ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2009.08.03

夜明け前が一番暗い

 
 前日の広島対鹿島の広島はすばらしかった。
ヒサトの決定力もさることながら、
次々に連動してパスをつなげる有機的な攻撃。
全員の意思統一がなされていて、判断が早い。
ディフェンスラインから、攻撃の形が始まるサッカー。
 おお、こういうサッカーをレッズは目指してるのか。
と、感心したものだ。
 さてその結果、鹿島は勝ち点の上積みができず、
レッズが勝てば勝ち点差は7に。
最終節で鹿島に勝つから、実質的な勝ち点差は7-3で、たったの4じゃん。
おお、こりゃ行けるかも、と乗り込んだ日曜日の埼玉スタジアムだったが。


 2009年 J1第20節
  浦和レッズ   0-1    清水エスパルス   (埼玉スタジアム2002)
    (前半    0-0)
    (後半    0-1)


 取らぬ狸の皮算用。
 前半のレッズはいい感じだった。
パススピードも速く、ドリブルやポジションチェンジをまじえ、
この3試合のうちでは一番決定機を作ってたのでは。
元気、直輝の若手もよく動いてたが、一番気合が入ってたのが阿部勇樹。
やっぱ、前回のオウン・ゴール、悔しかったんだろうなー。
 しかし、叩いても叩いても、扉が開かない。
一点が、遠い。
 そして、後半にかけて、疲れもありだんだんマッタリしてくる。
 都築から坪井へ、坪井から暢久へ、暢久からまた坪井に、
坪井から阿部に、阿部から平川に、平川からまた阿部に、・・・。
 何度この最終ラインをボールが横移動しただろう。
 広島の攻撃はここから始まっていた。
鹿島がポゼッションしてたということもあるが、最終ラインから前線への
供給線が、はっきりしていた。
 
 それにしても、相変わらずもろいディフェンスライン。
今回は、岡崎を怖れるあまり、そっちに人数が引っ張られてフリーの選手を作ってしまいました。
 まあ、新しいスタイルは依然完成途中で、
怪我人も多く、連戦の疲れもあり、
仕方ない、っていちゃえばそれまでなんだが・・・。
 この際、少しうまく行かなくても、このサッカーの熟成を待ちましょう。
 補強の話もあるようだが、あくまで今のスタイルを補う選手を選んでほしい。
 くれぐれも、エメやワシントンみたいに、
預けとけば何とかしてくれるフォワードを獲らないように。
 せっかく、維新になったのにまた江戸時代に戻っちゃいますから。

2件のコメント
2009.08.01

耳鼻咽喉科認定専門医試験その3


 前回、前々回からの続きです。
その1、その2を先にお読みください。
 さてそんなこんなでめでたく認定専門医になった私ですが、
次の年は、妻が受験となりました。
 まあ、同じ耳鼻科医で入局が1年違いですから、当然次の年に受験となるわけだ。
 その年、妻は2月に長男を出産。
これは、当初4月の予定日が、1月に破水しちゃったため
緊急入院、点滴など治療を続け、何とか無事出産できました。
 受験に必要な、症例数、学会発表などはすでにクリヤーしていたため
受験申請をし、子育てをしながらの受験となった。
 「すすんでる?」
 「子供の世話がねー。また、写真とっちゃった。」
 産休なので時間はあるはずだが、あまり受験生としての自覚がないようだ。
まだ、寝てばかりいる新生児の写真ばっか撮ってる。
 こっちは仕事は忙しいが試験終っちゃったので気が楽だ。
 「多分、神経の問題、ワレンベルグがでるぞ。」
 試験問題は記述と選択混合で、
大問は聴覚や鼻副鼻腔や、喉頭、咽頭の各分野から出題され、
鑑別診断や検査、治療について問われます。
 その中で、毎年必ず神経・筋疾患の問題が1問出ます。
これがなかなか難しい。
 ワレンベルグ症候群はヤマだと思ったが私のとき出なかったので、
今度は出そうだと。
「あー、ワレンベルグねー、やっとくか。」
 さて、試験は同じ8月の第1土曜日曜、東京です。
 今回は、別の問題がありました。
 長男です。
 2月生まれの彼は、まだ5ヶ月、しかも母乳です。
 私が車運転して行って、東京まで日帰りで2日間通う。
しかも、試験時間中は私が廊下で抱っこしていて、適宜オムツ換えなんかをする。
 そして、試験の休み時間におっぱい飲ませる、という離れ業を行い
何とか、試験を受けることができました。
「どうだった?」
「うん、ワレンベルグ、出た出た。バッチリできたよー。」
 そして、妻も無事合格しました。
まあ、オレのおかげだな。
 日盛りのビル街の街路樹で鳴いてるセミの声を聞くと
あの夏の日を思い出します。

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2009.08.01

耳鼻咽喉科認定専門医試験その2

 
 前回の続きです。
一つ前の、「その1」からお読みください。
 当時私は、総合病院の耳鼻咽喉科の科長をしてました。
 一緒に試験を受けるのは同期入局のヤジさんこと矢島先生。
 6年目になると、カルテやメモをひっくり返して5年間の研修記録をノートにまとめます。
それを教授のとこに持って行って確認してもらってハンコをもらい
耳鼻咽喉科学会に郵送して、それが認められれば、受験資格が得られます。
 春から、過去問の問題集とテキストをコツコツ始めます。
 ヤジさんは大学病院勤務のため、医局会や症例検討会なんかで顔を合わせるたび
「勉強やってる?」
「いやー、なかなか。」
と、お互いにけん制し合います。
 仕事の合間や、暇を見ては問題集をといたり、重要事項を暗記します。
医師国家試験から5年、年齢とともに記憶力は減退しています。
 「うー、覚えらんねー。」
 そして夏、ヤジさんと試験を受けに行くことになりました。
 試験会場は東京。
 金曜日の仕事が終わった後、前橋駅で待ち合わせて、
夜東京に向かいました。
 会場近くのホテルに宿をとり、一緒に食事をしましたが
「今夜は、飲まないでおこう。」
ということで、いつもは朝まで飲んじゃう二人が、早々に各々の部屋に戻りました。
 試験は2日間。
 初日が筆記試験で、2日目が口頭試問。
ヤジさんは東京に2泊したのですが、私はちょっとした事情がありました。
 当時私は、結婚したばっかり。
 そう、何とか自分が子供のころから見てきた「足利の花火」を妻と見たかったのです。
 そこで、妻には土曜日に前橋から足利の実家のほうに行っててもらって、
私は東京からいったん足利に戻り、また翌日東京へ、という強行日程を組みました。
 1日目の午前、午後の試験を受けて、夕方足利に帰ってきたのが
もう7時を少し過ぎたころでした。
 足利市駅をおりると、花火見物の人で大混雑。
みんな短パンや浴衣や、そういった格好なんですが、
その中をネクタイ、スーツ姿でカバンもって人を掻き分けながら中橋をわたります。
 当時足利の花火は、今よりかなり西より、ちょうど田中橋、中橋、渡良瀬橋の間で上げてました。
 駅から、私の実家までは最も混雑したゾーンだったのです。
「急がねば、花火が終わってしまう。」
 あえて、花火のほうは見ないで家へ急ぎます。
 あっという間に汗だくです。
 ドロドロになって家に着くと、彼女は浴衣を着て待ってました。
 私も用意しててもらった浴衣に着替えて、
「よーし、行こう。」と一緒に花火を見に出かけました。
 あー、オレも若かったなー。
 翌日、またスーツに着替えて(ちょっと汗でよれよれだったけど)
2日目の試験を受けに、朝早く、東京に向かいました。
 そして2ヵ月後、めでたくヤジさんとそろって認定専門医になることができました。
 ~実はその3に続く

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