ニキ・ラウダの時代
5月20日の月曜日に飛び込んできた訃報が、
ニキ・ラウダ氏の逝去のニュースだった。
1975年、1977年、1984年のF1ワールドチャンピオンであり、
言わずと知れたレース界の「巨人」である。
オーストリア、ウィーンの出身でデビューは1971年、マーチから。
その後、BRMを経て、1974年にフェラーリに移籍。
そして1975年、名車「フェラーリ312T」を駆って、
初のワールドチャンピオンに輝くのである。
この「312T」は3リッターの12気筒、
Tはトランスバース・トランスミッション、すなわち横置きギヤボックスのTである。
ラウダはこのマシンでフェラーリに1964年以来、11年ぶりの
コンストラクタータイトルをもたらしている。
写真は、タミヤの1/12。
作ったのはもう5,6年前だったかなあ。
そして、ニキ・ラウダにとって運命の1976年。
そこまで、このフェラーリ312T2 でポイントリーダーとして快進撃を続けたラウダは、
8月1日のドイツグランプリ本戦でクラッシュ、クルマは大火災に包まれる。
ドライバー、コースマーシャルの捨て身の救助でラウダは九死に一生を得るが、
衝突の際ヘルメットが脱げてしまい、顔の大きなやけどを負い、
有毒ガスを吸い込んだ影響で肺に深刻なダメージを受けた。
全身の70%の血液を入れ替え、一時は生命も危ぶまれたが、
その後驚異的なペースで回復。
事故からわずか6週間後のイタリア・グランプリで奇跡の復活を成し遂げるのである。
そして、タイトルの行方は最終戦。
舞台はこの時はまだ、イレギュラーだった日本開催のF1世界選手権イン・ジャパン。
富士スピードウェイの決勝は大雨で、ラウダは危険すぎると判断し、
わずか2周で自らクルマを止め、リタイア。
チャンピオンは1ポイント差でマクラーレンのジェームズ・ハントにわたった。
この312T2は、
一昨年作った今は無きイタリア「プロター社」製の1/12モデルであるが、
作りにくさでは定評がある。
コチラは、ハセガワ製の1/20の312T2。
レインタイヤでその富士スピードウェイの仕様になっている。
そして、翌1977年、ラウダはシーズン3勝などで72ポイントを上げ
またこの「フェラーリ312T2」で2度目の王座に返り咲いたのだ。
その後、フェラーリを離れブラバムで2シーズンを戦いました。
これは1/20のブラバムBT46。
タミヤ製、限定クリアカウル版。
カウルはクリア塗料で塗ったので、透けて見えます。
ドライバーフィギュア付き。
ラウダ先生、運転してます。(^^)v
オーストリアカラーのヘルメットにはニキ・ラウダの文字が。
ブラバム時代にはアルファロメオエンジンの不調もあり勝利は無く
1979年、いったんは現役を引退。
しかし、1982年にマクラーレンから現役復帰し、
1984年にマクラーレンMP4/2で、最後のワールドチャンピオンを獲得。
このモデルはアオシマの1/20「マクラーレンMP4/2」
マルボロカラーはカッコええなあ。
タバコは、ダメよ。
その翌年、1985年にマクラーレンのチームメイトのアラン・プロストの
初のワールド・チャンピオン獲得を見届けて
ニキ・ラウダ氏はドライバーズ・シートを降りた。
写真はマクラーレンMP4/2C。アラン・プロストのチャンピオン・マシンである。
これもプロター1/12。
作りにくいがフェラーリのキットよりはまだマシだった。
現役引退後はラウダ航空など、航空会社の経営に携わる。
フェラーリのアドバイザーを経て、
先日までメルセデスF1チームの役員を務めていた。
70歳という年齢での死因は肺の病気といわれ、肺移植も受けていた。
あのドイツGPでの肺損傷が後年まで後遺障害を残したのであろうか。
偉大なドライバーの冥福を祈りつつ、
今週末は伝統のモナコGPが開催される。


コメント/トラックバック トラックバック用URL: