ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2020.06.06

影響を受けたレコード(国内編)⑪「STOP JAP/ザ・スターリン」

さて、前回予告(?)の通り、ザ・スターリンです。

ザ・スターリンは1981年12月にインディーズから

デビューアルバム「Trash」を発売しているが、

2000枚の限定生産で、

放送禁止用語連発のため放送や再発はなく、

その音を聴くことはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、ザ・スターリンの名前は

メディアを通じて多く耳にしました。

だが、その内容は、音楽記事ではなく

「過激なパンク・バンド」

「変態的パフォーマンス」

「荒れるステージ」

「熱狂のあまり暴徒となる観客」

「会場が破壊されるためコンサート会場はどこも出入り禁止」

といった、三面芸能記事的なものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この「噂のスターリン」を初めて耳にしたのが、

1982年7月1日、徳間音工から発売された「STOP JAP」。

スターリンのメジャーデビュー盤です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザ・スターリンに関してのワタシの印象は

「いまさら、パンク?」

というものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1977年に誕生したパンク・ロックは、

その爆発的エネルギーで音楽業界の下克上を起こしただけでなく、

社会現象として芸術、ファッション、風俗の分野

などに影響を及ぼしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、そのビッグ・バンは猛烈なスピードで拡散し、

次々に新しいものに姿を変えていったので、

その根源的なパンクロックのスタイルは、

すでに、むしろ時代遅れ、ダサいもの、

になっていったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、パンクロックの一つの重要なファクターに

テクニックの否定、があったのですが、

当初は

「テクニック<スピリット、アティチュード」

という式だったのが、そのうち

「テクニック<センス」

という数式にすり替わっていったことが原因です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、パンクの根源的なエネルギー、

欲求不満のはけ口、社会に対する不満の受け皿、

というニーズは、テクノポップや、アヴァンギャルドでは受け止められず、

スターリンの様なバンドを求めていた層が存在し続けていた、

ということでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザ・スターリンのアルバムを聴いた印象は、

セックス・ピストルズの「Never Mind the Bollocks」

を聴いた印象に大変近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、音作りの上手さです。

インディーズのパンクバンドがレコード盤で再現できなかった、

ヘビィでクリヤーな音が記録されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠藤ミチロウは、セックス・ピストルズのアルバムを研究し、

クリス・トーマスが行った、ギターを何重にも重ねて、

音の厚みを出す手法を使ったそうです。

ある意味「後出しじゃんけん」な故に、

本アルバムは高い完成度を持っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、歌詞。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福島随一の進学校から

国立山形大学の人文学部を出た遠藤ミチロウは

おそらく文学少年であったと思います。

少なくとも文学の才能は豊かで、この点でも

前回の「INU」の町田町蔵と共通点があり、

実際、二人は個人的にも交流が深かったといいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠藤ミチロウの文学性は、

ザ・スターリン解散後のソロプロジェクトでも

確認することができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アコースティックギター1本での弾きかたりスタイルになった

遠藤ミチロウの曲は、非常に内省的で、暗い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はここに彼の本質があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、パンクロックという「時代の器」があったために、

彼の音楽表現があのような形になった、

と言うことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、この間書いた遠藤賢司が、1960年代に

「フォークソング」という「時代の器」を使って

自己表現をしたことと同じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一見、破天荒でめちゃくちゃな変態バンドに見えるザ・スターリンは、

実は、冷静な計算による演出と

確かな演奏、録音技術に裏打ちされた

プロフェッショナルなパンク・バンドでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、パフォーマーは冷静でもオーディエンスは過激。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは大学時代に「ザ・スターリン」の前座をしたことがありますが、

いやもう、怖かったのなんの。

その模様は以下のブログに書いています。

アメリカばかりがなぜ赤い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1983年4月にザ・スターリンは3枚目(メジャー2枚目)

のスタジオアルバム「虫」を発表します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠藤ミチロウの言語感覚はますます研ぎ澄まされ、

このアルバムでザ・スターリンはバンドとしての頂点を極めます。

それは、また、パンクロックというジャンルに限れば、

日本のパンクロックの一つの完成形といっていいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このあと、ザ・スターリンはメンバーが流動的になり

パンクからの脱却を試みた「Fish Inn」を1984年末に発売したのち、

1985年1月15日に解散します。

遠藤ミチロウによると「Fish Inn」は

「ザ・スターリンをいかに殺すか」

が、テーマだったといい、

「パンクロックという器」が、

もはや彼の本意ではなかったことを示しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、その2か月後、

ワタシは大学を卒業し、

4月に医師国家試験をうけ、無事、合格。

バンドも解散し、研修医として新たなスタートを切ったのでした。

 

 

 

 

 

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2020.06.05

影響を受けたレコード(国内編)⑩「メシ食うな!/INU」

影響を受けたレコード(国内編)も10枚目。

当初は10枚のはずで、あらかじめ10枚選んだのですが、

途中で、これもいれなければ、というものがあり

どうしてもおさまりきれなくなり、

12、3枚くらいになっちゃう模様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9枚目は「メシ食うな!/INU」1981年3月1日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時群大医学部は最初の2年間は医学進学過程、といって

荒牧キャンパスで一般教養、英語、数学、物理、社会学、心理学などの科目を履修。

3年生から附属病院のある昭和キャンパスにうつり、

解剖実習などの医学部の専門的な内容に入ります。

3月はその直前で、前橋で下宿探しなんかをしていたころですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒涛の1980年を経て、音楽シーンは変革を続けていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パンクロックのスタイルは完全に過去のものになり、

ポストパンクやニューウェーブといた「次の一手」が

模索されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その流れの一つは60年代ポップスへの回帰を含んだ、

いわゆるパワーポップ、と呼ばれる路線です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルビス・コステロを筆頭に

ニック・ロウ、グラハム・パーカー、ジョー・ジャクソン、スクイーズ、

などはポップなメロディを持った軽快な、

しかし、60年代の明るさとは違う

どこかねじれたロックンロールを演奏していました。

また、コーギスやブロンディ、プリテンダーズなども

60年代風の曲で人気を呼びます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いっぽう、パブリック・イメージに代表される、

アヴァンギャルド、ノイズ・ミュージック的なアプローチも見られ、

ポップ・グループや、コントーションズなどは、

サックスをフィーチャーしたフリージャズ的な演奏を取り入れ、

独自の流れを作っていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とくにイギリスの

ラフ・トレード・レーベルに所属する一連のアーチスト、

キャバレー・ボルテイル、ペル・ウブ、モノクローム・セットなどは

オルタナティブといわれるジャンルを確立しつつありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本もシーナ&ロケッツは60’s調の

「ユー・メイ・ドリーム」をヒットさせ、

ザ・ヴィーナスはオールディーズ風の「キッスは目にして!」で大ブレイク、

常に時代に敏感であった沢田研二は

「おまえがパラダイス」「渚のラブレター」と

60年代ポップスを下敷きにした曲のあと、

ネオ・ロカビリー調の「ス・ト・リ・ッ・パ・-」で

1981年のレコード大賞金賞を受賞しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしていっぽうのポストパンク、オルタナティブ系としては

この間あげました「フリクション」が、

いきなり完成度の高いアルバムを発表しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PASSレコードは日本のラフ・トレードとでもいうべきレーベルで、

「フリクション」のほか、

「Phew」「突然段ボール」「グンジョーガクレヨン」

など、のちにオルタナティブといわれるような

先鋭的、前衛的なアーティストが所属していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、大阪から突然登場したのがこの「INU」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このバンドについては大阪ということもあって、

一切の事前情報がなく、

いきなりラジオの新譜紹介で聴いて、

ぶっ飛んでレコード屋に走った、

というものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとから知ったことですが、

もともとは高校生バンドで

ストーンズやチャック・ベリーのような

オーソドックスなロックンロールをやっていたバンドが

セックス・ピストルズの洗礼を受け、

さらにパブリック・イメージ・リミテッドに影響され

ポストパンクの音になっていったといいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その高校生バンド時代の名前が「腐れおめこ」だそうですが、

本当にこの名前でチャック・ベリーやってたんだろうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、ジャケット写真を見てもわかる通り、

このバンドはボーカルの町田町蔵氏のワンマンバンドといってもいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

町田町蔵氏は、こののち1996年に作家に転向。

町田康名義で数々の文学賞を受賞し、

2000年には純文学の最高峰である「芥川賞」を受賞しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバムの作曲は半分ですが

作詞はすべて町田町蔵が手掛けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音は過激なノイズミュージックですが、

歌詞は非常に言葉が選ばれているという印象。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

収録されている「つるつるの壺」は、

のちに同じ名前の随筆のタイトルになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここが、このあと出てくる(ネタバレですが)

ザ・スターリンと非常に似ている点です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文学少年だったと思われる遠藤ミチロウのスターリンと

INUは互いにシンパシーを感じていたようで、

遠藤ミチロウはザ・スターリンのメジャーデビューアルバムで

「ワルシャワの幻想」という、

このアルバムのタイトルチューン「メシ食うな!」に対する

アンサーソングをレコーディングしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうしてみると、ワタシの日本のロックの好みとなると

海外の作品と違い「歌詞」が、

好きか嫌いかの重要な要素になっている、

ということがわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音の趣味はもちろん、最重要なのですが、

歌詞が幼稚だと、そっちが気になってどうも曲に入り込めない。

同時代の「ボウイ」とか「アナーキー」が

めちゃくちゃつまらなかった理由はそこだな。

 

 

 

 

 

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2020.06.04

影響を受けたレコード(国内編)⑨「RHAPSODY、PLEASE/RCサクセション」

RCサクセションという奇妙なグループを知ったのは

1972年から1973年にかけてのはず。

1972年12月20日に発売されている「三番目に大事なもの」

が、ワタシが初めて聴いたRCサクセションだったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、フォークソングにハマっていて、

ガロの「君の誕生日」や、よしだたくろう「伽草紙」、

かぐや姫の「僕の胸でおやすみ」などをラジオからカセットに入れ、

雑誌「明星」「平凡」のソングブックを見ながら、

買ってもらったばかりのモーリスギターで

弾きかたりに挑戦していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、この「三番目に大事なもの」は、

うまく歌えなかった。

忌野清志郎、変な歌い方をするシンガーだな、

という認識でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、RCサクセションの名はあまり聞かなくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、ワタシの音楽志向が

日本のフォークから海外のロックに変わった、ということだけではなく

RCサクセションそのものが、売れなくなり、

活動休止状態になっていたためでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、1980年を迎えRCサクセションは、

突如、それも全く違った姿でシーンに登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまでのねじれたフォークグループではなく、

ノリノリのロック・バンド、ライブ・バンドとして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それには1979年に古井戸の解散とともに

RCサクセション加入を発表したチャボこと仲井戸麗市の存在が大きいが、

忌野清志郎自身も、ウイキペディアによると

複雑なコード進行の曲ばかり作って行き詰ったことの反省から、

シンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つ

ローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねたそうです。

そして、この頃、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンに影響を受け、

それまで長くしていた髪を切り落とし、

ステージでは髪の毛を立てたり奇抜なメイクを施すようになったという。

ここでも、セックス・ピストルズが登場します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、この再スタートになる4年ぶりのアルバムを

ライブアルバムというかたちで発売したのが良かった。

1980年6月5日発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1980年4月5日の久保講堂でのライブを、

1980年6月5日にリリースする、というスピード感も重要だが、

スタジオ盤を出すべきというレコード会社の声に対し、

ライブの勢いを伝えたい、

という忌野清志郎が押し切ってのライブ盤発表だったとのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、日本のライブ盤の中でもおそらく1,2を争う名盤です。

ほかに思い浮かぶのは

「キャンディーズ・ファイナルカーニバル」くらいか・・・。(^^)v

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、バンドは1980年のサブカルチャーブームの中で

新しい若者文化の象徴として日本のロックバンドの旗印に祭り上げられます。

当時ワタシが熱心に愛読していた雑誌「宝島」にも

たびたび特集が組まれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝島の熱心な読者だったワタシ自身も、

このRCサクセションにハマりました。

ロックのカッコよさ、ライブの楽しさをこんなに体現できるバンドは

それまであまりありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのステージには、忌野氏が参考にしたという

ザ・ローリング・ストーンズの姿が垣間見え、

本家ストーンズの来日は、おそらく未来永劫ないだろう、

と思われていた時代ですから、

これが日本で見られるとはアリガタイ的な

感覚もあったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「雨上がりの夜空に」はバンドでもコピーし、

ダンスパーティーでこの曲を演奏すると最高に盛り上がりました。

またまた、発掘写真。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1980年10月にはスタジオ録音のニューシングル

「トランジスタ・ラジオ」を発表。

歌詞には、忌野清志郎の洋楽ポップスへの愛が満ち溢れていて、

ワタシは、とくに

「ベイエリアから、リバプールから、

彼女が聞いたこともないナンバーを聞かせてくれるトランジスタラジオ」

という、くだりが好きでした。

忌野少年が聴いていたのは、間違いなくFENでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに続き、新生RCサクセションの初のスタジオアルバムとして

1980年12月5日に発売されたのが、この「PLEASE」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは大いに期待をもって、このアルバムを聴きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1曲目の「ダーリン・ミシン」では、

お正月に向けて彼女が僕へのプレゼントに

赤いコール天のズボンを縫っている、という設定が、

ちょうど、発売日の季節感とマッチして印象的でした。

歌詞の内容としてはおよそロック的ではない、

むしろ四畳半フォークの素材かとも思いますが、

これはアメリカのルーツミュージック的な

ブルースに対するオマージュと読むことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このアルバムを聴いて感じるのは、

忌野清志郎氏がいかに黒人音楽としてのブルース、

およびリズム&ブルース、ソウルミュージックを敬愛しているか、

ということです。

「Sweet Soul Music」では、

オーティス・レディングのドック・オブ・ベイが織り込まれ、

「例えばこんなラブソング」でも、R&Bに対する愛が感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 折しも1980年はアメリカで

映画「ブルース・ブラザース」が公開され、大きな話題を呼びました。

日本公開は、このアルバムの発売から間もない1981年3月でしたが、

すぐに映画館に見に行きましたが、

カッコよさにすっかりシビレました。

これが、このアルバムのカッコよさとシンクロします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他にも「いい事ばかりはありゃしない」は、ひょっとしたら

ザ・ローリング・ストーンズの

「You Can’t Always Get What You Want」が

ベースになってるんじゃないかなあ、

などと、聴いてて楽しくなってくる曲ばかりでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 RCサクセションはロックバンドでありながら、

フォーク出身なので、忌野清志郎氏の書く歌詞は、

非常に素晴らしい。

特に好きなのが「ぼくはタオル」。

パンクロックの歌詞はこうでなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本語のロックバンドに多くある、

シラケてしまうほど稚拙な歌詞とは、レベルが違う。

この同じ年、日本のパンクバンド「アナーキー」がデビューしています。

クラッシュのカバーなんかがあって、曲は良かったのですが、

ともかく、歌詞が幼稚でひどかった・・・。

なまじ日本語だと、ここが悩みどころです。

たぶんライブだと、歌詞が聞き取れないから

そうでもないんだろうけど。

その後、最近までのJ-POPも歌詞は適当ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1980年のこの「大爆発」によって

こののち、RCサクセションは日本を代表するロックバンドとして

長く君臨することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2件のコメント
2020.06.03

影響を受けたレコード(国内編)⑧「Drink!/ジューシィ・フルーツ」

1980年は、ロックの価値観が

ひっくり返っていった時代。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インディーズ、テクノブーム、サブカルチャー、ヘタウマ、

キッチュ、コピーライター、ポップアート、通好み・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 感覚的な印象、センスとアプローチが重視され、

テクニックや楽典、重厚さや仰々しさが忌み嫌われる時代になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長髪や革ジャンはカッコ悪い、

ギターソロや、チョーキングはダサい、

ツーバスのドラムセットよりはリズムボックスのほうがイマ風で、

ボーカルは熱唱、シャウトはダメ、という具合。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DEVO、B-52’sなどの海外バンドに加え、

本邦でもプラスチックスなどが人気を博しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのなかで、グループサウンズや、ベンチャーズサウンドが見直され、

ジャガーや、ジャズマスターなどの過去の「ダサい」ギターや、

国産のテスコ、グヤトーンなどの「ビザールギター」が

時代にマッチしたルックスであるとリバイバルします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オールディーズ風のアレンジが時代の流行になり、

太田裕美の「さらばシベリア鉄道」(作曲:大瀧詠一)

YUKI(岡崎友紀)の「Do You Remember Me?」(作曲:加藤和彦)

などは1980年のリリース。

1979年の「愛しのキッズ/プリテンダーズ」の影響を感じさせます。

「シーナ&ロケッツ」はこの路線で

「ユー・メイ・ドリーム」をヒットさせました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、オールディーズのスタイルを取り入れたとはいえ、

それはピッタリ重なるようにコピーをしたものではなく、

ほぼ360°回ってきたけど、

サークルではなくスパイラルなので、

水平に見ただけではあまりわからないけど、

斜めに見ると違いが浮き出て見える、

というものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、近田春夫の登場です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近田春夫氏は、電撃的東京で、歌謡曲を270°回転させて、

ユニークな音世界を作ったのですが、

それをさらに進めて、

360°回転させたアイドル歌謡を作ろうとしたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、一般大衆にはアイドル歌謡曲にしか見えないけど、

見る人が見れば最先端の洗練された音とわかる

アーティストを作ろうと、考えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近田春夫氏のバックバンドであった「BEEF」をもとに、

ギターのイリアこと奥野敦子さんを前面に立てて

つくったのが「ジューシィ・フルーツ」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、おそらく、近田春夫氏の想像以上に当たった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジューシィ・フルーツのデビュー前、

近田春夫氏はバンドのコンセプトについて語っていて、

でも、ホントに大衆が勘違いしてヒットチャートに乗っちゃうかもね。

などといっていたのですが、

実際にデビュー曲「ジェニーはご機嫌ななめ」はオリコンの5位まで上がり、

ザ・ベストテンなどの歌謡番組に登場するまでになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バンド名の「ジューシィ・フルーツ」は

1974年のロック・ミュージカル映画

「ファントム・オブ・パラダイス」に登場する

ロックバンドの名前からとっており、

実はその前身の「BEEF」も

その映画に登場するオカマロックシンガーの名前です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボーカル兼リード・ギターのイリアさんは、

1977年に日本のランナウェイズとして結成された

ガールズバンド「GIRLS」のメンバーでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、本家「ランナウェイズ」と同様、

レコード会社が「仕掛けた」バンドで、

メンバーのニックネームである、

ジニー、イリア、リタ、レナ、サディの頭文字をとって

「G.I.R.L.S.」ということになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、これは当初仮の名前で、「ガールズ」のバンド名を

テレビ番組で一般公募したのですが、

結果、そのまま「ガールズ」になり、

司会者が「それでは、ガールズの正式名はガールズに決まりましたー。」

と言ったので、見ていたワタシは大いにシラケた記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガールズは1979年に解散し、

イリアさんは近田春夫氏のバックバンドに参加しますが、

ボーカルのリタさんは、「ピンナップス」

というニューウエーブ系のバンドに参加し、ちょっと売れました。

この辺、ランナウェイズのジョーン・ジェットと

リタ・フォードみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなわけで、デビュー前から興味津々だった

「ジューシィ・フルーツ」、

デビューアルバムが、この「Drink!」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これも、相当ハマりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歌謡曲風な味付けなのに、

その目で見るとウラの仕掛けがみえて、

またそれが「楽屋落ち」のように自己満足心をくすぐります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何より、このバンドがどんどん有名になってゆくのが不思議でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、ワタシが大学生当時使っていたギターは、

グレコのBG-800、愛称「ブギー」というギターですが、

イリアさんも、同じモデルを使っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、買ったのはワタシの方が先です。<(`^´)>

お茶の水のイシバシ楽器でハードケース付き定価¥80000のところ

6万円ちょっとで買った記憶アリ。

もちろん、当時は消費税などありません。

写真は大学時代のワタシ。ワカイナー、オレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.06.02

影響を受けたレコード(国内編)⑦「軋轢/フリクション」

1977年のパンクロック誕生を経て、

ロック・シーンは明らかに構造改革が進んでいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大手レコード会社が、

ヤマハポプコンとか、イーストウエストといった

大規模ミュージックコンテストで優勝したバンドを

商品として売り出す、という方法ではなく

のちに「インディーズ」といわれる

自主制作盤や、カセットテープを輸入レコード店においてもらい、

いわゆる「ライブハウス」で活動を行い、

そこから、口コミ、ミニコミで評判を集め、

頭角を現してくるバンドが出てきたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1979年3月に発売されたアルバム「東京ROCKERS」は

そんな、新宿、六本木のライブハウスで活躍する、

東京ロッカーズといわれたバンドのライブ盤で、

そこに参加していたのが

リザード、S-KEN、ミラーズ、ミスター・カイト、

そして、今回取り上げるフリクションでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの「フリクション」は、

坂本龍一のプロデュースにより

1980年4月25日、パスレコードから初のフルアルバムを発売しました。

このアルバム、発売時のレコード帯のコピーから

「軋轢」と呼ばれているが、

正式タイトルは「フリクション」らしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、ワタシは田舎の大学2年生。

パンク、ニューウェーブにどっぷりつかっていましたが、

東京のライブハウスに出かける

時間的、金銭的余裕もなく、

また、そんな怖そうなところに一人で行く度胸もなかったので、

音楽はもっぱらラジオ、雑誌、レコードに限られていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑誌の記事で興味を持って購入したのが、

このアルバム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

衝撃的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまで、ロックに関しては、

ともかくロックはアメリカ、イギリスのもの。

日本のロックなどとても同じ土俵では語れない、

と思い続けていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サディスティック・ミカ・バンドにしろ、

四人囃子にしろ、

あくまで「日本のロック」として、評価していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、このアルバムのサウンドは、

アメリカや、イギリスのものと同列、でした。

いや、むしろ、パブリック・イメージとか、ポップ・グループより

カッコイイかも、と思ったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかく、このアルバムは「日本の」という前置きをつけずに

ワタシのプレイリストに加えて、何の違和感もない、

と感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンバーはレック(Ba、Vo)、チコ・ヒゲ(Ds)、ツネマツマサトシ(Gt)

の3人組ですが、

ライブの緊張感が伝わるようなサウンドは、

ニューヨークで活動していたメンバーの鍛えられたグルーブ感と、

やはり、この時期ノッていた坂本教授のプロデュース力が

結実したものでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レック、チコ・ヒゲの2人は

ニューヨークのニューウェーブシーンの中心であった、

ジェームス・チャンスのコントーションズに参加していた、

というのも和洋の違和感のないアルバムになっている要因でしょう。

「ジェームス・チャンス&コントーションズ」の「BUY」、

また、別名義での

「ジェームス・ホワイト&ブラックス」のアルバムは、

大学時代の愛聴盤で、

このあいだの10選にも、加えるか迷ったものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ともかくワタシ的には、このレコードは

ヨーロッパの文化であるF1で、

ホンダのマシンが優勝した、と近い感覚の驚きでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音はいわゆる「ポスト・パンク」の流れで、

のちに「オールタナティブ」というジャンルができる前夜のサウンドです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メタリックでノイジーなギターと、

縦割りの重く激しいリズム。

そこには、パブリック・イメージにはない

疾走感を併せ持っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本語のボーカルの載せ方もユニークで、

曲のスピード、雰囲気をスポイルすることなく、

見事にハマっていました。

ジャンル、スタイルは違うが、日本語の処理は、

「外道」を聴いた時の印象に近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、残念なことに

こののち、ギターのツネマツマサトシが脱退してしまい、

彼は「E・D・P・S」を結成し、

フリクションはメンバーチェンジを行いますが、

どちらも、その後、このアルバムほどの輝きを

見せることはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミュージシャンとプロデューサー、

そしてなんといっても時代が絶妙にクロスした上に出来上がった、

瞬間芸術的な作品でした。

 

 

 

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