ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2019.03.11

わたらせTV

Rock&Pops 2019を録画しようと「わたらせTV」の番組表を調べていたら、

ある番組のタイトルに「!」反応。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、もしやと思い、録画してみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大澤伸啓くんは、ワタシの高校時代の同級生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足利学校の事務所長か、偉くなったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

講演内容もなかなか興味深いものでした。

地元の歴史なのに知らなかったこと満載で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしか、高校時代は放送部の部長で、

彼からロックバンドやっていた我々に、

ロックのDJ番組やってくれ、との依頼があり、

お昼の校内放送でパープルやツェッペリンをかけまくった。

一度、間違って、職員室にも大音量で流してしまい、教師に怒られたけど。(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで、3月のわたらせTVでは、

奇しくも足利高校昭和53年卒の2人の登場する番組が放送されています。(^O^)/

立派になった大澤くんに対しオレはいまだに進歩が無いのか。

いや、ギターもちょっとは上手くなったし、

なにより今はギブソンだし。

ここは、進歩か?(^^;)

 

 

 

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2019.02.21

チキンラーメンのない時代

 NHK朝の連ドラ「まんぷく」は、ご存知の通り

「チキンラーメン」を開発、インスタントラーメンの礎を築いた

安藤百福氏の成功物語をなぞったドラマです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インスタントラーメン・マニアのワタシとしては、

毎朝楽しみに見てたわけですが、

ここにきてようやく「チキンラーメン」が、

番組では「まんぷくラーメン」として、完成しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら、この朝ドラの影響で、全国的にチキンラーメンが売れてるようで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そりゃそうだ。

やっぱり食べたくなりますね、食べるのにそうハードルの高い食べ物でもないし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくいうワタシも、先日、スーパーで購入、食べました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、昭和33年発売のこのチキンラーメン、

ワタシが子供のころ関東地方ではあまり売ってなかった、という記憶がある。

ちなみにワタシは昭和34年生まれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日清食品のホームページを見ても、その辺まったく記載がないのだが、

1980年代になるまであまりスーパーで見かけた記憶が無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供のころはラーメンとはいえ、母親が作るわけで、

お湯かけてできる具のないラーメンなんか、子供に食べさせるわけにはいかない、

と思ったのかもしれないが、

ともかくチキンラーメンが食卓に上ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サッポロ一番、出前一丁、チャルメラは袋めんの御三家であり、

これらは食事としてしばしば提供され、

ワタシは「ゴマラー油」の出前一丁が好きだったので、

母に「ラーメンは出前一丁で」とリクエストしたことも覚えている。

だが、皆、鍋で煮るラーメンでお湯かけてできるラーメンはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オバQこと「おばけのQ太郎」は1965年、昭和40年からの放映で

当時ワタシは幼稚園の年長、大好きでよく見ていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これに登場する有名なサブキャラが、言わずと知れた「小池さん」。

独身男性で、年がら年中インスタントラーメンを食べている設定だったのだが、

彼が食べていたのはお湯をかけて食べるラーメンだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、子供心には不思議で仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのうち、いろいろな話を聴いて自分なりに

「かつてはお湯をかけて食べるラーメンがあったが、

いまは鍋で煮るラーメンにとってかわられた」

という結論に達し、それをずっと信じていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1970年の万博の前にチキンラーメンの発売元でもある日清食品は

「出前一丁食べて、万国博に行こう。」

という大々的なキャンペーンを打っていた。

「チキンラーメン」ではなく「出前一丁」の販売に力を入れていたわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、1971年発売の日清食品の「カップヌードル」の登場によって、

「お湯をかけて食べるラーメン」は「カップヌードル」ということになっていく。

当然、日清食品もこの画期的な新商品を売りまくるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袋めんを作っていた各社もこぞって「カップ麺」の開発、販売に力を注ぎ、

カップラーメン黄金時代が到来した。

ちょうどワタシが一人暮らしを始めた浪人~大学時代である。

ありとあらゆるカップラーメン、カップ焼きそばを食べた気がする。(^^;)

だが、チキンラーメンは、無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにカップめんで好きだったのは

ワンタンの入ってるマルちゃんの「激めん」と

チャーシューの入っているエースコックの「大吉ラーメン」でした。

調べたらどちらも1978年の発売。

おお、まさにワタシが大学に落ちた年、浪人してた年でした(笑)。

下宿の電気ポットで作って夜食に食べた思い出が・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、そんなカップラーメン黄金時代であったが、

ある時、例の「すぐおいしい、すごくおいしい」のCMソングにのって

チキンラーメンが、またまた市場に出回ってきたのである。

調べるとこのCMは1984年らしいから、ワタシの記憶に合致する。

1984年といえばワタシが大学6年生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなわけで、たぶん、1969年ころから1984年ころまでの15年ほどの間、

関東地方ではチキンラーメンがあまり売っていなかったはずなんですけど、

誰か、証明してくれる人、いませんか?

 

 

 

 

 

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2019.02.03

同級生がテレビに登場

 大学を卒業して、早や39年。

同級生だった、田村くんのニュースが、同窓会ネットワークから入りました。

NHK首都圏ネットワークに出たそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんでも「飛脚走り」という、疲れない走法を編み出して、実践。

沖縄の100㎞マラソンを完走したそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 田村くん、群馬県安中市出身で、たしかオレより2個上。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やさしい、物静かな男であったが、こんなことしてるのね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんにしても、同級生の活躍はウレシイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それにしても100㎞はスゴイな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ステキな同級生をもって、光栄です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コチラで、番組が見られます

中に、お医者さんやってる田村くんが出てますが、

ワタシは医学生時代の彼しか知らないわけで、

おお、ちゃんと立派なお医者さんになってるなあ、

と、そこはちょっと不思議な感覚でした。

 

 

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2019.01.28

She was like a Bearded Rainbow

 ヒゲといえば、高校の時、英語の授業で

「日本語では全部ヒゲだが、

英語では、あごヒゲと口ヒゲと頬ヒゲは別なので3種類ある。」

と、教わったとき、

あー、メンドクセエ、覚える英単語が3倍になった、

と嘆いたものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あごヒゲは「beard」、口ヒゲは「mustache」、頬ヒゲは「whiskers」だという。

頬ヒゲは両側にあるから複数形になるそうで、

じゃあ、このダリ氏の場合は「mustaches」と複数形にしないと減点か、

などと受験生は考え込んでしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おまけに、モミアゲは「sideburns」だという。これも複数形。

モミアゲは、ヒゲなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じゃあ、こういうのはなんていうの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モミアゲの「sideburns」は顔の両サイドが燃えてるように見えるから、

サイド・バーンなのかと思っていたら

なんと、この「バーンサイド少将」の名前に由来することを今回初めて知った。

なるほどインパクトのあるヒゲだが、これ、モミアゲ、ではないよなあ。

 

 しかも「バーンサイド」がいつの間にか「サイドバーン」になってるし。

「ギロッポン」や「ジャーマネ」「シース―」みたいなものか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、高校生のころ、この「beard」と「mustache」の暗記に役立ったのはこの曲。

ワタシの英単語ボキャブラリーはロックで覚えたものが多いのだ。

歌詞・訳詞はコチラ参照

https://youtu.be/Bgn1mPdZehE

 

 

 

 

 

 

 

 「bearded=ヒゲの生えた」であれば、コチラにも出てきます。

「I was raised by toothless bearded hag」

って、「オレは歯のねえヒゲ面のババアに育てられた。」ってこと。(^^;)

 

 

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2019.01.24

19の春

 共通一次試験の記事を書くにあたって、

ネットで「共通一次」を検索すると、いろいろ出てきて、

何となくナツカシイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時共通一次試験は5教科7科目。

英語200点、数学200点、国語200点、理科2科目で100点ずつ、社会2科目で100点ずつ

の、合計1000点満点であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 理系、文系を問わず、この全科目受験が必須であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医学部は旧一期校、二期校の時代から「物理」「化学」選択の学校が多かったので、

理科2科目については、なんの迷いもなく選択科目決定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 問題は「社会科2科目」。

「日本史」「世界史」「倫社」「政経」「地理」から2科目選ぶのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシは子供のころから歴史好きで、テストの成績もよく、

倫理社会、政治経済にはムカシっから全く興味ないので、

4月に予備校に入学した時点で、

「なんとなく」日本史、世界史を選択した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、大変な間違いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高校時代は日本史、世界史は得意科目で、

定期テストでは常にクラスのトップを争う点数をとっていたが、

歴史は「暗記科目」であり、時間が経てば忘れてしまう・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たとえば、「数学Ⅰ」で習った、二次関数や、解の公式は、

「数ⅡB」「数Ⅲ」でも使うので、忘れることはない。

高1で習った英単語や英文法はその後も繰り返し使うので、

忘れるはずはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、アメンホテップやラムセス2世、方形周溝墓や三世一身の法は、

試験が終われば、次の暗記のためにきれいさっぱり忘れてしまって、

何にも残ってないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかも当然、受験勉強の主体は1に数学、2に英語、3,4がなくて物理・化学、

といった比重で、日本史、世界史を勉強する時間なんてありはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、ワタシの共通一次に重くのしかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時1000点満点であったが、結果合計が何点だったかは記憶にない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とりあえず、数学は満点でした。

他の科目もおそらく8割以上は取ったはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、今でもはっきり覚えているのが、

日本史は72点、世界史はなんとまさかの68点・・・・(T_T)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、結果的に受かったからよかったようなものの、

あの時の社会科ショックは一生忘れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おまけに、その後の発表で、「倫理社会」と「政治経済」の平均点が

他の社会科科目より高かったので、

翌年からこの2科目の同時選択ができなくなったという。

当時は「平均点補正」なんてことはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2次試験の出願前につくづく思いました。

あー、倫社、政経とっときゃ良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人生において名を捨てて実を取る、ということも必要なんだなあ、

と学んだ19歳の春でした。

 

 

 

 

 

 

 

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2019.01.20

センター試験と共通一次と

昨日、今日は大学入試センター試験。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年で30回目で、今回で最後のセンター試験、

来年からまた新制度になるらしいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この大学入試センター試験の前身が、

共通一次試験昭和54年から11回行われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワタシこの共通一次試験の第1回目を受験しています。(^^;)

そして、その前の国立一期校、二期校入試も経験しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一期校に落ち、二期校に落ち、

一浪して共通一次試験で引っかかったというわけで・・・f^_^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから40年かー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、もう一個、受けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

共通一次施行の1年前、すなわちワタシが高3の時、

共通一次試験の試験があった。

ややこしいが、要するに共通一次試験という、今までにない全国規模の

しかも、はじめてマークシートによる回答という様式をとる試験の開始にあたって、

文部省がその「テスト」を行ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たしか時期は年明けではなく、年末の11月末か12月中旬くらいだったような。

希望者が受け、その結果は本人には伝えられない、

といったものだったと思います。

試験も2日間あったか1日だったかも覚えていません。

夜道を帰った記憶があるから1日だったのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浪人中の共通1次本試験は、東京在住だったので都立大で受けましたが、

そのときの会場は宇都宮大学でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何の得にもならないそんなテストを、ただでさえ受験直前の忙しい時期に

わざわざ宇都宮まで電車でいって受けるなんて、オレも物好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもその時覚えていることが一つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

栃木県じゅうから高校3年生が集まって試験を受けるのですが、

その時、近くの席だったのが「馬頭高校」の男の子と、「宇都宮女子高」の女の子でした。

本試験の時もそうだったと思いますが、

不正行為を防ぐため多分県北の馬頭高校、県央の宇都宮女子高、

そして県南の足利高校の生徒を同じ長机に配したものと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1日中一緒にいて、多分昼食もそこで持参した弁当を食べたと思うので、

見知らぬ間柄ですが何となくお互いに話をするようになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そこで、ワタシが宇都宮女子高の女の子と仲良くなって、

試験受けて良かった、という話では残念ながらありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

馬頭高校の彼はフレンドリーな感じのいい奴で、

色々話しかけてくるのだが、

県北ゆえ、栃木弁のなまりが強くて、

ワタシには、何言ってるかさっぱりわからない。

そこを県央の宇都宮の彼女に通訳してもらったというお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシの住む足利は文化圏的には群馬県東部になるので、

語尾の上がるいわゆる「栃木弁」ではありません。

オトナリの佐野市からもう語尾が上がりだすのですが、

その傾向は県北、県東部に行くほど強く

そのまま「東北弁」「茨城弁」に移行していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それにしても、お年寄りでは無くて

同年代の高校生が話す言葉がこんなにわからないとは、

と、ビックリしたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、宇都宮女子高の彼女はバイリンガルか、と。(^_^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん、顔も名前も全く覚えてないけど、

あの2人は現役で大学に受かって共通一次は受けなかったのかあ。

 

 

 

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2018.10.31

勉強はしておいたほうがいい

 昨日の漢詩調べてみました。

 

 

 静夜思

     (李 白)

  牀前看月光

  疑是地上霜

  挙頭望山月

  低頭思故郷

 

 

 

 

 

 そうか「静夜思」であったか。

ショウは「牀」、そう、こんな字であった。

「看る」とか「挙げて」「低れて」は漢字がまちごうとりました。

インターネットは便利です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、昨日の話に関連したことですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっと前、テレビで教育学者(?)かなんかが

「自分は何のために勉強するのか。」

というのは、どんな子供でも一度はぶつかる問題だ、

と話していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たまたま、妻も一緒にテレビ見てたんですが、

いや、子供のころからそんなこと考えたことは一回もないぞ、

ということで二人の意見は一致しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この科目はキライだとか、今日は勉強したくない、と思ったことは数あれど、

勉強するのはキヨスクは駅の中くらい当然のことで、

そこに疑問を持ったことはないなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勉強するのは人間の本質であり、本能であるような気がします。

しいて言えば、シアワセになるために必要なもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、高校の数学なんて大人になってから役に立つことはない、

なんていう人もいるけど、それも違うと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの数学の問題を解く上で踏まねばならない、

場合分け、とかシチメンドクサイ条件の確認は

少なくとも医者として患者さんの病気を考えるうえで、

毎日のように役だっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Aが成り立つためにはBが成り立つことが必要条件で、

その場合、以下の3パターンのいずれかになる、

などという思考過程は常に病気の診断をつけるうえで、

繰り返し頭の中でおこなわれ、

XやAが数字や文字から、症状や所見、病歴等々に代わっただけで、

解決の筋道は同じ「路線」を通っているような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たとえば、分母が0であってはならないから、

X≠0の場合とX=0 の場合を分ける、

Xがゼロなんてことはほとんどないけど、

診断の中に見落としは許されないから、

常に想定されるすべての条件を頭の中に並べられるようにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、病気の診断にとどまらず、

人生のあらゆる問題を解決したり、社会に出て失敗しないための

モノの考え方を学ぶ訓練だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いじわるな数学の問題は、

そういった世の中に存在する「落とし穴」を

発見し、避けることができるようにする「訓練」だったなあ、

と、今にして思うわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いわゆる「ひっかけ問題」にひっかかるととてつもなくクヤシイが、

それが、経験となって、次に行かされていくのだ。

二度とこんなヒキョウな手に騙されるもんか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワタシの大好きな「スコットランドの羊のジョーク」をみなさんご存知でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天文学者と物理学者と数学者がスコットランドで休暇を過ごしていた。

列車の窓から眺めていると、平原の真ん中に黒い羊がいるのが見えた。

天文学者:おや、スコットランドの羊は真っ黒なんだね。

物理学者:違う違う。スコットランドには黒い羊もいるということだろう。

数学者:やれやれ、諸君、そうではない。

スコットランドには、少なくとも1つの平原が存在し、

そこに1匹の羊が居て、その羊の少なくとも片面は黒いということだけさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホントに、このジョーク、サイコーです。

 

 

 

 

 

 

 それでは、最後にこの曲をお聴きください。

作詞はもちろん森高千里さんです。

 

 

 

 

 

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2018.10.30

少年老い易く学成り難し

大人になってからもっと勉強しておけばよかった、と思うことは多い。

 

 

 

 

 

 

 

特に文系科目。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校では、様々な教科を勉強するのだが、

最終的に大学受験があり、そのために必要な科目を最優先に勉強することになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学までは、どの教科ももれなく学び満点を目指すのだが、

高校になると「捨てる」という選択肢が出てくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 通常科目の定期試験はそうはいかないが、

入試となると、話は別。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも高3の時に私立文系コースを選んだ人は

数学は受験科目にないので「数3」やらないし、

数学そのものは要らないので捨てちゃうわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらに「捨てる」は受験科目内でも存在し、

物理でも「量子力学は捨てる」とか、

日本史で「太平洋戦争後は捨てる」とかいう「捨て方」も存在する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国立をうけるとなると全面的には捨てられないが、

科目的に「古文・漢文」や「社会科」に勉強時間を割くわけにはなかなかいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「世界史」なんかは好きだったので、

授業でやってた高1のころはいつも試験はクラスで1番だったのだが、

高3になると全然勉強しないので、

模擬試験で私立文系のヤツの得点には全然およばない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんなヤツにかなわないのか、というのはいささかショックだが、

そこは、数学、英語、物理、化学に精力を集中せねばならないので、

やむを得ないところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、「捨てた」文系科目、

この歳になって、また勉強したいなあ、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この間、秋の夜、月を見上げてふと頭に浮かんだ、

「峨眉山月、半輪の秋」

たしか、李白の五言絶句。

だが、その続きが思い出せないのが、・・・・・・ツライ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漢文なんて、真っ先に「捨てた」科目なので、

記憶の断片が、それこそ机の引き出しの中の消しゴムのかけらみたいに

頭に残っているだけだが、

こういうのがスラスラ出たら、楽しいだろうなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「しょう前、月光を見る、疑ごうらくは、これ、地上の霜かと、

頭を上げて、山月をのぞみ、頭をたれて故郷を思ふ」

は、簡単なのでそらんじられるが、あってるかな?

これも、秋の夜、月を見て物思う詩ですね。

「しょう」は確か「ベッド」のことだと教わったが字がわからん。

そもそも、はて、この漢詩のタイトルは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漢文も古文も、また日本史、世界史はもちろん、

英語も数学も物理も化学もまた勉強してみたいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、むろん全部はできないから

どれを「捨てる」か?

 

 

 

 

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2018.10.17

才能は環境によって

 基本、日本代表の親善試合あたりは

見はするがそれほど「燃えない」ワタシですが、

昨夜のウルグアイ戦は良かったですねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スアレスを欠くとはいえ、

カバーニを中心としたベストに近いウルグアイ代表。

まして、直近で韓国代表に1-2で敗れているので、

「絶対に負けられない戦い」はウルグアイ側にありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方の森保ジャパンは、若手中心でのびのびとプレー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 素晴らしい連携から4点を奪い、

4-3のスコアでFIFAランキング5位の強豪を攻め倒した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見ていて気付いたのは南野にしろ、中島にしろ、堂安にしろ

今回活躍した20歳そこそこの若手選手が、いずれも海外クラブ所属で

ワタシがあまり見たことがない選手であること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまり彼らはJリーグでデビューするかしないかのうちに

早々と海外に移籍して、そこで実力を伸ばしてきたわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以前、海外移籍といえば、

三浦カズにしろ、中田ヒデにしろ、小野伸二にしろ、

Jリーグでトップクラスの活躍をし、

それを踏まえて海外リーグに移籍、いわば「世界に挑戦」したものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが今は、才能のある選手はJリーグで結果を出すのを待たず

早々に日本から飛び出し

どんどんヨーロッパでプレーするようになっている。

そのことが、日本人選手の実力、

技術やメンタルの底上げになっていることは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、受験生時代を思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつての地方の公立の進学校は、地域の秀才が集まった。

みんな地元の公立の中学を出て当然のように県立高校に入ったものだ。

そして我が母校でもその中でトップクラスのやつらは

東大や京大に毎年何人かは入学していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところが、最近は、ちょっと出来のいい子は、

県立高校ではなく私立の高校に行き、

なかには中学から東京周辺の一貫校に通うことも珍しくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うーん、この現象は非常に良く似ている。

そういう時代になってきたわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのため、我が母校を含め

地方公立進学校は地盤沈下にあえいでいるが、

今後のJリーグはどうなのかしら。

まあ、南米リーグはとっくの昔からそういう感じになってますけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018.10.03

本庶佑先生、ノーベル医学生理学賞受賞(^O^)/

 素晴らしいニュースが飛び込んでまいりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都大の本庶佑先生がノーベル医学生理学賞を受賞されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本人として26人目、

医学生理学賞としては

利根川進先生、山中伸弥先生、大村智先生、大熊良典先生に次いで5人目。

医師としては山中先生に続いて2人目となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 素晴らしい快挙であり、

日本人として、医師として大変うれしく誇りに思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、ワタシの大学時代の友人である伊藤くんが

昨日facebookに投稿していた記事を見てビックリ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんと、大学時代、本庶先生から受けた講義のノートの写真を

アップしていました。(;゚Д゚)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、昭和56年すなわち1981年、

ワレワレ群馬大の学生相手に免疫学の特別授業をしていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当時、本庶先生は大阪大学の教授、ワレワレは大学4年生であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それにしても、いまでもノートを保存し、即出てくるところが

さすがクラス委員の伊藤くん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オレも何となく、そういやそんなことがあったなあ、という気はするが

すっかり忘れていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なるほど、このオレも、のちにノーベル賞を受賞する先生の講義を受けていたわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、ワタシはマジメな伊藤くんと違って、授業サボリ多かったので、

絶対出たか、といわれると自信がないが、

有名な先生だから必ず出なさい、といわれて出たような気がする・・・・・、

多分・・・・・。(^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、受賞、おめでとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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