ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2020.05.18

影響を受けたレコード⑩「アメリカン・イディオット/グリーンデイ」

 さて、10日間にわたってお届けした

影響を受けたレコード10選、ついに最終回でございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回の10作を選ぶにあたっては、

最初に候補を上げ、いろいろ考え、記憶をたどり

選考の上、10枚を決めてから、投稿をはじめました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やはり、音楽というものに自分から興味を持った中学時代から

現在までをたどってみると、

「影響を受けた」となると若い時代に偏っていて、

逆に若いからこそ、いろいろな影響を受けたのだなあ、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで9枚目のザ・ローリング・ストーンズが

1982年、23歳、大学4年生、ということですが、

最後の10枚目は、ぐぐぐーっと年代が飛んで22年後、

2004年、9月発売のこのアルバム。

「アメリカン・イディオット/グリーンデイ」

最後の1枚だけは「レコード」ではなく「CD」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2004年というと、45歳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大学を卒業して、群馬大の耳鼻咽喉科に入局したのが1985年でした。

大学卒業とともにバンドは自然消滅、

勤務医時代は、楽器を弾ける仲間を見つけて、

医局内や、勤務先の市中病院で余興的なバンドをやったりしましたが、

それも次第にフェイドアウト。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 36歳で開業してからは、そういった仲間もいなくなり、

もう一生バンドなんかやることは無いだろうと思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それがある日、大学の後輩から電話がかかってきて、

自分が太田市に開業するので、

一緒にバンドやりませんか、との誘い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は、まさか無理だろう、

と思ったのですが、

開業して10年が経ち、経営も何とか安定してきたので

いっちょやってみようか、と始めたのが

もう15年前になるんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 錆びついたギターの弦を張り替え、

すっかり柔らかくなった指で、ひさびさに弾いてみると、

テクニックの方はさらに錆びついていました。(T_T)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、じゃあ、何をやろうか、という話になったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシの中には、ひとつの考えがありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうせやるならジジ臭いことはやりたくない。

オトナゲのない、カッコイイバンドがやりたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大人バンドを見ると、

プロも含めて、歳をとったミュージシャンは、

渋さや、枯れた感じを売りにする手合いが多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 若いころはハードロックやパンクやってたのが、

歳とるとブルースや、ジャズに走って、

汗をかかない音楽をやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 分かりやすい例がエリック・クラプトンで、

若いころクリームであんなにがんがんに弾きまくっていた男が、

その当時は爺むさい格好で老眼鏡をかけてアコギで

座ってレイラなんか歌ってる。

(最近はさらにヒドイ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああいうのは、ゼッタイ、イヤダ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エアロスミスを見ろ、ローリング・ストーンズを見ろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな時、ふと耳にしたのが、このアルバムのタイトル曲、

「アメリカン・イディオット」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 20年ぶりに電流が、走りましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コレだ、と思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時に、こういうものに反応する感性が、

まだ自分に残っていたんだ、と大変うれしくも思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで、皮膚科の野口先生、産婦人科の土井先生、

耳鼻咽喉科の前原先生と、4人で始めたバンド「CRP」は

ほぼ10年活動しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、そのバンドは解散しましたが、

前原先生と、ギターの治之くん、ドラムの中野くんと始めた

「C5-dips」でも、この曲は演奏しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの時、バンドを始めたおかげで、

今は、多くのバンド仲間ができ、

対バンをしたり、Facebookを通じたりして、交流ができ、

こんなバトンも回ってくるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このバトンを回してくれた、

Kozzyさん、高木先生、治之くんに

感謝をするとともに、

ワタシの記事にいいねをしてくれたり、

コメントを寄せてくださった皆さん、

そしてワタシのバトンを受け取ってくれた方々にも、

心からお礼を言いたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新型コロナは、ワレワレに多大な災厄をもたらしましたが、

こうやって、また繋がりが深まったことを思えば、

それは100パーセントのマイナス事象ではなく、

少なからず良いこともあったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 16歳で始めたバンドも、

途中浪人の1年間、開業後の10年間のブランクがありましたが、

まさか還暦過ぎてもまだロックやってるとは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことをタイムマシンで時間をさかのぼって

高校生の自分に言っても、まず信用しないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

早くギターをぶら下げてライブができる日が来ることを

心待ちにしております。

 

 

 

 

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2020.05.17

影響を受けたレコード⑨「スティル・ライフ/ザ・ローリング・ストーンズ」

影響を受けたレコードシリーズも残すところあと2枚。

フォローしていただいている皆様の多くは、

なぜ、あのアーチストが登場しないのか、

と思われている方々も多いかと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして9枚目にして、ついに登場。

「スティル・ライフ/ザ・ローリング・ストーンズ」1982年6月発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実はワタシははじめからローリング・ストーンズの

大ファンというわけではありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシの「ロック元年」は1972年、多分夏過ぎ。

ストーンズは「ベガーズ・バンケット」1968年5月

「レット・イット・ブリード」1969年12月

「スティッキー・フィンガーズ」1971年3月

「メインストリートのならず者」1972年5月

という「黄金期の4部作」

(あるいは、エグザイルを外して3部作ということもあり)

を発表したあとで、ちょうど低迷期(?)に入ったところでした。

今回の10枚はリアルタイム縛りなので、ここからは選択できません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシのストーンズとのリアルタイムな遭遇は

「山羊の頭のスープ」1973年8月

になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先行シングル「悲しみのアンジー」は、

ラジオのコマーシャルで繰り返し紹介され

「あのミック・ジャガーがあなたの耳にささやきます」

というナレーションだったと記憶しています。

当時は洋楽シングルのラジオコマーシャルがけっこうあったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アンジー」は今でこそ、

ストーンズのバラードの名曲としてワタシも大好きで

「C5-dips」でも演奏しますが、

当時、激しいロックに飢えていたワタシは、

ザ・ローリング・ストーンズは名前くらいは知ってるだけ

というレベルだったので

え、バラードなの?

という印象でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバム「山羊の頭のスープ」は

当時流行した「オカルトブーム」とイメージが重なります。

また、そんなプロモーションがあったと思います。

1973年は「ノストラダムスの大予言」がベストセラーになり、

アメリカで「エクソシスト」が公開になり大きな話題になった年です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ストーンズは翌1974年

「イッツ・オンリー・ロックンロール」を発売します。

その後、調べてみると1975年2月16日に、

ワタシはテレビで初めて「動くローリング・ストーンズ」を見ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NHKで放送された「ヤング・ミュージック・ショー」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

YouTubeはもちろん、家庭用ビデオもない時代、

音楽はラジオやレコードから聴くことができても

映像に触れる機会はほとんどありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロモーションビデオを放送するいわゆるMTVが普及したのは

1980年代後半からですから、それまではテレビも

「ポップス・イン・ピクチャー」などの特殊な番組で

断片的なビデオクリップが流される程度でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、ヤングミュージックショーは、

海外アーティストの動く映像を1時間程度流してくれる

貴重な番組でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1974年に放送された

エマーソン・レイク・アンド・パーマーのライブは衝撃的で、

ELP,スゲエ、とロック少年の心を熱くしたのですが、

1975年3月にザ・ローリング・ストーンズの番組が放送されています。

アルバム「It’s Only Rock’n Roll」の番組で、

全体がプロモーションビデオ的な作りで、

ミック・ジャガーをはじめ全員が水兵さんのセーラー服で演奏します。

これが、どうもカッコよくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、当時、グラム・ロックからの流れで

とくにイギリスのミュージシャンは、

女性のようにアイシャドー、口紅で化粧して

パフォーマンスをすることが流行していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシは、これがダメでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり、男子たるもの、

オトコらしく、男くさい方がカッコイイ、

と思ってましたから、

男の化粧は、まったく受け入れられませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水兵さんの帽子をかぶって、

真っ赤なルージュにセーラー服のミック・ジャガーには、

まったく共感できなかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、なんだかんだでストーンズは常に聴いていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「メタモーフォシス」1974年6月

「メイド・イン・ザ・シェイド」1975年6月

も、発売とともにチェックしていましたが、

これらはベスト盤あるいは、別テイク、未発表曲などを集めた企画アルバムで、

このころストーンズは

ミック・テイラー脱退により

いわゆるグレイト・ギタリスト・ハンティングを行っており、

潜伏期間になっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、ロン・ウッドが新ギタリストとして加入、

とのニュースが、報じられたとき、

アタマの中で瞬間的に絵面を浮かべ、

なんて、ベストな人選だ、これ以外ないじゃんと思ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、1975年、ロン・ウッド加入後の全米ツアーは

(このとき、まだロンはサポートメンバー)

ニューヨークのブロードウエイにトレーラートラックを乗り入れて、

そこをステージに見立てたゲリラライブで始まった。

当時、雑誌に掲載されたその写真を見て、

うわー、カッコイイ、と思いました。

今でこそ、ドラキュラロックフェスをはじめ、

大型トラックをステージ代わりに使うことは珍しくないが、

その元祖はストーンズだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、ロンの正式加入後、発売されたのが

「ブラック・アンド・ブルー」1976年。

つづいて「女たち」1978年、「エモーショナル・レスキュー」1980年、

と、作品を発表するが、

1977年からのパンク・ムーブメントで、

ストーンズは「金持ちの年寄りのバンド」

という立ち位置にたたされた。

キースのヘロインづけもあり、

ミックとキースの関係は悪化していました。

ストーンズはもうおしまい、という風潮もありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな中、1981年にバンドは再結集し、

傑作「刺青の男」をモノにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それをひっさげた全米ツアーのライブ盤が、

今回の「スティル・ライフ」です。

また、今回もここまで長かった・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、ここにもう一言、重要な話が必要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この1981年の全米ツアーの模様が

ハル・アシュビー監督によって映画化され、

「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥギャザー」として

1983年に公開されたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これはアリゾナ州テンピのサン・デヴィッド・スタジアムと

ニュージャージー州メドゥランズの

ブレンダン・バーン・アリーナでのコンサートを

ドキュメンタリー風にまとめたものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、ワタシは映画館のスクリーンで

初めてストーンズのライブを体験したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぶっ飛んだ。(@_@)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スクリーンにくぎ付けです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アメフト風のスタイルのミック・ジャガーは

ステージを縦横に駆けまくり、観客を煽ります。

 

けだるそうにギターを弾くキースのまわりで、

楽しそうに動き回るロン・ウッド。

 

チャーリー・ワッツのリズムは的確で、

ビル・ワイマンは、動かない(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロックンロールって、これなんだ、

すげー、カッコいいぜ、「動く」ストーンズ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 驚いたのは出る曲出る曲、みんな知っていること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オープニングS.E.の「A列車で行こう」から

「アンダー・マイ・サム」が始まるところのカッコよさといったら・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だって「アンダー・マイ・サム」は

1966年の「アフターマス」に入ってる曲。

つづく「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥギャザー」は

1967年の曲、でも全然、古くない、

「今の曲」になっている。

1966年といえばザ・ビートルズの「イエスタディ」と一緒です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ニューアルバムからの「スタート・ミー・アップ」や

「ネイバーズ」「リトルT&A」と、

何の違和感もなくつながっている。

そして、黄金期の「ホンキートンク・ウイメン」

「ブラウン・シュガー」も、また。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 要するにワタシが中学生以来、

ストーンズがフェイバリット・バンドだったことは無いけど、

ロックを聴き続ける過程で、常にストーンズがあった、ということ。

追体験した60年代から73年までのストーンズを含めて、

常にともに「転がり続けてきた」ということがわかりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高校2年の秋、父を突然亡くしたとき、

FM東京で「アフターマス以降のストーンズ」という特集番組をやっていました。

何週かに分けて、アルバム「アフターマス」以降の

ザ・ローリング・ストーンズのレコードを全曲放送する、という企画番組で、

それをすべてエア・チェックしていたのでした。

階下で親戚や、近所の人がお通夜のあと

通夜振舞いで飲み食いしてるとき、

一人自室でストーンズを聴いていたことをよく覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時々聴いていたそのカセットで、

ストーンズの曲はみな、おなじみになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1966年も、そして1981年も、ストーンズは

ずっとそれらの曲を演奏してきた。

このときザ・ローリング・ストーンズが

世界最高のロックンロールバンドである、

といわれることが理解できたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこに、まさに「Rolling Stone Gathers No Moss」、

転がり続けることによって、常にロックンロールし続ける

彼らの姿がありました。

「It’s Only Rock’n Roll,But I Like It.」

のメッセージがすとんと腑に落ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このとき、新加入のロン・ウッドは34歳の、まだ見習い小僧だが、

ミック・ジャガー、キース・リチャードは38歳、

チャーリー・ワッツは40歳、

ビル・ワイマンは45歳になっていた。

今で言う「アラフォー世代」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロックは、若者の音楽、

Don’t Trust Over 30といわれた時代、

今でこそ、30代、40代のロックミュージシャンはざらだが、

当時はアラフォーのロックンロールバンドなんて

考えられませんでした。

そして、彼らは70歳を超えた今も「転がり続けて」いる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザ・ローリング・ストーンズは1973年に日本公演を行う予定で、

日本武道館のチケットは完売していたが、

麻薬による逮捕歴のせいで、それがキャンセルになった経緯があります。

ワタシのロック文明開化以前、の話です。

そのことを知っていたので、ストーンズのステージは一生見られないだろう、

と、画面の隅々まで食い入るように見ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、コンサートのラストはジミ・ヘンドリックスの

「星条旗よ永遠なれ」が流れ、花火が上がります。

レコード「スティルライフ」にもそこまで入ってます。

家庭用ビデオをまだ持ってなかったころ、

このレコードを聴くことによって、

自分の部屋で動いているストーンズを

思い浮かべることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タイトルは「Still Life(静物画)」ですが、

それは、まさに「Motion Picture」を切り取った

「静物画」ということなのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1980年にポール・マッカートニーが

大麻で逮捕され、日本公演がキャンセルされたこともあり

ストーンズのコンサートなど夢のまた夢、

と思っていましたが、

1990年、まさかの来日公演が実現し、

結婚前の妻とともに、東京ドームで、

あこがれの生ストーンズを見ることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、このアルバムを影響を受けたレコードにあげるのは

映画「レッツ・スぺンド・ザ・ナイト・トゥギャザー」ありきです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2020年のいま、コロナ禍の中、

またストーンズは新作を発表しました。

 止ることなく転がり続ける彼らに出会い、

大ファンになったワタシは大変幸せです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.16

影響を受けたレコード⑧「フラワーズ・オブ・ロマンス/パブリック・イメージ・リミテッド」

影響を受けたレコードシリーズもいよいよ終盤。

今日は8枚目。

1981年3月発売

「フラワーズ・オブ・ロマンス/パブリック・イメージ・リミテッド」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「パブリック・イメージ・リミテッド」は、ご存知のように

「セックス・ピストルズ」を脱退したジョニー・ロットンが、

本名のジョン・ライドンとして結成したバンドです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もともと、のちに

「グレート・ロックンロール・スウィンドル」といわれる、

仕掛け人、興行師のマルコム・マクラーレンによって

「ビジネス」としてスタートした「セックス・ピストルズ」は

デビューアルバムを発表した時点で、すでに半ば崩壊していました。

 

(The Great Rock’n Roll Swindleは

マルコム・マクラーレンが企画した

セックス・ピストルズの映画及びそのサントラ盤。

セックス・ピストルズの2枚目の、そして最後のアルバム。

Swindleとは、「詐欺」の意。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曲の大半を手掛けるベースのグレン・マトロックは

すでにバンドを離れ、

代わりに加入したシド・ヴィシャスは、

もともとピストルズのファンでライドンの友人でもあったが、

完全なジャンキーであり、

プロのミュージシャンとしてやっていく

才能も体力もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジョン・ライドンがアメリカツアーのあと

ピストルズを脱退したわずか3か月後の1978年4月結成された

「パブリック・イメージ・リミッテド」は

その年の暮れ、デビューアルバム「パブリック・イメージ」を発表する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1978年といえばパンクが市民権を得て

大ブームを起こし始めた年であるが、

パンクロック界の大スターが放ったレコードは、

全てのパンクファンの期待を拒絶する内容でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディストーションのかからない、切り裂くようなギターと

対をなすような重く低く、うねるような音圧のあるベース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジョン・ライドンのボーカルは、

高い、金切り声で、

ピストルズ時代とは別人かと思うような歌唱で、

曲もシンプルなロックンロール的な曲は一つもなく、

のちにオルタナティブといわれるような、

とっつきにくいノイズミュージック的なテイストに満ちている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、「セックス・ピストルズ」に嫌気がさした

ジョン・ライドンは、このアルバムで、

ロック・スター、パンク・ヒーローは、

あくまで大衆の偶像(パブリック・イメージ)に過ぎない、

と、自ら「セックス・ピストルズ」を否定することによって、

新たなバンドの方向性を示したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある意味、自分の支持者に対し

ケツをまくって見せたわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、まだ、完全なパンク小僧でなかったワタシなどは

完全においていかれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その約1年後の1979年11月、

セカンドアルバム「メタル・ボックス」発売。

これは、12インチの45回転ディスク3枚が、

文字通り丸い金属の缶に入った形で発売されました。

ラジオの新譜紹介で何曲か聴きましたが、

そのときは、またまたヘンテコな曲だなあ、

と思った程度でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 33 1/3回転の通常のLPより良い音質で聴いてもらうため、

45回転にしたと、当時ジョン・ライドンは語っていました。

その後、通常の33 1/3回転の2枚組紙ジャケットになった

「セカンド・エディション」がのちに発売されますが、

ワタシが買って聴いたのはそちらからです。

1980年のことだったはずです。

値段も下がり買いやすくなったこともあります。

(のちに高い金払って中古レコード屋で

缶入りメタルボックスを入手しました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「メタルボックス/セカンド・エディション」は

PiLの最高傑作ともいわれる作品です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 作風としてはファーストの延長にあるのですが、

さらに前衛度を高め、前作で1,2曲残っていた

パンクロックの残り香のあるような曲は完全に姿を消しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジャー・ウーブルの地を這うような重低音のベースに

キースレヴィンのギターと、

ジョン・ライドンのボーカルが絡んでゆく展開です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はじめは、とっつきにくいのですが、

これが、非常に中毒性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 繰り返し聞くうちに、すっかりハマりました。

1980年は、ワタシのロック革命の年。

1980年から81年にかけて、

バンドでも、いわゆるパンクではなく、

トーキング・ヘッズなどのアフリカンビートを取り入れた曲を

作曲し、演奏するようになっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、1981年4月に発売されたのが

「PiL」のサードアルバム「フラワーズ・オブ・ロマンス」でした。

今回は最初からレコード屋さんで予約して発売日に手に入れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さあ、1年間聴きこんだPiLが、どんな曲を出すか。

大いなる期待をもって、レコードに針を落としました。

(この「針を落とす」という『儀式』が今の子にはわからないだろうなあ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、

最初、レコードから聞こえてきたのは

予想もしなかった音。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初、小さいミリミリミリ・・・という

虫の音みたいな音が鳴っているな、と思うと

いきなり、どーんという太鼓の音。

そして、「ア~~~~ラ~~~~~~」

というコーランを読み上げるような叫び声。

そして、太鼓連打。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前作が45回転だったので、

とっさに回転数でも間違ったかと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、そうでは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パブリック・イメージ株式会社による

ロックの解体事業は、ここまで進んでいたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼らは、アフリカを越えて、中東まで行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジョン・ライドンのコーランを思わせるような

呪術的なボーカルがうねり、

さまざまな打楽器が、民族音楽的な独特の世界観を醸し出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このスタイルは、前作までサウンドの要だった

ベーシスト、ジャー・ウーブルの脱退が大きい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベーシストを失うことによって、

新たなベースを補充するのではなく、

じゃあ、ベース無しでいってみようと考えるところが

当時のジョン・ライドンのスゴさです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イントロの虫の音は、

フロア・タムの上に置いて、ディレイをかけて反響させた

「ミッキーマウスの懐中時計の秒針の音」だったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その他にもテレビから録音した音を

サウンドコラージュ的に使ったり、

テープの逆回転を用いたりの

実験的な手法がとられ、

スタジオ内で様々なアイディアを試したようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、このアルバムと、

相前後して出た「ザ・ポップグループ」の2枚のアルバムは

ワタシにとって衝撃的でした。

今でも、大好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その影響でワタシのバンド「LANDSALE」も

どんどん変態的な音になってゆき、

そのため、どんどん女の子にモテなくなっていったのです。(T_T)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、杉山清貴とか、チューブとか、

せめて高中あたりやってれば

ワタシの大学生活はもっと別の華やかなモノになっていたでしょうが・・・・。

だが、その分、ロックヲタク男子にはモテました。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.15

影響を受けたレコード⑦「ブラック・シー/XTC」

1980年代に入り、それまでロック・シーンを席巻してきた

パンク~ニューウエーブは、あらたな行き先を求めます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その一つがジャマイカのローカルミュージックであるレゲエの

ルーツである「ブルービート」や「スカ」であり、

もう1つが「アフリカン・ビート」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1940年代にジャマイカ、キングストンのゲットーで

サウンドシステムという移動式の音響設備をもちいる

野外ダンスパーティーが流行しました。

そこから1950年代に誕生したのが「スカ」という音楽で、

2泊目4泊目を強調した裏打ちリズムが特徴のダンス音楽。

そこから起こったのがややテンポの遅い「ロックステディ」。

さらにそこからやがて「レゲエ」が生まれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スペシャルズ」や、

日本でもホンダシティのCMでおなじみになった「マッドネス」は、

この「スカ」を演奏するイギリスのバンドですが、

この「スカ」とか、そのミキシング手法である「ダブ」という手法を

ニューウエーブ系のミュージシャンはこぞって導入し始めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先のザ・クラッシュはその先鋒で、

「ハマースミス宮殿の白人」でスカ~レゲエビートを、

「ロンドン・コーリング」に続いて1980年12月に発表された

アルバム「サンディニスタ」ではダブを大幅に取り入れてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時爆発的な人気だった「イエロー・マジック・オーケストラ」の

教授こと坂本龍一氏も1980年9月、ダブを全面的にフィーチャーした

「B2-UNIT」というアルバムをリリースしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、もう一つのアフリカンビートについては、

トーキング・ヘッズが1979年にブライアン・イーノのプロデュースで製作した

「フィア・オブ・ミュージック」にその端緒を見ることができます。

その後、1980年発表の「リメイン・イン・ライト」は

全編がアフリカンビートに覆われ、

彼らの、いや20世紀を代表する名盤になりました。

リーダーのデヴィッド・バーンはさらに

ブライアン・イーノとの共同製作で1981年に

「マイ・ライフ・イン・ブッシュ・オブ・ゴースト」

をリリースしますが、これは「リメイン・イン・ライト」より先に製作され、

権利関係の問題で発売が逆転しましたが、

「リメイン・イン・ライト」の習作といった作品です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、元ジェネシスのピーター・ガブリエルが

1980年のアルバム「Ⅲ」で発表した「ビコ」も、

アフリカン・サウンドを持ち込んで話題になりました。

ピーター・ガブリエルはその後、

アフリカをはじめ世界中の土着の音楽を紹介する「WOMAD」

というイベントを立ち上げ、

ワールド・ミュージックが時代のキイワードになってゆきます。

「フェラ・クティ」「サリフ・ケイタ」などは、

この流れの中から世界に認知されるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、アフリカン・ビートを前面に取り入れたバンドも多数現れました。

「BOW WOW WOW」はセックス・ピストルズを成功させた

マルコム・マクラーレンが仕掛けたバンドで当時15歳のビルマ系の少女

アナベラちゃんをボーカルに据えたバンド。

パンクバンド「ブームタウン・ラッツ」はアルバム「モンド・ボンゴ」

で、アフリカンビートを取り入れたが、

なんといっても驚きは

プログレッシブ・ロックの大御所「キング・クリムゾン」が

アルバム「ディシプリン」でアフリカンビートを大幅に取り入れて

再起動したことです。

とくに新メンバーのギタリスト、エイドリアン・ブリューは

時代の寵児として注目を集めました。

「エレファント・トーク」で聴かれるゾウの鳴き声のような

エレファント・ギターはワタシも真似したもんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんな時代背景で生まれたのが

イギリスのニューウエーブバンド「XTC」の4枚目のアルバム

「ブラック・シー」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

XTCは1978年にデビューアルバム「ホワイト・ミュージック」をリリース。

パンクブーム真っただ中に登場したそのサウンドは、

ねじれたパンクミュージック、という印象がぴったりする。

激しいリズムではあるが、どこかひねくれた、

ユーモアすら感じる独特の演奏で、

それは同じ年に発売した「GO2」でもおおむね踏襲される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、その「GO2」の初回プレスにはボーナス盤として

「GO+」というダブ・ミックスバージョンが付属していました。

これは、手に入らず、あとから聴いたのですが、

これがスゴイ。

坂本龍一氏の2年も前にこんな先進的な音を作っていたのかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして3rdアルバム「ドラムス&ワイヤーズ」を1979年にリリース。

そして、今度はリーダーのアンディ・パートリッジが

Mr.パートリッジ名義で、

そのダブミックスフルアルバム「テイク・アウエイ」

を1980年に発表します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが、さらにすごかった。

実はこのあとこのアンディ・パートリッジ本人が、乞われて

例の坂本龍一の「B2-UNIT」の作成にかかわったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、今夜取り上げる「ブラック・シー」の話になります。

(ここまで、長かった。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな経緯があったので、

ワタシはこのアルバム発売を心待ちにしており、

レコード屋さんに予約を入れて、発売当日に買いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが、(@_@)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1曲目の「リスペクタブル・ストリート」の

ギターのイントロからやられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザクザクいうギター。

そしてバスッバスッとぶった切れるようなドラム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、ゲートリバーブ、あるいはゲートエコー

と呼ばれるレコーディング法で、

この「ブラック・シー」をレコーディングしたプロデューサーの

スティーブ・リリィホワイトが、

先に述べたピーター・ガブリエルの「Ⅲ」で導入し、

おおいにインパクトを与えたサウンドでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

簡単にいうと、音源の残響音を

ノイズゲートというエフェクターでぶった切ること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノイズゲートとはもともと、

エレキギターなどが音を出してないとき

ジーというノイズが発生する場合があるので、

一定以下の音量の音をカットして、

静かな演奏でノイズが聞こえちゃうのを防ぐためのエフェクターでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを、深くかけると、

ゆるやかに減衰していく音があるところで

急にカットされ無音になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうすると、ズバーン、ズバーンという音が

ズバッ、ズバッという音になり、ビートが強調されるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この手法はその後たいへん流行り、

日本の歌謡界でも見境なく導入され

吉川晃司も、シブがき隊も、

みんなズッ、バン、ズッ、バンやっておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、このアルバムはゲートリバーブを全体に用いて

ビート感を強調しながら、ところどころに

ダブ風のアレンジを加えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かといって、もろアフリカ風の曲でもなく、

ダブアルバムでもなく、

中心はメロディのしっかりした良質な英国風ポップ・ミュージック。

当時はまだ、ブリット・ポップという言葉がありませんでしたが、

ザ・ビートルズ直系のまさにあのサウンドです。

ただしそこにXTC風の「ヒネリ」が加えられて、

また、それが心地よい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全編に当時の流行の最先端のアレンジが施され、

さながら1980年代の「サージャント・ペパーズ」を

聴いているような感じでした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一番好きだったのは3曲目の

「リビング・スルー・アナザー・キューバ」。

ちょっとひねくれたギターのリフと、

歯切れのいいビート、

中盤のダブ風のアレンジが楽曲にスリリングさを加えています。

まさに、ヤラレタ―、という感じでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時はLPなので、A面が終わると、

レコードをひっくり返してB面をかけます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すると流れてくる、軽快な「タワーズ・オブ・ロンドン」。

この流れも好きでした。

やはりA面、B面で楽しむ、というのがレコード時代にはありましたね。

ホワイトサイドとブラックサイドに分けた「クイーンⅡ」とか。

「明日無き暴走」もB面の1曲目がタイトル曲なので、

CDだと、この辺の感覚が味わえません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、次々に演奏されるヒット・チャートメドレーのような

ポップ・チューンの最後、アルバムは突然、

「トラベルズ・イン・ニヒロン」という、

にわかに陰鬱な曲で、幕を下ろします。

どことなく、チャイコフスキーの

交響曲第6番「悲愴」を思わせる幕切れです。

もっとも、当時はクラシック音楽には

まったく興味も知識もなかったのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 LPレコード、アルバムは曲を集めただけのモノではなく、

全体を一つの作品と考えることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、「リスペクタブル・ストリート」から始まって、

「トラベルズ・イン・ニヒロン」で終わるこのアルバムは、

まさに全体で一つの作品となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 LPレコード時代のアルバムが、

CD化されて発売されるとき、

CDの方が収録時間が長いので、ボーナストラックとか

未発表テイクなどを追加収録したものが多いのですが、

アルバム本来のコンセプトをスポイルしている場合が

少なからずあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なので、このアルバムもCD化された時に3曲ほど追加されていますが、

はっきり言って、余分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、このアルバムを発売日に聴くことができたのは、

大作曲家の初演を聴いたと同じように、

人生において、大きな幸運だったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020.05.14

影響を受けたレコード⑥「クラッシュ・シングルズ’77~’79」「ロンドン・コーリング」

高校卒業後、大学受験に失敗し、

1年間の浪人生活を経たのち、

1979年4月、なんとか大学生になることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浪人時代から、

大学生になったら絶対バンドやるぞ、と思い続け、

それを心の糧に勉強に打ち込んでいました。

なので、入学後、早速医学部軽音楽部の門をたたきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなわけで入部しましたが、

新入部員はワタシともう一人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他の体育会系の部活や、

美術部や落語研究会といった文化部の活動とも違い、

軽音楽部はあくまでバンド単位での活動。

新たにバンドを組むメンツはいなかったので

とりあえず、先輩のバンドに入れてもらうことになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシはギター/ボーカル希望でしたが、

もう一人の彼はボーカル専属だったので、

そいつは先輩のバンドのボーカルに、

ワタシは、また別のバンドのギターとして参加することになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハードロックをやりたい、と思っていたワタシですが、

なんせ、当時軽音にはバンドは4つしかなく、

一つはジャズ、一つはフォーク~ニューミュージックだったので、

残りの2つ、いずれもアメリカンロックのバンドしかなかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、1年間、そのバンドで

イーグルス、ドゥービー・ブラザースなどの

ギターを担当し、

先輩に言われるがままにしぶしぶ弾いていました。

もう一つのバンドはザ・バンドやCCRを演奏していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実はハードロックのバンドをやるつもりではあったのですが、

浪人の1年間、勉強の合間に

ロックの新譜をラジオで欠かさずチェックしているうちに

ワタシの音楽の嗜好が少しずつ変化してきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浪人の1年間、1978年のアルバムとしてインパクトがあったのは

「ディス・イヤーズ・モデル/エルビス・コステロ」1978年3月

「Q:We’re not Men?A:We’re DEVO(退廃的美学論)/DEVO」1978年7月

「システム・オブ・ロマンス/ウルトラヴォックス」1978年9月

「アウトランドス・ダムール/ポリス」1978年11月

など、いわゆるニューウェーブといわれるジャンルでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いっぽう同じ年のレインボーの「バビロンの城門」は

ハードロックのアルバムとしては大変クオリティ高かったのですが、

大仰で、古臭くて、とてもこりゃ、ダメだな、

と感じていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、大学生になった1979年8月に発売された

レッド・ツェッペリンの「イン・スルー・ジ・アウトドア」を聴いて、

ああ、もう、こういう古いスタイルのロックは終わったのだ、

と確信したのです。

同年、イーグルスも「ザ・ロング・ラン」で終焉を迎えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いっぽう、その1979年には

「フィア・オブ・ミュージック/トーキング・ヘッズ」8月

「ドラムス・アンド・ワイヤーズ/XTC」8月

「白いレガッタ/ザ・ポリス」10月

「パール・ハーバー79/ザ・クラッシュ」

(クラッシュのファーストに未収録シングルを加えたアメリカ盤の日本盤。)

「動乱(獣を野に放て)/ザ・クラッシュ」11月

「セッティング・サンズ/ザ・ジャム」11月

などなど、パンク~ニューウエーブの名盤が目白押し。

そして、名盤中の名盤

「ロンドン・コーリング/ザ・クラッシュ」が

1979年12月(アメリカ、日本では1980年1月)に発売されるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

完全に時代の流れ、ロックの流れが変わったと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

巷にあふれるどんな音楽、ファッション、広告を見ても

これは、アリ、これは、それ以前、

このヒトには見えている、

こいつはまだ、気づいていない、ということが

実にクリヤーに見えてきてしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロックギターでも、速弾きや、チョーキングは恥ずかしい。

そもそも、ギターソロなんかいらない、

というようにワタシの中でロックの価値観のコペルニクス的転回、

地球のN極とS極が入れ替わるような

未曽有の大変革が始まっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その「ロンドン・コーリング」と相前後して発売されたのが

「クラッシュ・シングルズ’77~’79」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ、CDのない時代、

ザ・クラッシュのデビューからの8インチシングル盤8枚を

すべてセットにしたのがこのレコードです。

日本独自の企画で発売は1979~80年らしいですが、

詳しいデータはちょっとわかりませんでしたが、

おそらく1980年初頭だと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 というのは、このレコードを

ワタシが友人に借り受けて聞いたからで

その友人とは中学高校の同級生の勅使河原くんでした。

現役で茨城大に進学したテシくんは、春休み帰省時に

ワタシが、やっと大学に合格したので、

我が家にこのレコードを持ってきて、

これをツマミに飲もう、ということだったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが「腑に落ちた」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シングル盤を時系列的に聴いていくと、

バンドのスタートの爆発から、

前進、逡巡、打開、展開、発展、の過程がよくわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハードロック/ヘビーメタルという音楽が1975年以降、

「様式美」を追求し、それを突き詰めていくことによって、

磨かれ、洗練され、緻密で完成度の高い次元に収束させることに成功しました。

しかし、そのことによって、

逆に均一化して、初期衝動を失い、自ら閉塞感に陥いっていったのです。

それに対し、生まれたての赤ん坊のように幼稚だったパンクロックが、

成長の過程で、いろいろな方向に手を広げながら、

さまざまなものを吸収し、

初速度を失うことなく、質量を増すことによって

運動エネルギーを増大させていった過程が理解できたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドンパンクの象徴でもあった「セックス・ピストルズ」が

大物プロデューサー、クリス・トーマスや

仕掛け人のマネージャー、マルコム・マクラーレンなどによって、

「仕立て上げられた」パンクロックのスターだったのに対し、

ザ・クラッシュは、

その「セックス・ピストルズ」のステージを見たナイーブな若者が

それに触発されて湧き上がった内面からのエネルギーを

「バンド」というかたちで表現したものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのために自分たちの勢いを保つために

レゲエ、ダブ、スカ、といった新規な音楽、

あるいは、ロックンロールやオールディーズといった過去の遺産、

などを、どん欲に取り込んで、それをエネルギーに変えていったのです。

演奏技術も向上し、レコーディングのアイディアも豊富になって、

表現力は格段に増しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、1950年代に生まれたロックミュージックが、

ブルースやカントリーをベースにしつつも、

ジャズ、ラテン、クラシック、はては民族音楽など、

あらゆるジャンルの音楽を「貪食」しながら、

自らの栄養にして肥大、発展していった過程を、

そのまま、なぞっているかのようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シングル盤の積み重ねの上に

「ロンドン・コーリング」という歴史的名作が誕生したのです。

 

 

ちなみにこのジャケットデザインは

ロックンロールの歴史的大スター

エルビスプレスリーのデビュー盤へのオマージュとなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ということで1980年の新学期、

大学2年生になったワタシは、

ようやく自らのバンドを結成することができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、従来目指したハードロックのバンドではなく、

演奏するのはコピー、オリジナルとりまぜ、

すべて演奏時間2、3分の

パンク~ニューウエーブの曲ばかり。

そして、6月のそのバンドのデビューライブの1曲目は

このザ・クラッシュの「クラッシュ・シティ・ロッカーズ」

だったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、昨日5月13日はワタシ61歳の誕生日。

ついに還暦を過ぎて2周目に入りました。

そして、今日5月14日は

ザ・クラッシュ・シングルズを聞かせてくれたテシ君の、

やはり61歳の誕生日です。

昨年は佐野ハートロックフェスに来てくれましたが、

また、ロック談議してみたいところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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