ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2020.06.04

影響を受けたレコード(国内編)⑨「RHAPSODY、PLEASE/RCサクセション」

RCサクセションという奇妙なグループを知ったのは

1972年から1973年にかけてのはず。

1972年12月20日に発売されている「三番目に大事なもの」

が、ワタシが初めて聴いたRCサクセションだったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、フォークソングにハマっていて、

ガロの「君の誕生日」や、よしだたくろう「伽草紙」、

かぐや姫の「僕の胸でおやすみ」などをラジオからカセットに入れ、

雑誌「明星」「平凡」のソングブックを見ながら、

買ってもらったばかりのモーリスギターで

弾きかたりに挑戦していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、この「三番目に大事なもの」は、

うまく歌えなかった。

忌野清志郎、変な歌い方をするシンガーだな、

という認識でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、RCサクセションの名はあまり聞かなくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、ワタシの音楽志向が

日本のフォークから海外のロックに変わった、ということだけではなく

RCサクセションそのものが、売れなくなり、

活動休止状態になっていたためでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、1980年を迎えRCサクセションは、

突如、それも全く違った姿でシーンに登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまでのねじれたフォークグループではなく、

ノリノリのロック・バンド、ライブ・バンドとして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それには1979年に古井戸の解散とともに

RCサクセション加入を発表したチャボこと仲井戸麗市の存在が大きいが、

忌野清志郎自身も、ウイキペディアによると

複雑なコード進行の曲ばかり作って行き詰ったことの反省から、

シンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つ

ローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねたそうです。

そして、この頃、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンに影響を受け、

それまで長くしていた髪を切り落とし、

ステージでは髪の毛を立てたり奇抜なメイクを施すようになったという。

ここでも、セックス・ピストルズが登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、この再スタートになる4年ぶりのアルバムを

ライブアルバムというかたちで発売したのが良かった。

1980年6月5日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1980年4月5日の久保講堂でのライブを、

1980年6月5日にリリースする、というスピード感も重要だが、

スタジオ盤を出すべきというレコード会社の声に対し、

ライブの勢いを伝えたい、

という忌野清志郎が押し切ってのライブ盤発表だったとのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、日本のライブ盤の中でもおそらく1,2を争う名盤です。

ほかに思い浮かぶのは

「キャンディーズ・ファイナルカーニバル」くらいか・・・。(^^)v

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、バンドは1980年のサブカルチャーブームの中で

新しい若者文化の象徴として日本のロックバンドの旗印に祭り上げられます。

当時ワタシが熱心に愛読していた雑誌「宝島」にも

たびたび特集が組まれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝島の熱心な読者だったワタシ自身も、

このRCサクセションにハマりました。

ロックのカッコよさ、ライブの楽しさをこんなに体現できるバンドは

それまであまりありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのステージには、忌野氏が参考にしたという

ザ・ローリング・ストーンズの姿が垣間見え、

本家ストーンズの来日は、おそらく未来永劫ないだろう、

と思われていた時代ですから、

これが日本で見られるとはアリガタイ的な

感覚もあったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「雨上がりの夜空に」はバンドでもコピーし、

ダンスパーティーでこの曲を演奏すると最高に盛り上がりました。

またまた、発掘写真。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1980年10月にはスタジオ録音のニューシングル

「トランジスタ・ラジオ」を発表。

歌詞には、忌野清志郎の洋楽ポップスへの愛が満ち溢れていて、

ワタシは、とくに

「ベイエリアから、リバプールから、

彼女が聞いたこともないナンバーを聞かせてくれるトランジスタラジオ」

という、くだりが好きでした。

忌野少年が聴いていたのは、間違いなくFENでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに続き、新生RCサクセションの初のスタジオアルバムとして

1980年12月5日に発売されたのが、この「PLEASE」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは大いに期待をもって、このアルバムを聴きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1曲目の「ダーリン・ミシン」では、

お正月に向けて彼女が僕へのプレゼントに

赤いコール天のズボンを縫っている、という設定が、

ちょうど、発売日の季節感とマッチして印象的でした。

歌詞の内容としてはおよそロック的ではない、

むしろ四畳半フォークの素材かとも思いますが、

これはアメリカのルーツミュージック的な

ブルースに対するオマージュと読むことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このアルバムを聴いて感じるのは、

忌野清志郎氏がいかに黒人音楽としてのブルース、

およびリズム&ブルース、ソウルミュージックを敬愛しているか、

ということです。

「Sweet Soul Music」では、

オーティス・レディングのドック・オブ・ベイが織り込まれ、

「例えばこんなラブソング」でも、R&Bに対する愛が感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 折しも1980年はアメリカで

映画「ブルース・ブラザース」が公開され、大きな話題を呼びました。

日本公開は、このアルバムの発売から間もない1981年3月でしたが、

すぐに映画館に見に行きましたが、

カッコよさにすっかりシビレました。

これが、このアルバムのカッコよさとシンクロします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他にも「いい事ばかりはありゃしない」は、ひょっとしたら

ザ・ローリング・ストーンズの

「You Can’t Always Get What You Want」が

ベースになってるんじゃないかなあ、

などと、聴いてて楽しくなってくる曲ばかりでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 RCサクセションはロックバンドでありながら、

フォーク出身なので、忌野清志郎氏の書く歌詞は、

非常に素晴らしい。

特に好きなのが「ぼくはタオル」。

パンクロックの歌詞はこうでなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本語のロックバンドに多くある、

シラケてしまうほど稚拙な歌詞とは、レベルが違う。

この同じ年、日本のパンクバンド「アナーキー」がデビューしています。

クラッシュのカバーなんかがあって、曲は良かったのですが、

ともかく、歌詞が幼稚でひどかった・・・。

なまじ日本語だと、ここが悩みどころです。

たぶんライブだと、歌詞が聞き取れないから

そうでもないんだろうけど。

その後、最近までのJ-POPも歌詞は適当ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1980年のこの「大爆発」によって

こののち、RCサクセションは日本を代表するロックバンドとして

長く君臨することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2件のコメント
2020.06.03

影響を受けたレコード(国内編)⑧「Drink!/ジューシィ・フルーツ」

1980年は、ロックの価値観が

ひっくり返っていった時代。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インディーズ、テクノブーム、サブカルチャー、ヘタウマ、

キッチュ、コピーライター、ポップアート、通好み・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 感覚的な印象、センスとアプローチが重視され、

テクニックや楽典、重厚さや仰々しさが忌み嫌われる時代になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長髪や革ジャンはカッコ悪い、

ギターソロや、チョーキングはダサい、

ツーバスのドラムセットよりはリズムボックスのほうがイマ風で、

ボーカルは熱唱、シャウトはダメ、という具合。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DEVO、B-52’sなどの海外バンドに加え、

本邦でもプラスチックスなどが人気を博しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのなかで、グループサウンズや、ベンチャーズサウンドが見直され、

ジャガーや、ジャズマスターなどの過去の「ダサい」ギターや、

国産のテスコ、グヤトーンなどの「ビザールギター」が

時代にマッチしたルックスであるとリバイバルします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オールディーズ風のアレンジが時代の流行になり、

太田裕美の「さらばシベリア鉄道」(作曲:大瀧詠一)

YUKI(岡崎友紀)の「Do You Remember Me?」(作曲:加藤和彦)

などは1980年のリリース。

1979年の「愛しのキッズ/プリテンダーズ」の影響を感じさせます。

「シーナ&ロケッツ」はこの路線で

「ユー・メイ・ドリーム」をヒットさせました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、オールディーズのスタイルを取り入れたとはいえ、

それはピッタリ重なるようにコピーをしたものではなく、

ほぼ360°回ってきたけど、

サークルではなくスパイラルなので、

水平に見ただけではあまりわからないけど、

斜めに見ると違いが浮き出て見える、

というものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、近田春夫の登場です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近田春夫氏は、電撃的東京で、歌謡曲を270°回転させて、

ユニークな音世界を作ったのですが、

それをさらに進めて、

360°回転させたアイドル歌謡を作ろうとしたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、一般大衆にはアイドル歌謡曲にしか見えないけど、

見る人が見れば最先端の洗練された音とわかる

アーティストを作ろうと、考えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近田春夫氏のバックバンドであった「BEEF」をもとに、

ギターのイリアこと奥野敦子さんを前面に立てて

つくったのが「ジューシィ・フルーツ」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、おそらく、近田春夫氏の想像以上に当たった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジューシィ・フルーツのデビュー前、

近田春夫氏はバンドのコンセプトについて語っていて、

でも、ホントに大衆が勘違いしてヒットチャートに乗っちゃうかもね。

などといっていたのですが、

実際にデビュー曲「ジェニーはご機嫌ななめ」はオリコンの5位まで上がり、

ザ・ベストテンなどの歌謡番組に登場するまでになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バンド名の「ジューシィ・フルーツ」は

1974年のロック・ミュージカル映画

「ファントム・オブ・パラダイス」に登場する

ロックバンドの名前からとっており、

実はその前身の「BEEF」も

その映画に登場するオカマロックシンガーの名前です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボーカル兼リード・ギターのイリアさんは、

1977年に日本のランナウェイズとして結成された

ガールズバンド「GIRLS」のメンバーでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、本家「ランナウェイズ」と同様、

レコード会社が「仕掛けた」バンドで、

メンバーのニックネームである、

ジニー、イリア、リタ、レナ、サディの頭文字をとって

「G.I.R.L.S.」ということになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、これは当初仮の名前で、「ガールズ」のバンド名を

テレビ番組で一般公募したのですが、

結果、そのまま「ガールズ」になり、

司会者が「それでは、ガールズの正式名はガールズに決まりましたー。」

と言ったので、見ていたワタシは大いにシラケた記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガールズは1979年に解散し、

イリアさんは近田春夫氏のバックバンドに参加しますが、

ボーカルのリタさんは、「ピンナップス」

というニューウエーブ系のバンドに参加し、ちょっと売れました。

この辺、ランナウェイズのジョーン・ジェットと

リタ・フォードみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなわけで、デビュー前から興味津々だった

「ジューシィ・フルーツ」、

デビューアルバムが、この「Drink!」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これも、相当ハマりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歌謡曲風な味付けなのに、

その目で見るとウラの仕掛けがみえて、

またそれが「楽屋落ち」のように自己満足心をくすぐります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何より、このバンドがどんどん有名になってゆくのが不思議でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、ワタシが大学生当時使っていたギターは、

グレコのBG-800、愛称「ブギー」というギターですが、

イリアさんも、同じモデルを使っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、買ったのはワタシの方が先です。<(`^´)>

お茶の水のイシバシ楽器でハードケース付き定価¥80000のところ

6万円ちょっとで買った記憶アリ。

もちろん、当時は消費税などありません。

写真は大学時代のワタシ。ワカイナー、オレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.06.02

影響を受けたレコード(国内編)⑦「軋轢/フリクション」

1977年のパンクロック誕生を経て、

ロック・シーンは明らかに構造改革が進んでいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大手レコード会社が、

ヤマハポプコンとか、イーストウエストといった

大規模ミュージックコンテストで優勝したバンドを

商品として売り出す、という方法ではなく

のちに「インディーズ」といわれる

自主制作盤や、カセットテープを輸入レコード店においてもらい、

いわゆる「ライブハウス」で活動を行い、

そこから、口コミ、ミニコミで評判を集め、

頭角を現してくるバンドが出てきたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1979年3月に発売されたアルバム「東京ROCKERS」は

そんな、新宿、六本木のライブハウスで活躍する、

東京ロッカーズといわれたバンドのライブ盤で、

そこに参加していたのが

リザード、S-KEN、ミラーズ、ミスター・カイト、

そして、今回取り上げるフリクションでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの「フリクション」は、

坂本龍一のプロデュースにより

1980年4月25日、パスレコードから初のフルアルバムを発売しました。

このアルバム、発売時のレコード帯のコピーから

「軋轢」と呼ばれているが、

正式タイトルは「フリクション」らしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ワタシは田舎の大学2年生。

パンク、ニューウェーブにどっぷりつかっていましたが、

東京のライブハウスに出かける

時間的、金銭的余裕もなく、

また、そんな怖そうなところに一人で行く度胸もなかったので、

音楽はもっぱらラジオ、雑誌、レコードに限られていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑誌の記事で興味を持って購入したのが、

このアルバム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

衝撃的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまで、ロックに関しては、

ともかくロックはアメリカ、イギリスのもの。

日本のロックなどとても同じ土俵では語れない、

と思い続けていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サディスティック・ミカ・バンドにしろ、

四人囃子にしろ、

あくまで「日本のロック」として、評価していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、このアルバムのサウンドは、

アメリカや、イギリスのものと同列、でした。

いや、むしろ、パブリック・イメージとか、ポップ・グループより

カッコイイかも、と思ったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、このアルバムは「日本の」という前置きをつけずに

ワタシのプレイリストに加えて、何の違和感もない、

と感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンバーはレック(Ba、Vo)、チコ・ヒゲ(Ds)、ツネマツマサトシ(Gt)

の3人組ですが、

ライブの緊張感が伝わるようなサウンドは、

ニューヨークで活動していたメンバーの鍛えられたグルーブ感と、

やはり、この時期ノッていた坂本教授のプロデュース力が

結実したものでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レック、チコ・ヒゲの2人は

ニューヨークのニューウェーブシーンの中心であった、

ジェームス・チャンスのコントーションズに参加していた、

というのも和洋の違和感のないアルバムになっている要因でしょう。

「ジェームス・チャンス&コントーションズ」の「BUY」、

また、別名義での

「ジェームス・ホワイト&ブラックス」のアルバムは、

大学時代の愛聴盤で、

このあいだの10選にも、加えるか迷ったものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかくワタシ的には、このレコードは

ヨーロッパの文化であるF1で、

ホンダのマシンが優勝した、と近い感覚の驚きでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音はいわゆる「ポスト・パンク」の流れで、

のちに「オールタナティブ」というジャンルができる前夜のサウンドです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メタリックでノイジーなギターと、

縦割りの重く激しいリズム。

そこには、パブリック・イメージにはない

疾走感を併せ持っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本語のボーカルの載せ方もユニークで、

曲のスピード、雰囲気をスポイルすることなく、

見事にハマっていました。

ジャンル、スタイルは違うが、日本語の処理は、

「外道」を聴いた時の印象に近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、残念なことに

こののち、ギターのツネマツマサトシが脱退してしまい、

彼は「E・D・P・S」を結成し、

フリクションはメンバーチェンジを行いますが、

どちらも、その後、このアルバムほどの輝きを

見せることはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミュージシャンとプロデューサー、

そしてなんといっても時代が絶妙にクロスした上に出来上がった、

瞬間芸術的な作品でした。

 

 

 

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2020.06.01

影響を受けたレコード(国内編)⑥「1980X/PANTA & HAL」

当初の予定ではあらかじめ10枚を選んで

Facebookの投稿を始めたんだけど、

このあいだ、コメントで「一人忘れてる!」

と気づかされて、のこのアルバム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6枚目「1980X/PANTA & HAL」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PANTAこと中村治雄氏は、「頭脳警察」のリーダーで、

そのバンドの名前は、早くから知っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「頭脳警察」という、凄いロックバンドがあるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、その音を聴くことはなかなかできませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田舎の中学生にとって、

ロックバンドのライブに行くなどということは

まったく考えられず、

ロックのソースはラジオとレコードのみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが「頭脳警察」が1972年に製作したファーストアルバムは

いきなり、その過激な内容から発売禁止。

その直後に製作された「頭脳警察セカンド」も3曲が放送禁止だったが

発売後1か月でアルバムそのものも「回収」「発禁」に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、噂ばかりが先行し、

ライブ中にズボンを下ろしてマスターベーションをしたそうだ、

コンサートが出入り禁止になったらしい、と

いろいろ聞くけど、肝心の音はなかなか聴けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、「頭脳警察3」が1972年10月に発表されたが、

ワタシが最初に聴いたのは1973年3月に発売された「誕生」からの

「やけっぱちのルンバ」だったような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとから聴くとこの曲は、

それまでの「頭脳警察」の過激さは消えており、

相次ぐ「発禁」「放禁」にやけっぱちになったPANTAが

カネのためにレコード会社に迎合して書いたような曲にも聞こえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシが「頭脳警察」の曲をまとめて聴いたのは、

NHK-FMで放送された「若いこだまスタジオライブ」だったと思います。

調べてみるとどうも1975年8月の放送だったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記憶が定かではないのですが、

5夜連続で日替わりで日本のロックバンドの

スタジオライブを放送する、というもの。

出たのは「頭脳警察」「クリエイション」「イエロー」

「めんたんぴん」「テツ山内&グッドタイムスロールバンド」だったような。

ひょっとして「四人囃子」も出たかも。

司会は当時「若いこだま」のパーソナリティーをしていた

サンディー・アイさん。

のちに「夕焼け楽団」の久保田真琴氏と結婚(のちに離婚)、

「サンディー&ザ・サンセッツ」を結成します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このとき録音したテープは繰り返し聴きました。

今は、どこへ行ったか・・・。

たぶん相当な「お宝」のはずですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、この番組で過激だった「頭脳警察」を追体験したわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、その直後「頭脳警察」は解散。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PANTAはソロとして「PANTAX’S WORLD」を1976年に発表。

「屋根の上の猫」や「マーラーズ・パーラー」などに

かなり影響を受けました。

今回、これを取り上げようとも思ったのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後1977年の「走れ熱いなら」を経て、

1979年にPANTA& HALとして

ムーンライダースの鈴木慶一プロデュースの

「マラッカ」をリリース。

グループ名の「HAL」は、当然

「2001年宇宙の旅」のコンピューター「HAL9000」

からとったものだと思われます。

名曲「つれなのふりや」を含む名盤ですが、

その翌年1980年に、同じく鈴木慶一プロデュースで発表したのが

今回の「1980X」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしか、初めて聴いたのはNHK-FMの

渋谷陽一のヤング・ジョッキー、

あるいはその後のサウンド・ストリートで、

PANTA本人をゲストによんで、

曲についてのインタビューをしながらアルバムを紹介する、

という番組だったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのサウンドは前年の「マラッカ」とは全く違うものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マラッカ」がタイトル通り

東南アジアの赤道直下の海がテーマで、

レゲエや、フュージョン的なサウンドを取り入れていたのに対し

「1980X」は、テーマは「都市」。

演奏は一転してソリッドなロックサウンドでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり変革の1980年を迎え、

パンクからニューウェーブ、テクノポップの台頭を受けて

時代の流れに舵を切った、ということでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロデューサーの鈴木慶一氏は、

「HAL」のメンバーに、もう長髪の時代じゃない、

といって髪を切らせたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルバムに収録されシングルカットされた「ルイーズ」は

1978年、世界初の体外受精で誕生した女の子の名前。

当時は「試験管ベビー」といわれ、大ニュースでした。

このことは倫理的、宗教的に物議をかもしましたが、

その後不妊治療の決め手として、多くの人に福音を与え、

これを成功させたエドワーズ教授は2010年に

ノーベル医学・生理学賞を受賞しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バンド「頭脳警察」のネーミングは

フランク・ザッパの「Who Are The Brain Police?」

からとったといわれていますが、

そのザッパの「Brain Police」は

ジョージ・オーウェルが1949年に出版した

小説「1984年」に登場する「Thought Police」(思想警察)

に由来するといわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1984年が舞台であるこの小説は

近未来の管理社会の恐ろしさを描いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このアルバム「1980X」は小説の舞台となった

1980年代を実際に迎えるにあたって、

「試験管ベビー」のようにかつては想像もできなかった

テクノロジーの進歩とともに

PANTAは「臨時ニュース」や「IDカード」という曲で、

知らず知らずのうちに我々の周囲に忍び寄る

管理社会の危険性を切り取って見せていたかのようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、PANTA氏は反戦や反原発を訴えながら、

70歳を迎えた今も現役のロッカーとして、活躍しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発禁だった「頭脳警察」のアルバムも

CDの時代になり、相次いで再発売され、全て所有しています。

どちらかというと「頭脳警察」時代の粗削りなサウンドが好きなのですが、

リアルタイムということですと、

この「1980X」が一番かな、ということで選びました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2018年11月この「1980X」を再現したライブが開催され、

あのPANTAを生で見た、ということは

非常に感慨深いものがありました。

 

 

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2020.05.31

影響を受けたレコード(国内編)⑤「In A Model Room/P-MODEL」

影響を受けたレコード5枚目は1979年8月25日発売の

「In A Model Room/P-MODEL」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初にこのバンドの曲を聴いたのは

「Kameari Pop」でした。

ラジオから流れたこの曲を聴いたとき、

それまで聴いたことのない不思議な曲だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエローマジックオーケストラのデビューによって、

テクノポップは時代の最先端の音楽スタイルになっていましたが、

このサウンドは、YMO経由ではなく、

テクノポップの元祖である

クラフトワークから直輸入といった印象でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとから知ったのですが「P-MODEL」はもともと

プログレッシブ・ロックのバンド「MANDRAKE」が前身。

セックス・ピストルズを見て、時代の流れを感じ、

パンク路線に転向した、といいます。

ここでも登場、セックス・ピストルズ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバムは1979年8月25日発売。

初回プレスはピンク色でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしかにこの「Kameari Pop」はテクノポップですが、

アルバム全体を聴くとパンク~ニューウェーブ色が強く、

初期のXTCと似た印象を受けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1979年7月25日先行シングルとして発売された

「美術館であった人だろ」がA面1曲目ですが、

「Kameari Pop」とずいぶん違った印象にちょっと戸惑いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボーカルも演奏もパンク風の曲調ですが、

印象的なのはキーボードの使い方。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、テクノポップは「ピコピコ」

という擬音で表現されることが多かったのですが、

P-MODELの曲で用いられている「ピコッ」という音が気に入って

バンドで使いたいと思い、弾けもしないシンセサイザーを買いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このアルバム発売の少しあとだと思いますが、

ニューウエーブ~テクノポップのバンドが、

テレビに出演してスタジオライブをやる、という番組がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芳村真理さんが司会をしていたのを覚えているのですが、

調べてみると、それはどうも

日本テレビで金曜日の10時から放送されていた

「金曜娯楽館」という番組だったようです。

司会は山城新伍さんで、女性司会者の2代目が芳村真理さんで

1979年12月から1980年8月まで担当、とありますから、

この間であったと考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時出たのが「P-MODEL」のほかに、

「プラスティックス」「ヒカシュー」で、

この3バンドは当時「テクノ御三家」といわれていました。

いかにもマスコミ的、テレビ的な括りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽コーナーの司会は、

このあいだ、「電撃的東京」で紹介した

近田春夫氏が担当していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ、芳村真理さんをよく覚えているかというと、

当時の若者の「新奇な」音楽を紹介する、というコンセプトで、

芳村真理さんは「ヘンテコな若者の音楽が理解できないオバサン」

という役回りだったと思われます。

演奏中、顔をしかめ、耳をふさいで、

そのあとで、「ちょっと、ちょっと、新伍ちゃん、何コレ?」

と言っていたのが大変印象に残っているからです。

実際に、理解できなかったと思われますが、

あのリアクションは番組の演出だったのかも、と今は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにこの3バンドはすでに知っていましたが、

同じ番組に出た「チャクラ」は衝撃的でした。

「福の種」を歌ったと思いますが、

ファンになりレコードを買いました。

その後の、小川美潮さんのソロアルバムも好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒカシュー」は舞台演劇出身、

「プラスティックス」はイラストレーター、グラフィックデザイナー、

ファッション・スタイリストなどの音楽経験のない

アート系の人が集まって作ったバンドでしたが、

その中で「P-MODEL」は、

ロック・バンドとしてやってきた中で、

時代の匂いに敏感に反応して音楽性を変えてきた、

という意味ではワタシはシンパシーを感じたわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このアルバムに入ってる「MOMO色トリック」では

「ユージさんにはわかるまい」

「アホのリノでも見に来るぜ」

という歌詞があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでいう「ユージさん」とは、音楽評論家の今野雄二さんのことで、

当時、洋楽レコードのライナーノーツを多く書いていた

「洋楽崇拝者」の今野さんに、

「P-MODEL」が酷評されたことを受けての歌詞です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アホのリノ」とは、その今野雄二氏が司会を務める

水曜イレブンの、アシスタントだった「かたせ梨乃」さんのことで、

かたせさんは今でこそ立派な女優さんですが、

当時は11PMのカバーガールで、

オッパイの大きいだけのお姉ちゃんと認識されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この「MOMO色トリック」は、

ワタシが大学2年生で「不滅の男」ウスイくんと結成したバンドの

デビューライブで、最後に演奏しました。

1980年6月のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのバンド名「LANDSALE(ランドセル)」は

その2か月前、1980年4月25日に発売されたばかりの

「P-MODEL」の2nd.アルバム

「LANDSALE」からいただきました。

「ランドセル」と「売国奴」のダブルミーニングです。

メンバーチェンジを繰り返しつつ、

ワタシとウスイくんが卒業するまでこのバンドは継続しました。

ナツカシイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.30

影響を受けたレコード(国内編)④「東京ワッショイ/遠藤賢司」

遠藤賢司は日本のフォークソングの草分け的存在です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フォーク・ソングとはもともと「Folk(民族の)」歌、という意味ですから、

もともとは「民謡」という意味です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリカで生まれたフォークソングは、

1930年から40年代にウディ・ガスリーが

民謡、ゴスペルなどに取材した音楽を、

反戦や、資本主義者に反発する歌詞に載せた独自のスタイルを作り、

コンテンポラリー・フォークとして現在のフォークの原型となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、ボブ・ディランに継承されたこのスタイルは、

メッセージ性を前面にし「プロテスト・フォーク」といわれます。

その中でピーター、ポール&マリーのように

公民権運動などのメッセージ性を強くを持った歌詞を歌いながら、

美しいコーラスを聞かせるアーティストがでると、

そのうち、メッセージには興味ないけれど、

美しい声やコーラスが好き、というファンも出てきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すると、フォークソングは次第に分化してゆき、

スタイルだけを踏襲しながら、

メッセージ性のない、主として恋愛の歌などを歌う

フォークシンガーも増えてくるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のフォークソングもこの流れをなぞっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のフォークソングは1960年代に最初のブームを迎えますが、

このときのアーティストは、

時代の学生運動を受け、

ベトナム戦争反対や日米安全保障条約反対と結びついて

メッセージ性の強い反戦歌を歌ったシンガーが多い。

この時に岡林信康、加川良、中川五郎、高田渡などとともに

第1期フォークブームを担ったのが遠藤賢司なのです。

その後、叙情派フォーク、四畳半フォーク、商業フォークなどが

派生してゆくわけですが、

初期のフォークシンガーは骨太のメッセージを持った「反体制」派で、

アコギ1本であっても、そのスピリットは

のちの「ロック」や「パンク」に極めて近いものでした。

そんな彼が1979年1月に発表したのが、

この「東京ワッショイ/遠藤賢司」です。

1979年1月21日といえば、

ワタシが浪人の時受けた第1回共通一次試験のちょうど1週間後です。

経済的事情から私立大学医学部の受験はなかったのでしたが、

国公立大の来る二次試験に向け、

準備を怠りなく進めなければいけないときでしたが、

ラジオは聴いていました。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはさておき、

そんなわけで、「フォークシンガー」であった遠藤賢司が、

時代のパンクムーブメントの勃興を受け、

このような「パンク・フォーク」というべきスタイルのアルバムを作ったことは

ある意味必然のことだったともいえます。

このアルバムの前、1975年に彼は「HARD FOLK KENJI」という

ロックにインスパイアされた作品を発表しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本人のインタビューを見ると、

このアルバムは「セックス・ピストルズ」を聴いて触発された、

と明言しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで、もう一人上げなくてはならないのが、

ニ―ル・ヤングの存在です。

カナダ出身、バッファロー・スプリングフィールドを経て

クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、

そして、自身のバンドクレイジー・ホースを率いてのバンド作品や、

ソロ作品を数多く発表しています。

遠藤賢司はハイトーンの声もあり、

日本のニ―ル・ヤングと呼ばれたこともありしたが、

その後の音楽的変遷も、また、重なるところがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのニ―ル・ヤングが1979年に発表したアルバム

「ラスト・ネバー・スリープス」は

まさに「パンク・ロック」「セックス・ピストルズ」に触発された作品で、

歌詞にも「ジョニー・ロットン」が登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洋の東西を隔てて熱いスピリットを抱き続けた

フォーク界の草分け、重鎮が同じようなコンセプトのアルバムを

発表したことになります。

しかも、時間的には遠藤賢司の方が、1年以上早い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかも遠藤賢司の方がブチ切れ方がすごい。

このアルバムは音楽的には「電撃的東京」のような

パンクアルバムではありません。

パンクにインスパイアされながらも

フォークシンガーとしてのエンケンの個性を残し、

アコギ1本の曲もあれば、

また、バラエティに富んだ独自の世界観を展開しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「哀愁の東京タワー」では、

「クラフトワーク」のパロディ的に

いち早くテクノポップを取り入れています。

まだ、イエロー・マジック・オーケストラの

デビューアルバムが出た直後、

ソリッド・ステート・サバイバーより前です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大学に入ってから、同級生でロック好きなやつがいないかなあ、

と思っていたのですが、

あるときウスイくんと話をした時に

同じく一浪の彼が、ロック好きであることを知りました。

「オレは群大の入学試験の時に

エンケンの『不滅の男』を口ずさみながら試験会場に入ったんだ」

という話をきき、コイツしかない、と思って

それまでまったくバンド経験のない彼を引っ張ってバンドを結成したのでした。

 

 

 

 

 

 

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2020.05.29

影響を受けたレコード(国内編)③ 「電撃的東京/近田春夫とハルヲフォン」

影響を受けたレコード(国内編)第三弾はコレです。

「電撃的東京/近田春夫とハルヲフォン」1978年6月21日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このレコードを語るには、まずあるテレビ番組について書かなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その番組とは「ロックおもしロック」。

1978年4月から東京12チャンネル(現テレビ東京)で放映が始まった

関東ローカル番組。

放送は毎週日曜日午前10時からの30分。

提供はグレコギターの「神田商会」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時としては画期的なロックの情報番組で、

プロのミュージシャンのスタジオライブもあったが、

アマチュアバンドがその腕前を競う、

「勝ち抜きバンド合戦」というのも面白かった。

爆風スランプの前身、「スーパースランプ」と「爆風銃(バップガン)」は

ともにこのコーナーに出ていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、この番組司会が近田春夫さんだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハルヲフォン」というバンドは知っていて、

エドガー・ウィンターみたいにキーボードをぶら下げて弾くヒトだ、

とは知っていたのですが、

この番組の近田春夫氏のコメント、語り口に興味を持ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、彼がパーソナリティーを務めていた

ニッポン放送のオールナイトニッポンを聴くようになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は1978年10月から同番組火曜2部を担当していました。

ラジオ深夜放送オールナイトニッポンは

第1部が午前1時から3時まで、第2部が3時から朝の5時まででした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ワタシは受験に失敗し、浪人生。

神田駿河台の駿台高等予備校午前部に通う身分でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、当時我が家には子供を東京に下宿させる経済的余裕がなく、

ワタシは4月から毎日足利市から新御茶ノ水まで電車通学をしていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当然、特急列車なんか使う贅沢はできませんから、

毎朝6時30分発の普通列車。

乗換は1回ですが、片道2時間かかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時のワタシの生活は

午後2時くらいに予備校が終わったあと、夕方帰宅。

夕食を食べ、風呂に入ったあとは疲れているのでとりあえず就寝。

夜中に起き、夜食を食べて朝まで勉強。

朝飯を軽く食べて、自転車で駅まで行き

6時半の各駅停車に乗り、そこで仮眠をとる。

北千住で超満員の千代田線に乗り8時半に新御茶ノ水に着き、

9時から授業、以下、その繰り返し、

という毎日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学時代から勉強はラジオを聴きながらの「ながら族」でしたから、

午前3時から5時までの深夜放送ももれなく聴けたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その番組は近田春夫氏がずっとしゃべり続ける、

というものでした。

というと、当たり前のように聞こえますが、

ここで「ずっと」というのは、

曲をかけている間も、ああだ、こうだ、としゃべり続け、

曲の途中でも、ああ、この曲はもういいや、今度はこの曲行きましょう、

と、別の曲をかけさせ、さらにまたしゃべり続ける、

というような破天荒なものでした。

そしたら、ナント、当時の放送の一部がYoutubeにありました。

Youtubeおそるべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで、近田氏が強調していたのは「歌謡曲のすごさ」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロック・ミュージシャンでロック番組の司会をしているので、

ロックの曲や情報が聴けるかと思いきや、

「もう、オレは、歌謡曲しかかけないからね。」

といい、流れる曲はすべて歌謡曲。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで近田氏が歌謡曲を実にロック的に聴いてることにビックリ。

歌謡曲が、しっかりした音楽的素地を持った

才能あるプロ集団によって生み出されており、

ヘタなロックや、ニューミューックのアーチストなど、

足元にも及ばない音楽だ、ということを知らされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都倉俊一、馬飼野康二などのヒットメーカーがいかに偉大か、

そして、日本ポップス歌謡界の巨人、筒美京平氏に対しては

最大級の敬意を払っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまで、歌謡曲の作者など、

あまり考えたことのなかったワタシには、

まさに目から(耳から?)ウロコの話ばかりで、

歌謡曲のすごさ、カッコ良さを再認識させられたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな近田春夫氏が自身の音楽理論を体現すべく(?)

作成したのが、この「全曲歌謡曲のカバー」(ただしラスト1曲を除く)

という、その名も「電撃的東京」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おなじみの歌謡曲が、ほぼすべてパンクロック風のアレンジになり

矢継ぎ早に耳に飛び込んできます。

原曲は森進一ですが、

この、ベースのビビン、という音から入るイントロのカッコよさといったら・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もともと「ハルヲフォン」は、ナイトクラブの箱バンとして、

ソウル、R&Bの洋楽カバーから、グループサウンズ、ムード歌謡まで、

お客の好みに合わせて何でも演奏していたバンドなので、

演奏力は高い。

これはザ・ピーナッツの曲。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それまでの歌謡曲の固定観念を取り払い、

歌謡曲を再認識させてくれる格好の入門書でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、このアルバムは、来る80年代に向けて、

新しい音楽が、市場を席巻する可能性を予見していたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すなわち、ニューウエーブの台頭と、

新しいポップカルチャー、サブカルチャーの展開。

歌謡界では、松田聖子、小泉今日子や、たのきんトリオなどの、

アイドル黄金時代の到来。

ベンチャーズや、三橋美智也、平山三紀などに

新たな角度からスポットがあてられ、新しい解釈でブームになること。

それら、1980年代初頭の社会現象の一つの預言書としても

このアルバムを聴くことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、わかるか、わからないかで、その人のセンスを問う

「踏み絵」的な存在でもあったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、このレコードの影響で、

ワタシはレコード屋さんに田原俊彦のファーストアルバムを買いに行き、

高校生の頃から馴染みのレコード屋のお兄さんに、

いったい、どうしちゃったんだよ、といわれ、

そののち、大学生になってから結成したバンドで、

「哀愁でいと」のパンク・バージョンを自らアレンジして演奏したのでした。

 

 

 

 

 

 

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2020.05.28

影響を受けたレコード(国内編)②:「黒船/サディスティック・ミカ・バンド」 

第2弾はコレです。

「黒船/サディスティック・ミカ・バンド」1974年11月5日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

加藤和彦氏は日本のフォーク・ロック・ミュージシャンの草分けであり、

1967年フォーク・クルセイダーズとして発表した

「帰ってきたヨッパライ」の大ヒットで、

その名を知られますが、

この曲は当時小学校2年生だったワタシも歌うくらい大人気でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、加藤和彦氏は北山修氏と

名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」などを発表、

当時のスタイルはドノヴァンの影響下にあり、

加藤和彦氏のニックネーム「トノヴァン」もそこから来ています。

そういえば、アメリカのボブ・ディランに対して

イギリスのフォークシーンの代表と並び称された

ドノヴァン氏は最近全く噂を耳にしませんが、どうしてますかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、1971年、加藤和彦氏は当時妻だった加藤ミカ氏と

「サディスティック・ミカ・バンド」を結成します。

それまでのフォーク路線からロックへの転向は、

時代の音楽に敏感な加藤和彦氏としては当然の流れだったでしょう。

初代ドラマーはあの「メリー・ジェーン」の角田ヒロ氏、

そしてギターは高中正義氏です。

だが、この頃はまだワタシは小学生。

ほとんど売れなかったらしい「サイクリング・ブギ」は

後追いで聴きました。

CDは持ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシと「サディスティック・ミカ・バンド」の出会いは

1973年10月発売のシングル「ハイ・ベイビー」。

FM東京の番組で、パーソナリティーが、

「サディスティック・ミカ・バンドの曲は変わってる曲が多いですけど、

今度のシングルは、わりと聴きやすいですね。」

と紹介したニューディスクコーナーをエア・チェックしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在、この「ハイ・ベイビー」のレコード音源は

Youtubeにはありませんでした。

TVKテレビでの映像がアップされていました。

ドラムは、のちにYMOを結成する高橋幸宏氏、

あー、もう、この時代から、この独特のドラミングです。

いいですねー。

ギターの高中氏は加藤和彦とケンカして、

この時期バンドを離れていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スタジオ盤では、最初電話のベルが鳴り、

受話器を上げるガチャッという音のあと曲が始まります。

この直後、フィンガー5の「恋のダイヤル6700」も

電話のベルから始まったので、

ミカバンドのマネじゃん、と思ったことがあります。

曲自体はギンギンのロックではなく、

どちらかというと当時最先端だったフィラデルフィアソウルの

影響が感じられます。

フィラデルフィアソウルの発端ともいえる

この「オージェイズ」の全米ナンバー1ヒットが1973年2~3月ですから、

加藤和彦氏、さすがの早さです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、「黒船」。

実は、デビューアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」は

日本ではロクに売れなかったがイギリスで話題になり、

このレコードを聴いた超大物プロデューサー、クリス・トーマスから

プロデュースの依頼があったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリス・トーマスといえば

ザ・ビートルズやピンク・フロイドもプロデュースした超大物なので、

当時も、いまも、ホンマかいな、

なんかあったんとちゃう?

と思いますが、

とにかく、そういうことになったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レコーディングに450時間かけた、というアルバムは

日本ロック史上にそれまで類を見ないトータルアルバムでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曲を寄せ集めたヒット曲集や、作品集とは違い、

1曲1強がアルバムを構成するパーツになってる組曲形式のアルバムを

トータルアルバム、あるいはコンセプトアルバムといい、

ザ・ビートルズの「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」

デビッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」

カーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン」

などが有名です。

いわゆる「プログレ」のバンドは多くがこの形式ですし、

先にあげたグリーンデイの「アメリカン・イディオット」

などもこれにあたります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曲調もバラエティに富みますが、

それを支えるのは屈指のテクニックを持ったメンバーたち。

ドラムの高橋幸宏、ベースの小原礼、キーボードの今井裕、

そしてクリス・トーマスの要請で、

バンドに復帰したギターの高中正義の組み合わせは、

あとから考えると、とんでもないスーパーグループだったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とくにクリス・トーマスが見込んだだけあって

高中正義氏のギターはカッコよかった。

彼はこののちギターをヤマハのSGにかえて、

フュージョン的な曲で大人気になるわけですが、

ワタシ的にはそっちに行っちゃったのがまことに残念。

ヤマハのSGなんて、あんなカッコ悪いギター、

サンタナくらいしか弾かないぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 問題は加藤ミカのボーカルですが、

巷ではヘタクソ呼ばわりされることも少なくないですが、

ワタシは大変良いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もともと、加藤和彦氏の追っかけだったという

加藤ミカ氏はミュージシャンとしてはシロート同然だったはずですが、

手練れのメンバーに支えられることにより、

その奔放な魅力が発揮されたと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 逆に、金子マリやカルメン・マキのような実力派ロックシンガーでは

この味は出せなかったと思われ、

当時のライブ映像でも、そのコケティッシュな魅力が

バンドの大きなアピールポイントになっています。

ちょっと、その後のブロンディのデボラ・ハリ―を連想させます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もともと「サディスティック・ミカ・バンド」というバンド名は

ジョンとヨーコの「プラスティック・オノ・バンド」にあやかって

つけられたものですから、

立ち位置もオノヨーコと同じだったわけです。

むろん、全然ミカさんの方がステキですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1975年次のアルバム「Hot Menu」を録音。

ロキシー・ミュージックの前座として

イギリス・ツアーを行い、

そのロキシーを食うほどの人気を博したミカバンドは、

本格的な海外進出に向け、着実に前進していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、そんな矢先、とんでもない事態になります。

元追っかけの本性が出たのか、

こともあろうにツアー中に加藤ミカさんはクリス・トーマス氏とデキてしまい、

その不倫が発覚した結果、加藤和彦氏と離婚、

バンドは解散に追い込まれることとなってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クリス・トーマス氏に見いだされ発展したバンドは、

また、クリス・トーマス氏のおかげで消滅する憂き目にあいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1973年に発表されたこの「黒船」は、

いろいろな偶然によってもたらされた孤高のモニュメントとして、

日本のロック史に燦然とその名を残すことになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.27

影響を受けたレコード(国内編)①:「一触即発/四人囃子」

 フェイスブック企画の「影響を受けたレコード10選」は

大変楽しませてもらいました。

「好きな」ではなく「影響を受けた」というところで、

当時の時代背景や、自分の人生を振り返ることができて

大変、興味深かったですし、

新たな発見もありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシにとってロックは「ほぼ洋楽」であったので、

10枚すべてが海外アーチストの作品になったのは

まったく当然なのですが、

日本のアーチストのレコードを聴かなかったかといえば、

そんなことはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、影響を受けたレコード、国内編をやってみようと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、そこで問題になるのは

ワタシにとって「ロックの魅力」≒「ロックボーカリスト」

で、あったということと、

「ロックの歌詞」は「英語」に限る、という認識があったことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今では考えられないことですが、

当時は「日本語のロックは成立するか否か」

という問題は常に論じられた問題でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はっぴいえんど」は日本語ロックの草分けといわれますが、

当時ワタシは「はっぴいえんど」の

どこをどう聴いたらロックに聴こえるのか

まったく理解できませんでした。

(デビューアルバムの「ゆでめん」はLPを所有していましたが。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やはり、ビートルズの英語の発音や、

イアン・ギラン、ロバート・プラントのシャウトを聴くと、

やはり日本人にはロック・ボーカルはムリなのだ、

と自分なりに解釈していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「クリエイション」は高校生の頃人気があり、

曲は全編英語でしたが、竹田和夫氏の発音は、

高校生が聴いてもカタカナ英語にしか聞こえず、

イマイチ、ノレませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「キャロル」の矢沢永吉氏は、

「日本語を英語っぽく歌う」という歌唱法を発明しました。

「キミ」と発音するところを「クッィミィ」というように

日本には本来ない「無声音」を盛り込むことにより、

ちょっと英語っぽく聞こえる、という歌唱法は、

佐野元春や吉川晃司など、後々多くの人がコピーしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、矢沢氏は歌詞は日本語だが、

サビや歌い出しなど重要なところに英語を混入させる、

という手法も開発しました。

これは、もうその後のニュー・ミュージックからJ-POPの

歌詞の常套手段になっていますが、

矢沢氏が、なんとかロックを日本語で

カッコよく歌いたいという思いが生んだ技でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 のちにゴダイゴに入るタケカワユキヒデ氏のデビュー曲、

「走り去るロマン」を聴いた時はショックでした。

1975年に発売されたこの曲を、ラジオで聴いたとき、

その発音の素晴らしさに感動し、

彼が東京外語大の外国語学部英米語科卒ときいて、

なるほど、と思ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんな背景で、初めて日本語のロックで良いと思ったのが、

この「四人囃子」の「一触即発」でした。

1974年6月25日発売。

当時中学3年生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時代はプログレッシブ・ロック・ブームでした。

雑誌「ミュージックライフ」の人気投票では、

「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」が

「レッド・ツェッペリン」を抑えて1位を獲得。

「イエス」「ピンク・フロイド」といったバンドが

人気を集めていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まさに「プログレ」は時代の最先端。

その「Progressive」という単語の意味そのままに

「進歩的な」ロックだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このアルバムが、日本のロックとしてではなく

「ロックのアルバム」としてすんなり受け入れられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論から言えば、プログレは

「イントロ~歌~間奏~歌~エンディング」

という構成ではないので、

歌の比重は相対的に低くなっています。

ボーカルスタイルもリード・ギターと対決する

シャウトするボーカルではなく、

アンサンブルの一部として機能するものなので、

「聴かせる」歌はむしろ要求されません。

曲によってはインストもアリです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この点が、日本人のボーカルの弱点を、

難なくクリアーしていたので、

非常にすんなりと曲を聴くことができたと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん、楽曲の良さ、構成力の高さ、

があってのことですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 くわえて「四人囃子」という、ニヤリとさせるセンスあるバンド名、

それに「一触即発」という、

「原子心母」や「危機」と並べても違和感のない

プログレ風のアルバムタイトルもカッコよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで、「一触即発」は

ワタシが好きになった日本のロックアルバムでしたが、

それでも一番好きなのはパープルなどの

ハードロックでしたから、ボーカル問題は

解決したわけではありませんでした。

 

 

 

 

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2020.05.17

影響を受けたレコード⑨「スティル・ライフ/ザ・ローリング・ストーンズ」

影響を受けたレコードシリーズも残すところあと2枚。

フォローしていただいている皆様の多くは、

なぜ、あのアーチストが登場しないのか、

と思われている方々も多いかと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして9枚目にして、ついに登場。

「スティル・ライフ/ザ・ローリング・ストーンズ」1982年6月発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実はワタシははじめからローリング・ストーンズの

大ファンというわけではありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシの「ロック元年」は1972年、多分夏過ぎ。

ストーンズは「ベガーズ・バンケット」1968年5月

「レット・イット・ブリード」1969年12月

「スティッキー・フィンガーズ」1971年3月

「メインストリートのならず者」1972年5月

という「黄金期の4部作」

(あるいは、エグザイルを外して3部作ということもあり)

を発表したあとで、ちょうど低迷期(?)に入ったところでした。

今回の10枚はリアルタイム縛りなので、ここからは選択できません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシのストーンズとのリアルタイムな遭遇は

「山羊の頭のスープ」1973年8月

になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先行シングル「悲しみのアンジー」は、

ラジオのコマーシャルで繰り返し紹介され

「あのミック・ジャガーがあなたの耳にささやきます」

というナレーションだったと記憶しています。

当時は洋楽シングルのラジオコマーシャルがけっこうあったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アンジー」は今でこそ、

ストーンズのバラードの名曲としてワタシも大好きで

「C5-dips」でも演奏しますが、

当時、激しいロックに飢えていたワタシは、

ザ・ローリング・ストーンズは名前くらいは知ってるだけ

というレベルだったので

え、バラードなの?

という印象でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバム「山羊の頭のスープ」は

当時流行した「オカルトブーム」とイメージが重なります。

また、そんなプロモーションがあったと思います。

1973年は「ノストラダムスの大予言」がベストセラーになり、

アメリカで「エクソシスト」が公開になり大きな話題になった年です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ストーンズは翌1974年

「イッツ・オンリー・ロックンロール」を発売します。

その後、調べてみると1975年2月16日に、

ワタシはテレビで初めて「動くローリング・ストーンズ」を見ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NHKで放送された「ヤング・ミュージック・ショー」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

YouTubeはもちろん、家庭用ビデオもない時代、

音楽はラジオやレコードから聴くことができても

映像に触れる機会はほとんどありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロモーションビデオを放送するいわゆるMTVが普及したのは

1980年代後半からですから、それまではテレビも

「ポップス・イン・ピクチャー」などの特殊な番組で

断片的なビデオクリップが流される程度でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、ヤングミュージックショーは、

海外アーティストの動く映像を1時間程度流してくれる

貴重な番組でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1974年に放送された

エマーソン・レイク・アンド・パーマーのライブは衝撃的で、

ELP,スゲエ、とロック少年の心を熱くしたのですが、

1975年3月にザ・ローリング・ストーンズの番組が放送されています。

アルバム「It’s Only Rock’n Roll」の番組で、

全体がプロモーションビデオ的な作りで、

ミック・ジャガーをはじめ全員が水兵さんのセーラー服で演奏します。

これが、どうもカッコよくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、当時、グラム・ロックからの流れで

とくにイギリスのミュージシャンは、

女性のようにアイシャドー、口紅で化粧して

パフォーマンスをすることが流行していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシは、これがダメでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり、男子たるもの、

オトコらしく、男くさい方がカッコイイ、

と思ってましたから、

男の化粧は、まったく受け入れられませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水兵さんの帽子をかぶって、

真っ赤なルージュにセーラー服のミック・ジャガーには、

まったく共感できなかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、なんだかんだでストーンズは常に聴いていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「メタモーフォシス」1974年6月

「メイド・イン・ザ・シェイド」1975年6月

も、発売とともにチェックしていましたが、

これらはベスト盤あるいは、別テイク、未発表曲などを集めた企画アルバムで、

このころストーンズは

ミック・テイラー脱退により

いわゆるグレイト・ギタリスト・ハンティングを行っており、

潜伏期間になっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、ロン・ウッドが新ギタリストとして加入、

とのニュースが、報じられたとき、

アタマの中で瞬間的に絵面を浮かべ、

なんて、ベストな人選だ、これ以外ないじゃんと思ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、1975年、ロン・ウッド加入後の全米ツアーは

(このとき、まだロンはサポートメンバー)

ニューヨークのブロードウエイにトレーラートラックを乗り入れて、

そこをステージに見立てたゲリラライブで始まった。

当時、雑誌に掲載されたその写真を見て、

うわー、カッコイイ、と思いました。

今でこそ、ドラキュラロックフェスをはじめ、

大型トラックをステージ代わりに使うことは珍しくないが、

その元祖はストーンズだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、ロンの正式加入後、発売されたのが

「ブラック・アンド・ブルー」1976年。

つづいて「女たち」1978年、「エモーショナル・レスキュー」1980年、

と、作品を発表するが、

1977年からのパンク・ムーブメントで、

ストーンズは「金持ちの年寄りのバンド」

という立ち位置にたたされた。

キースのヘロインづけもあり、

ミックとキースの関係は悪化していました。

ストーンズはもうおしまい、という風潮もありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな中、1981年にバンドは再結集し、

傑作「刺青の男」をモノにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それをひっさげた全米ツアーのライブ盤が、

今回の「スティル・ライフ」です。

また、今回もここまで長かった・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、ここにもう一言、重要な話が必要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この1981年の全米ツアーの模様が

ハル・アシュビー監督によって映画化され、

「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥギャザー」として

1983年に公開されたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これはアリゾナ州テンピのサン・デヴィッド・スタジアムと

ニュージャージー州メドゥランズの

ブレンダン・バーン・アリーナでのコンサートを

ドキュメンタリー風にまとめたものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、ワタシは映画館のスクリーンで

初めてストーンズのライブを体験したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぶっ飛んだ。(@_@)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スクリーンにくぎ付けです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アメフト風のスタイルのミック・ジャガーは

ステージを縦横に駆けまくり、観客を煽ります。

 

けだるそうにギターを弾くキースのまわりで、

楽しそうに動き回るロン・ウッド。

 

チャーリー・ワッツのリズムは的確で、

ビル・ワイマンは、動かない(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロックンロールって、これなんだ、

すげー、カッコいいぜ、「動く」ストーンズ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 驚いたのは出る曲出る曲、みんな知っていること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オープニングS.E.の「A列車で行こう」から

「アンダー・マイ・サム」が始まるところのカッコよさといったら・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だって「アンダー・マイ・サム」は

1966年の「アフターマス」に入ってる曲。

つづく「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥギャザー」は

1967年の曲、でも全然、古くない、

「今の曲」になっている。

1966年といえばザ・ビートルズの「イエスタディ」と一緒です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ニューアルバムからの「スタート・ミー・アップ」や

「ネイバーズ」「リトルT&A」と、

何の違和感もなくつながっている。

そして、黄金期の「ホンキートンク・ウイメン」

「ブラウン・シュガー」も、また。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 要するにワタシが中学生以来、

ストーンズがフェイバリット・バンドだったことは無いけど、

ロックを聴き続ける過程で、常にストーンズがあった、ということ。

追体験した60年代から73年までのストーンズを含めて、

常にともに「転がり続けてきた」ということがわかりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高校2年の秋、父を突然亡くしたとき、

FM東京で「アフターマス以降のストーンズ」という特集番組をやっていました。

何週かに分けて、アルバム「アフターマス」以降の

ザ・ローリング・ストーンズのレコードを全曲放送する、という企画番組で、

それをすべてエア・チェックしていたのでした。

階下で親戚や、近所の人がお通夜のあと

通夜振舞いで飲み食いしてるとき、

一人自室でストーンズを聴いていたことをよく覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時々聴いていたそのカセットで、

ストーンズの曲はみな、おなじみになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1966年も、そして1981年も、ストーンズは

ずっとそれらの曲を演奏してきた。

このときザ・ローリング・ストーンズが

世界最高のロックンロールバンドである、

といわれることが理解できたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこに、まさに「Rolling Stone Gathers No Moss」、

転がり続けることによって、常にロックンロールし続ける

彼らの姿がありました。

「It’s Only Rock’n Roll,But I Like It.」

のメッセージがすとんと腑に落ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このとき、新加入のロン・ウッドは34歳の、まだ見習い小僧だが、

ミック・ジャガー、キース・リチャードは38歳、

チャーリー・ワッツは40歳、

ビル・ワイマンは45歳になっていた。

今で言う「アラフォー世代」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロックは、若者の音楽、

Don’t Trust Over 30といわれた時代、

今でこそ、30代、40代のロックミュージシャンはざらだが、

当時はアラフォーのロックンロールバンドなんて

考えられませんでした。

そして、彼らは70歳を超えた今も「転がり続けて」いる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザ・ローリング・ストーンズは1973年に日本公演を行う予定で、

日本武道館のチケットは完売していたが、

麻薬による逮捕歴のせいで、それがキャンセルになった経緯があります。

ワタシのロック文明開化以前、の話です。

そのことを知っていたので、ストーンズのステージは一生見られないだろう、

と、画面の隅々まで食い入るように見ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、コンサートのラストはジミ・ヘンドリックスの

「星条旗よ永遠なれ」が流れ、花火が上がります。

レコード「スティルライフ」にもそこまで入ってます。

家庭用ビデオをまだ持ってなかったころ、

このレコードを聴くことによって、

自分の部屋で動いているストーンズを

思い浮かべることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルは「Still Life(静物画)」ですが、

それは、まさに「Motion Picture」を切り取った

「静物画」ということなのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1980年にポール・マッカートニーが

大麻で逮捕され、日本公演がキャンセルされたこともあり

ストーンズのコンサートなど夢のまた夢、

と思っていましたが、

1990年、まさかの来日公演が実現し、

結婚前の妻とともに、東京ドームで、

あこがれの生ストーンズを見ることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、このアルバムを影響を受けたレコードにあげるのは

映画「レッツ・スぺンド・ザ・ナイト・トゥギャザー」ありきです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2020年のいま、コロナ禍の中、

またストーンズは新作を発表しました。

 止ることなく転がり続ける彼らに出会い、

大ファンになったワタシは大変幸せです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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