんで、ここまで電話が。」
「事故の件で、警察かなんかから自宅に連絡がいったんじゃないの。」
「ああ、そうかも。」
「心配ないって言っとけよ。」
 仲間の声を背に、T内君は一人で船内受付に向かって行った。
 そして、数分後、帰って来たT内君の顔は真っ青だった。
「おお、どうだった。」
「それが・・・。」
「なんだよ、帰って来いってか。」
「いや・・・、それとは関係ない。」
「じゃあ、どうした?」
「みんな、落ち着いて聞いてくれ、昨日、H田が死んだ。」
「死んだ?H田って、あの、サッカー部の?」
 なんと前橋からの電話は同級生の突然の訃報を伝えるものだったのだ。
 話によると、H田君はこれまた同級生のU波君と、
 谷川岳に登山に行っていたそうだ。
 登山の得意なU波君と二人で登山中、岩場で滑落。
 頭部を強打して即死に近い状態だったらしい。
 「昨日の、ご、午前中か。」
 
 「ああ、そうらしい。」
 昨日の午前中といえば、
オレたちが事故った時間と何時間も違わない。
 「・・・厄日だ。」
 誰かがつぶやいた。
 まかり間違えば、その日、オレたちを含め、同級生一挙4人が死んでたかもしれなかった。
 前日の事故の後、死んでたかも、といいながらも、
それほど重くは受け止めていなかったオレたちに、
そこにあった死への可能性が、急に現実的なものとして実感された。
 人間の生死の危うさを肌で感じ、我々は背筋に冷たいものが走る思いだった。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 あの夏から、27年。
 そんなわけで、今年もやってくる8月2日。
 毎年、この日が来る度に、生と死について考え、
また、不慮の死を遂げた同級生の冥福を祈る気持ちがよみがえる。
 そしてまた、オレたちは、医師への道半ばにして夭折したH田君の分まで、
精一杯、医者としてのつとめを果たさねばと心に思うのだ。
 今年も、あの年みたいな暑い夏だ。
       ~完~
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2010.07.31

8月2日のメモリー(第4話)


 前々々回からの続きです。
そちらから先にお読みください。
 茅野駅は八ヶ岳や蓼科高原の玄関口である。
 8月の夏山シーズン真っ盛りの朝、
駅からは色とりどりの登山服姿の人たちが
大きなリュックを背に、次々とはきだされてきて、
順次、各方面のバス停へと散ってていく。
 今日も天気がよさそうだ。
 そんな華やいだ雰囲気の中、
暗い顔をした若者が6人。
 「どうする、このあと。」
 「やっぱ、帰るしかねえだろ。1台じゃ無理だし。」
 「こっから、車に乗れないもんは電車で帰るか。荷物だけ車に乗せてもらってさ。」
 「ここから前橋まで、何線?どれくらいかかるの?」
 「さあな。」
 「フェリーや旅館に連絡入れないと・・。」
 オレは強い責任を感じて、ずっと黙っていた。
 ああ、オレがあんなバカなことしたばっかりに、
みんなに迷惑かけてしまった。
 一体どうしよう。
 せっかくの夏休みなのに・・・。
 その時、ふと、駅前にある看板が目にとまった。
 オレはとっさに口を開いた。
「いや、オレのせいで、すまん。
でも、ナントカ旅行に行こうよ。」
「どうやって?」
「あそこにレンタカーがある。
帰りにまたここ透るんだから、こっからレンタカー1台借りていこう。
オレが金だすよ。
今なら、まだ大阪のフェリー、間に合うよ。」
「レンタカーか。それなら行けるかも。」
「でも、オグラ、お前ダイジョブなのかよ、あんな事故った後で。」
「いや、オレは、大丈夫だよ。ケガもないし。」
 ホントは全然大丈夫じゃなく、気持ちは限りなく落ち込んでいたが、
仲間にこれ以上迷惑かけたくない、という思いで強がっていた。
 結局、レンタカー代は割り勘、ということで、
1台借りて再出発をすることにした。
 ただし、予算の関係で、エアコン付きはあきらめた。
 よーし、行こう。
 若干時間がタイトになったが、
予定通りのコース、諏訪インターから中央道に。
 名古屋からは名神高速道路にのる。
 大阪の阪神高速は首都高なみに複雑で、
ちょっとてこずったが、
それでも何とか夕方までに大阪港に着き、
無事フェリーに乗り込むことができてホッとした。
 夕日を浴びながら、車を船に乗せ、
やがて出港となった。
 長い1日の太陽がようやく沈もうとしている。
 夜、大部屋の喧騒を離れ、1人でデッキに出た。
 夜風に当たりながらぼんやり神戸ポートタワーの夜景を眺める。
 それまで、気を張っていたが、ふっと現実に戻った。
 ああ、車、無くなっちゃった。
 家庭教師のバイトに、夏休みは工場でも働き、
お金をためてやっと買った車。
 親父が死んで、ずっと自家用車の無かった我が家に再び車が来た。
 通学や旅行など個人的な用事だけでなく、
お袋を乗せて親戚の家に行ったり、弟の引越にも活躍したなあ。
 弟が浪人して予備校に入る時は、初めて都内を走ったし
1年後後入った大学が山形大だったため、初めて高速道路にも乗った。
 スキーやバイト、日常の足としても活躍した。
 もっとも、女の子が助手席に乗ってくれたのは数えるほどしかなかったが。
 5年前友人に付き合ってもらい、
足利じゅうの中古車屋をめぐって一目ぼれした白いクーペ。
 ハイオクのガソリン代はきつかったけど、
当時、排ガス規制エンジンの中で三菱の誇るサターンエンジンの100馬力は抜群だった。
 その上、ハッチバックはスペースが広く、
ギター、アンプはもとより、
後席を倒せば、ドラムセットだって運べた。
 前橋に帰ったらどうやってバイトに行こう。
 「しみずスーパー」もチャリで行かねば。
 故郷から遠く離れた船上から、夜空を仰いでため息をつく。
 でも、確かに、ひょっとして方向が悪かったら死んでたかもなあ。
 あの道の反対側は、崖になってはるか下に谷川が流れていた。
 と思うと、屋根の潰れたセレステが、
自らを犠牲にオレを救ってくれたような気もする。
 ああ、オレのセレステもお星様になっちゃったんだなあ。
 あの辺のキラキラした星かなあ。
 あ、あの星は「すばる」だから違うわ。
セレステ、三菱だし。
(スイマセン、ここ、フィクションです。真夏におうし座のすばるは見えないはず。)
 ともかく、そんな思いを乗せて船は瀬戸内の漁火の中を西に向かって進んでいった。
 ~次回、最終話です。
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2件のコメント
2010.07.31

8月2日のメモリー(第3話)


 前々回からの続きですので、そちらを先にお読みください。
 やっと来たおまわりさんは、明らかにめんどくさそーだった。
 まだ、やっと日が上ったくらいのこんな時間だから、
きっと前夜からの当直なのかもしれない。
 警察の勤務がどんなかしらないが、
あとちょっとで時間が来て非番、ってことになるタイミングだったのかもしれない。
「それで、キミが単独でここでスリップして岩に乗り上げたと、こういうわけだね。」
「はい。」
「どこ行く途中だったの。」
「九州です。」
「ほー、九州、男ばっかりでねえ。」
「はい。(大きなお世話だ、ほっとけ。)」
「キミたち、学生だろ。」
「はー、いい車、乗ってなあ。でも、こりゃもう、ダメだな。」
「はあ・・・・。(別に親に買ってもらったんじゃなく自分でバイトして買ったんですが。)」
「じゃあ、ちょっとね、測ったりするから、交通整理しといて。」
 と、いうわけで、おまわりさんは自転車のタイヤみたいので
周りを測り、書類をつくりだしたので、
前後に分かれてまた交通整理を始めた。
 オレは事故現場の山側に行って、交通整理を始めた。
 だんだん、車の数も増えてきた。
 と、その時、何か視界の端の方にモノの動きを感じた。
 「ん?・・・何かヘンだ。」
 振り返ってみると私の斜め後ろに止まってるパトカーが
するすると動き出すではないか。
 「???!」
 もちろん、車にはだれも乗ってない。
 パトカーのサイドブレーキの引き忘れだ。
 ヤバい!
 と思ったオレは、とっさに駆け出して、パトカーに追いつき、
走りだした車の、あいていた窓にアタマから飛び込んでサイドブレーキを引いた。
 運よく、それほどスピードが出る前に、無事、停車させることができた。
 「どうした、どうした?」
 あわてて戻ったおまわりさんに、
「サイドの引きが甘かったみたいです。」
 と説明すると、急にしどろもどろになり、
「あ、ああ、そう、そりゃ、ど、どうも・・・。」
「じゃ、じゃあ、書類作ったから。これで、レッカー移動できっから。」
「じゃあ、まあ、そういうことで・・・・。」
 といった感じで、そそくさと帰ってしまった。
 そりゃ、そうだ、あれでパトカーが谷にでも落っこったりしたら
ちょっと簡単な始末書くらいでは済むまい。
 オレのジーパン刑事ばり(?)の活躍に、もっと感謝しろよ。
 まあ、それにしても、考えてみれば、
我々もスリップしたのが山側でよかったわけだ。
 もし反対側にすべっていたら、下は数十メートルの谷川だったので、
オレ達の命は無かったかもしれない。
 JAFが来て、屋根の潰れた車はもう修理不能だから、
廃車手続きをします、と言われた。
 先に行ったファミリアも、異変に気付き戻って来て合流した。
 さて、これからどうしよう。
 レッカー車でふもとの茅野の駅前まで送ってもらった我々は、
今後を考え、途方に暮れるのだった。
  ~さらに続く
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2010.07.30

8月2日のメモリー(第2話)


 前回からの続きですので、まず第1話をお読みください。
 さて、早朝の山道を快調に飛ばしていた。
 前夜雨が降って、路面はぬれていたが、
日の出とともにさしかけてきた夏の日差しが、
暑い真夏日を予感させていた。
 昼間には大いににぎわい、渋滞するこの時期の白樺湖であるが、
まだこの時間、すべてのお店はシャッターを下ろし、
車も人の姿もない。
 白樺湖を抜け、ここからは下り道。
 大門街道を抜け、茅野を通って諏訪インターから中央道に入る予定だ。
 2台の車は猛スピードで走っていた。
「いやー、すいてて気持ちいいなー。」
「ここいつもすごい渋滞だもんなあ。」
 カーブの続く山道をレースのように、
「攻めて」いた。
 先行するファミリアと、ちょっと間があき、
よっしゃ、差を詰めるぞと、アクセルををさらに踏み込んだ時・・・
 雨上がりの路面で滑ったか、
カーブでハンドル操作を誤ったオレのセレステはコントロールを失った。
 「うおおおおおおおおおおーーーーー・・・・・
 そのままカーブを曲がり切れず、外側に突っ込む。
 ガリガリガリという激しい震動とともに車は斜面に乗り上げていく。
 カーブの向こうは山になっているため、車は次第に直立に近くなり、
そして、横に回転してタイヤを上にしてやっと止まった。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「おい、だ、大丈夫か?」
 逆さになってハンドルを握ったままオレは同乗者に声をかけた。
「ああ、オ、オレは大丈夫・・。」
「こっちも、平気、みたい・・・。」
 幸い、みんな、大事は無いようだ。
 車は逆さまでみんな天井に頭がついてるが、
カーステレオからは太田裕美ちゃんの歌が依然、のんきに流れていた。
 「こっちドア開かないけど、そっちはどう?」
 「ん、ナントカ開くかも。」
 ということで、2ドアクーペから何とか全員脱出に成功した。
 車から出て、3人は腰に手を当てて呆然とした。
 トンデモナイことになった。
 しかも、その責任はすべてオレにある。
 「よし、ともかく、警察とJAFに連絡だ。」
 先行するもう1台は、我々の事故に気付かず、
先に行ってしまっていた。
 もちろん、当時携帯電話なんて便利なものは無い時代だ。
 まして、人家も店もない山道、しかも早朝。
「こっからだと、まだ、白樺湖の方が近いから、
上ってくる車を止めて、上まで乗せてってもらおう。」
 夜も明け、夏休みなので、少し待つと上ってくる車があった。
「じゃあ、オレとKは、ここに残って交通整理するから、
お前、この車乗せてもらって、連絡してくれ。」
 と、オレは、仲間に指示して連絡に行ってもらい、自分はその場で警察を待った。
 逆さになった車は車線を半分塞いでいたので、
交通整理をしないといけない。
 もっとも、事故車は山から下りる車線だったから、
上ってくる車ばっかりのこの時間帯の交通整理は比較的簡単だった。
 次第に朝日が昇り、白樺湖へ向けて車が上ってくる。
 「大丈夫ですか、怪我人は?」
 などと声をかけてくれる自家用車のヒトもいるし、
 観光バスから身を乗り出すようにして、
「あーこりゃ、何人か死んだかもな。」
 などという、やじ馬まで。 
 「事故見物」の徐行運転で少しずつ渋滞がはじまりかけたころ、
やっと、長野県警のパトカーが上がって来た。
 ~まだまだ続く
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2010.07.29

8月2日のメモリー(第1話)


 今年もまた8月2日がやってくるなあ。
 毎年、この時期に思い出す夏がある。
 今を去ること27年前、昭和58年は、暑い夏だった。
 私は、当時大学5年生。
 その夏、我々は同級生6人で夏休みを利用して九州旅行を計画した。
実は、同じメンバーで前年夏は北海道を車で回った。
 北海道なら、次は九州だ、という安易な発想。
 車で安い宿を泊り歩けばコスト的にもなんとかなるだろう。
 ということで、男ばかり6人、
8月2日朝3時に車2台で前橋を出発したのだった。
 予定としては夕方までに大阪港につき、そこからフェリーで九州にわたる。
 東名、名神、中央道はあるが、上信越や長野自動車道はまだなかった時代だ。
 軽井沢から白樺湖を超えて諏訪インターから中央道に入るルートを選択した。
 2台の車は、T橋のファミリアと私のセレステ。
 理由はエアコンがついてるから。
 いまどき軽でもなんでも、エアコンの無いクルマは無いと思うが、
当時はエアコンついてる方が少なかった。
 私の車は「中古」で買ったので、たまたまエアコン付きだったのだ。
 さて、まだ夜明け前の真っ暗な国道17号を西へ向かってスタートを切る。
 高崎、安中、松井田を抜け順調に碓井バイパスへ。
 その後、南に進路を変えて、白樺湖を抜けていく頃、
ようやく、夜が明けてきた。
 おお、いい感じ。
 はっきりいって、我々は「浮かれて」いた。
 医学部の5年生といえば、事実上「最後の夏休み」だ。
 翌年は卒業試験、国家試験で勉強、勉強に追いまくられ、
夏休みに遊んでるヒマは到底、無い。
 メンバーで九州に行ったことのある奴は誰もいなかった。
 阿蘇山、熊本、雲仙、長崎、博多・・・・。
 あちこち行って、ウマいもん食って、焼酎のんで。
 あわよくばフェリーとかで、可愛い女子大生グループと遭遇するかも。
 旅行への期待やあらぬ妄想は膨らむばかりだ。
 カーステレオをがんがんかけて、朝からテンションあがりっぱなしだったのだ。
 その時点では無論、この先に待ち受ける恐ろしい運命など知る由もなかった。
  ~続く
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