ロックな耳鼻科:小倉耳鼻咽喉科医院院長、小倉弘之が日々思うこと。

2008.11.12

ロックな高校生リターンズ(第7話)

 そんなわけで、8月のある日、我々はKレコードの前に集まった。
 Kレコードは楽器屋さん部門が今でもあるが、場所は、今の場所ではなく、
本町通、足銀足利支店の並びの(今は足銀も友愛ホールになっちゃったけど)
現在のラーメン屋、Y貴楼の建物だ。
(ここは今もバンドの打ち上げで3時過ぎまで足利の街を飲み歩くと
最後にシメのラーメンを食べに入るとこなので、ロックな場所なのだ。)
 「いや、今年の夏は、あっついなー。」
 「受験の年に猛暑ってついてねーな。」
 1977年の夏は、確かに暑かった。
夏目雅子の「Oh!クッキーフェイス」で幕を開け、キャンディーズは「暑中お見舞い申し上げます」
と歌っていたし、「勝手にしやがれ」は「渚のシンドバッド」を蹴落として1位にかえりざいていた。
王貞治は、9月に達成することになる756号の世界新記録に向かって着実にホームランを重ねていた。(はずだ。)
 さて、Kレコードのスタジオは、店舗の2階にあり、多分倉庫かなんかを改造したものだ。
ドラム、アンプ、PAなんかが、雑然と並べられており、とても狭かった。
今の貸スタジオみたいなしゃれた雰囲気はなく、
ダンボールなんかもつんである狭い階段廊下を通って行った。
 「Oの工場より相当せまいなー。」
 「でも冷房あるからいいよ、暑いから早くエアコン入れろー。」
 「よーし、久々にいっちょやるか。」
 「スペース・トラッキンから行こうぜ。」
 ジャジャッ、チッ、チッ、チッ、ジャッジャッジャッ、ジャージャージャジャッ・・・
 おー、いい感じ、さてボーカルだ。
「We have o lot of lack in Venas~」
と歌いだしたとたん、急に音が切れた。
 「あれ、停電?」
 「別に、昼間だし、カミナリも鳴ってなかったぜ。」
 「おい、ちょっとO、お店の人に訊いてこい。」
 「わかった。」
 と、お店に下りていくO。
 「しっかし、エアコン切れると暑いなー。」
 「窓もねえしなー。」
 少しして、店員さんを連れてOが戻ってきた。
「あー、やっぱりダメかー、まいったなー。」
 「何なんですか。」
「いやー、ここんとこ暑いだろ。このエアコン結構電気食うのよ。
だから、アンプ、PA、キーボードまで全部使うとブレーカーがおっこっちゃうんだよねー。」
 「えー?!」
「だからさ、君たちさ、演奏中は、送風にしといてアンプ切ってから冷房にしてくれるー。
ウチのアンプ、チューブだから電気食うからさ。」
 そ、そんなー、殺生なー。
「じゃあ、そういうことで、がんばって、ごめんねー。」
と、店員さんは降りていってしまった。
 「おい、どうするよ。」
 「どうするったって、4時間分まとめて前金で払っちゃったし。」
 「やっぱ、練習しなくちゃなんないでしょ。」
 「しっかし、冷房なしだぜー、この真夏の暑いのに。」
 「しかたねー、やるかー。」
 というわけで、5分間演奏しては、アンプを切って全員でエアコンの前に張り付いて
体を冷やし、また勇気を奮い立たせてまた演奏をする。
 でも、すぐ暑くなってきて、
「(おい、アドリブのギターソロいつまで弾いてんだよー、早く終わりにしろよー、)」
という気持ちになってしまう。
 まるで、ガマン大会のような練習に、集中が続かず、結局あまり成果が上がらなかった。
 「あー、暑かった、まいったなー。」
 「あと、練習、どうするか・・・。」
 「うーん、金かけてこれじゃあな。」
 「後、何回か練習しないと。」
 「そうだ、学園祭の練習なんだから、学校で出来ないかな。」
 「学校でー?」
 「日曜日の、空き教室とか音楽室使わせてもらえば・・・。」
 「そうだな、学校行事だからな。」
 「よし、インドネシアに頼んでみるか。」
 さて、どうなるか。

 

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2008.11.11

ロックな高校生リターンズ(第6話)

 7月になった。
「おい、期末テスト、どうだった。」
「いやー、円運動の角速度ωの扱いでトチっちゃって。」
「あー、オレ文系だから物理Ⅱやらなくてすんで良かった。それよりオグラ、イミテーションって単語知ってる?」
「イミテーション?~tionで終わるから名詞だな。すると動詞はイミテイト・・・、知らんなー。
出る単にあった?」
「ふふふ、模造品、まがい物という意味だ。」
「おー、できるなーO、さすがだなー。」
「実は今度の山口百恵の新曲が『イミテーション・ゴールド』ってんで、覚えたんだ。」
「なーんだ、でも入試に出るかも。」
「それは、どうかなー。それよりバンド練習しないとな。」
そうそう、練習しなければ。
 ロック・ボックス以降、バンドとしての練習は、全くしてない。
「で、どこでやる?」
 そうなのだ。
われわれがかつて、練習場所として使っていた、O君ちの工場あとは、
ロック・ボックスが終わるまで、という条件で、近所に頼んで回ったので、
いまさらそこを使うわけには行かない。
「やっぱ、スタジオ借りるか。」
 当時、足利にはKレコードのスタジオしかなかった。
 1階は、レコード、楽器を売っていて、スタジオは、その2階にあった。
「金かかるけど、しょうがないな。」
「いつやる?」
「夏休みの補習が終わったらだなー。」
「あ、俺、夏期講習で、東京行くよ。」
「ギターのEもどっか行くらしいぜ。」
 何だ、みんな足利にいねーのかよ。
 そういや、俺も去年は東京の予備校に夏期講習に行ったっけ。
そもそも、ベースのOと一緒に行ったんだった。
 ・・・記憶は、ちょうど1年前にさかのぼる。高校2年、期末試験の近づくある日・・・
 俺の席の後ろのO崎が
「おい、オグラ、夏期講習どこ行くの?」
と、たずねて来た。
「カキコーシュー?おお、夏期講習、いや、別に。」
「何、行かねーの、俺、代々木ゼミだぜ。」
O崎は、俺と同じ国立理系だが成績がいつも俺のちょっとだけ上なので、やつが夏期講習となると、何か負けたくない。
(こやつは結局東工大に入った)
うーん、代々木ゼミナールか、有名だ。聞いたことあるぞ。
あわてて、そのまた後ろのO合に訊いてみる。こいつは国立文系で一橋大にいったやつだ。
「おい、O合、お前は夏期講習、行くの?」
「行くさ、駿台だよ。予備校としては最高だな。」
 その頃、受験オンチの私は、「駿台」の名前すら知らなかった。
(実はその後、大変お世話になっちゃうんだが・・・。)
「いや、俺も行きたいよ、夏期講習。どうすりゃいいの。」
「あのなー、今もう6月末だぜ、夏期講習なんかどこも締め切りだよ。
駿台なんか5月中に締め切ってるよ。」
「5月中にー?夏期講習をー?」
 あせった私は、前の席のO(あー名簿順だからイニシャルOばっかでわかりにくい、要するに
バンドメンバーのベースのOだ。)の、背中をつっつく。
「おい、お前、夏期講習は。」
「いや、俺はまだ申し込んでないよ。」
「(あー、よかった)もう、どこも締め切りかなあ。」
「でも、探してみよう、なんかあったら一緒に行こう。」
 てなことで、Oが探してきたのは「代々木学院」という、
名前からして、いかにもパチモンみたいな3流予備校だった。
 行くには行ったが授業も、学生もレベルが低かったので、ほとんどためにならなかった。
良かったことといえば、2週間の東京暮らしで、こっそり成人映画を見に行ったことくらいだ。
(何せ、当時はビデオなんか無かったし、っておいおい。
そーいや、成人映画とか、ピンク映画って死語だなー。)
 ともかく、3年生の夏は、駿台行くぞー、と、思ったものだ。
 ところが2年生の秋、親父が急に死んだため、
夏期講習で東京の予備校に行く、なんて経済的な余裕は我が家にはなくなっちゃったわけだ。
そこで夏休みは、学校の補習以外は(クーラーもない)自宅で勉強、ということになっていた。

 ・・・で、話は3年生の時点に戻る。
 「じゃあ、日を決めて、集中的に練習しよう。」
みんなの夏期講習が、微妙にずれてるので、夏休みのある日を、集中練習日に決めて
スタジオを、4時間ぶっ通しで借りて、練習することにした。
 「よし、それではそれまで個人練習ってことで。」
 「よーし、スペース・トラッキンの歌詞、覚えなきゃ。
  試験に出そうな、重要単語が入ってるといいんだけどなー。」
 「スタジオにこもる、か。なんかカッコいいぞ。」
 しかし、実は、これが、悲惨な結果を招くのである。

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2008.11.10

ロックな高校生リターンズ(第5話)

 企画書を作って、3人で職員室のF先生をたずねた。
「ロックやフォークなど、ポピュラー音楽に親しんで学生間の、交流や親睦を深める」
・・・実際、何て書いたかは覚えてないが、ロック・コンサートを認めてもらうために、
まあ、適当に文句をでっち上げて、それらしい、企画書を作成したわけだ。
 「まあ、そんなわけで、F先生にひとつ顧問として、お名前を、貸して頂きたいわけです。」
 しばらく、黙ってその企画書を繰り返し、読んでたF先生。
おもむろに顔を上げて、我々の顔を眺め渡したあと、口を開いた。
「じゃあ、君たちはゴーゴーみたいなことがやりたいわけ?」
「・・・!?」
「だからー、ゴーゴーパーティーみたいなのをするのかな?」
「・・・え、ゴーゴー、・・・ですか?・・・いやー、ゴーゴーって・・・。」
 こいつ、何歳だ?そもそも今、昭和何年だ?
 確かに昭和40年前後、ベンチャーズなんかのいわゆる”エレキ”の音楽に合わせて
踊るような、「ゴーゴー」っていうのがあって、「ゴーゴー喫茶」なんてのもあったらしい。
しかし、その当時昭和53年頃にあっては、ゴーゴーなんてすでに完全な「死語」だった。
 うーん、やはり氏家高校だ。こいつに頼んだのは間違いだったかも。
しかし、こいつ東京で4年間、一体どんな暮ししてたんだ?
「いやあの、ロックのコンサートで、みんな聞いていただくわけで、
踊る人は、絶対いないとはいえないけど、多分みんな聴いてるだけだと思います。」
「別にただの、コンサートなので、風紀上問題になるようなことはありません。」
「いや、先生にはお名前をお貸しいただくだけで、
そのほか、一切ご迷惑をおかけするようなことはありませんから。」
 どうも、気軽に引き受けて、何かあとで自分に責任がかかることになると困る、という
態度が見え隠れしたので、我々は口々に訴えた。
 そして、あれこれ説得して、何とか企画書にハンコをもらうことに成功したのだった。
「いやー、しかし、あの態度、やっぱ、あいつも小物だな。」
「しょせん、大人なんかあんなもんだよ。」
「それにしても、”ゴーゴー”にはまいった、一瞬何のコトかわかんなかったぜ。」
「オレもだよ。びっくりしたよ。」
「今どきゴーゴーはねえよなー。」
「でも、これで、コンサート出来るな、良かった、良かった。」
 ところが、事はそう簡単には運ばなかったのだ。

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2008.11.09

セル、セル、セル!

 すでに降格、最下位が決定した札幌。
あー、札幌のアウェイ・ゲーム行きたかったなー。
実は、J2時代も一回も行っていない。(そーいや、J2ん時は一回も勝てなかったなー。)
1年で、J1に帰って来てね。
今度は、石狩ナベ食いに行くから。


 2008年J1第31節 
  コンサドーレ札幌   1-2  浦和レッズ  (札幌ドーム)
         (前半  1-1)
         (後半  0-1)


 などと、悠長なことを言ってる場合ではない。
もう、全勝しか許されない残り4試合だ。
 さて、フォーメーションをみてびっくり。
セルがスタメン!4バック!!
 先日の愛媛戦の勝ったあとのブーイングは賛否両論だが、
あの場にいた者としては、自然な感じだった。
 それが、効いたかどうだか、今日は選手の動きはいいようだ。
よくプレスが効いて、パス・スピードも速い。
 何よりも、セルヒオ!
今までの彼のプレーの中では間違いなく最高の出来。
ドリブル、パス、プレス、運動量、体キレてるぞ。
細貝が抜けてパワーダウンが懸念された中盤を、見事に活性化してる。
 達也も、闘莉王のボランチも機能していた。
 ただ、問題点は依然多い。
 札幌はこれしかないとわかっていながら、ダヴィのカウンターにやられるってのはお粗末すぎ。
エジミウソンの、決定力不足も相変わらず。
4バックにしても、相手が札幌だったから何とかなったようなもので、
組織的に攻撃してくるチーム相手では、かなりの不安。
 しかし、勝つことによってチームのムードが良くなり、
歯車がいいほうに回りだす、ということはある。
新潟、愛媛、札幌と、格下のチームといいスパーリングをこなし、
3連勝したことで、最後の正念場、清水、ガンバ、横浜と力のあるチームとの終盤戦を勝ち抜けるか。 
 そして、そして何と今節、名古屋、川崎、ガンバが負け、鹿島、大分が引き分けたので
単独2位、首位との勝ち点差「1」という、予想だにしなかった状況になった。
 ガンバはここはACL優勝してもらって、もうごちそうさま、ってことで失速して欲しい。
清水も、もうACL圏内はないから、勝ち点なくてもいいでしょ。
マリノスも残留決まれば、もういいよね。
 キイプレーヤーは、細貝、相馬、達也、永井だと思ってるんだが、
ここに来てセルヒオにもグーンと期待が高まった。
あとは、ポンテのコンディション・アップと闘莉王のフィジカル、メンタルだ。
 あー、代表戦、よけいだなー。
マリノスとの天皇杯もあるのか。これは勝っといてもらわんと。
 最終節で鹿島が札幌に負けて、昨年のウチみたいになる(涙)事だって、
絶対ない、とはいえないよねー。 

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2008.11.07

ロックな高校生リターンズ(第4話)


「・・・このように『寺田の鉄則』を用いれば、かんたんです。では、諸君、がんばって勉強してください。」
「以上で、旺文社ラジオ講座、寺田ブンコー先生の数学Ⅰを終わります。」
うーん、また解き方間違っちゃった。数Ⅰも受験問題になると結構ムズカシーなー。
 ・・・と、言ってるうちに
「セーイ、ヤァーン」
と、セイ・ヤングが始まってしまう。
「ジャン、ジャーン、チャカポコチャカポコ・・・よーあけがー来る前にー・・・」
あー、バンドもやりてー。
 と、いきなりギターを持って弾いてみたりする。
もちろん深夜なんでアンプにはつながないから、ペンペンペンてな感じなんだけど・・・。
 今はまだ6月だが、足高祭が行われるのは11月、
受験生にとってはもう、追い込みをかけ始めるころだ。
特に、我々の世代はいわゆる旧制度、国立1期校、2期校の最後の年に当たり
翌年から共通1次試験(現在のセンター試験の前身)が始まることが決まっていた。
 浪人すると制度が変わって大変なので、
そのために、何とか現役で大学にもぐりこもうと、受験戦争は過熱していた。
 同じ5組のベースのOに、まず話を持ちかける。
なんせ、こいつとは席が前後だ。
「いや、だからEの奴は、もうギター閉まっちゃって、入試終わるまで弾かないって言ってるぜ。」
「でもさ、高校生活で一回きりの学園祭じゃん。バンドやろうよ。お前はどうなんだよ。」
「いや、俺は、どうしてもだめってことはないけど・・・。」
「よし、じゃあ、2人でEを説得しよう。」
「あ、ああ・・・。」
 というわけで、まず押しに弱いOを丸め込み、二人で何とかEも説得し、ドラムの I にもOKがとれて、
学園祭出るってことで、話がまとまった。
意外と、かんたんだった。
 「まずは、企画書と顧問だな。職員会議通すには、顧問を立てないと。」
「顧問たって、先生でロックわかる奴なんかいねーぜ。」
「あ、あいつどう、英語のインドニージャン。」
「あーインドニーチャンかー、なるほど・・・。」
 インドニージャン(またはインドニーチャン、インドネシアともいう)ことF先生は
今年、大学を卒業して赴任した英語の教師だ。
挨拶のとき、出身大学が東京外語大ということで、
生徒はいっせいに色めき立った。
何せ進学校の生徒は、大学のブランドに弱い。
ところが、外語大だが学科は英語科ではなく何とインドネシア語科ということがわかって、一気にテンションが下がった。
(自分たちは、決してそんなこと言える身分じゃないくせに・・・)
それで、ニックネームでインドネシアまたはインドニージャン(インドネシア語、インドネシア人の意)
と呼ばれるようになったのだ。
 新任の若い先生なので、
「僕と一緒に勉強しようっ。」
みたいな青春ドラマ的なノリ(錯覚?)があって、
しきりに、「僕は若いから君たちの気持ちがよくわかるんだ、」という雰囲気を作ろうとしていた。
 ビートルズの歌詞を、教材に取り上げたり、
FENやポピュラーミュージックのことを話題にしたり、それなりに努力していたが
俺たち高校生に言わせると、
「20歳過ぎてて、しかもネクタイなんかしてる奴は、みんな向こう側の人間だ。だまされちゃいけねえ。」
みたいな意識があり、あまり信用してなかった。
 あるとき授業で
「これは”not~but”の構文だねっ。
ほら、君たち、スタイリスティックスの歌にあるだろ、
”I can’t give you enything but my love”.この”but”の使い方だよ。
スタイリスティックス、知らないかなあ、あの女性ボーカルの。」
・・・いや先生、スタイリスティックスくらいよーく知ってますけど
あのグループ、女性じゃなくて、男性がファルセット(裏声)で歌ってるんですけど。
と、いおうと思ったがやめといた。
 やっぱ、氏家高校じゃあ、そんなもんか、底が見えたな。と、思ったものだ。
(後に彼の出身高校は氏家高校だということが判明していた・・・。
いや、別に足高だって、相当イナカの高校なんすけどね)
 「・・・インドネシアかー、何となくビミョーだな、あいつ。」
 でも、ほかにこれといった候補もない、
「よし、じゃあ、企画書作ってインドニージャンのとこに行ってみっか。」
 さて、ともかく、学園祭ライブに向けて前進を開始した我々であった。

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2008.11.06

ロックな高校生リターンズ(第3話)

 
 さて、バンド活動からは遠ざかっていたが、ロックは相変わらず生活の一部だった。
受験生といえども、ロックなくしては暮らしていけない。
 主な情報ソースはFMラジオであったが、ロック好きの友人とレコードの貸し借りは良くやっていた。
特に、ロック・ボックスの時、ロンドンブーツを貸してくれたTは、ロックのレコードをいっぱい持っていた。
ロバート・プラントみたいにクルクルの長髪(当時ロン毛なんつー言葉はない)で、
おまけに茶色に染めていた。(茶髪っていう言葉もないよ、くどいようだけど。)
足高、校則ゆるいなー。
「おー、『エクソダス』、よかったよ。サンキュー。」
借りていたボブ・マーリーのレコードをTに返す。
CDと違ってLPは、でかいから持ち運びが大変。
学生カバン(ペチャンコでステッカーべたべただった)は、自転車の荷台に縛りつけ
レコードは前のかごに入れるのだが、斜めにしか入んなくて
片手で抑えて自転車こいでた。
「なあ、レゲエ、いいだろ。今度、サンタナも貸そうか?」
「いやー、サンタナはなー・・・。」
こいつはサンタナの大ファンだった。
「そりゃそうと、オグラ、足高祭、なんかやんの?」
「何かって・・・。」
「バンドだよ、バンド。」
 うーん、そこだ。
私が通ってた足利高校は、学園祭、体育祭、球技大会が3年周期でローテーションする。
つまり学園祭って3年に一回しかないのだ。
しかも、我々の学年の場合、3年生で学園祭が回ってくる。
1年生の時、体育祭で2年、3年の先輩にあれこれ言われ(縦割りのクラス対抗なのだ。)
花の2年生の時に、どーでもいい球技大会があり、
一番盛り上がる学園祭のときに、大学受験準備でろくに参加できない、って言う最低のめぐりあわせなのだ。
「それじゃあ、T、お前は、やんの?」
「いやー、俺とこのバンドは、だめだなー。
それより俺はレコード・コンサートをやる。題して『アフリカン・ミュージックを考える会』だ。」
「アメリカン・ミュージック?」
「アフリカン・ミュージックだよ、オグラ、やっぱロックのルーツは黒人だよ。アフリカだよ。
ボブ・マーレイ、サンタナ、アース・ウインド・アンド・ファイヤーだよ。
みんな、アフリカにルーツがあるんだよ。」
「うーん、オレはやっぱりブリティッシュ・ロック派だなー。」
「そっかー、でもサンタナいいぞー。
ライブ盤の『ロータスの伝説』な、1曲目なんて『瞑想』ってタイトルで1分間だまって瞑想してるから音楽、全然入ってないのよ。
すげーだろ。」
 どこがすげーかわからんが、ビデオならともかく音楽はいってないレコードつまんないだろーよ。
なんか損した気がするぞ。(もちろん、当時家庭用ビデオなんかないわけだが)
 俺なんか、レコード買うときに裏に書いてある演奏時間を合計して、
少しでも長い方を買ったりしたものだ。
セコイちゃあセコイが、レコードなんか、おいそれと買えない身分だった。
特に親父が死んでからは、小遣いは半減し、ロック雑誌等も買えなくなった。
LPなんか当時1枚2500円くらい。
今より高い!
 しかし、Tの奴はロックオタクだねー。
アースなんてその後有名になったけど、当時はまだまだマイナーだった。
アフリカン・ミュージックもその後、ピーター・ガブリエルやトーキング・ヘッズが
アフリカン・ビートを取り入れるのはこの話の3年後くらいだから
T君は先見の明があった、というわけだ。
 さて、それはともかく、やっぱ学園祭っつたらバンドだよなー。
高校生活で、唯一の学園祭、ここで演奏したいなー。
女の子も来るしなー。
いっちょ、メンバーに声かけてみっか。

3件のコメント
2008.11.05

ロックな高校生リターンズ(第2話)

 「おい、オグラ、傾向と対策、もうそろそろ出るぞ。」
「蛍光灯大作?なんじゃそら。」
 それにしても高3になって、ベースのOの奴は変わった。
 こないだまでは、口を開くと
「フェンダーのな、ベックとかクラプトンの持ってるストラトはヘッドが小さいんだ。
オールドなんだぜ。リッチーやジミヘンのは、現行タイプなんだ。」
とか
「今度クリエイションに参加したフェリックス・パパラルディは元マウンテンなんだけど
クリームのマネージメントやってて、4人目のクリームと呼ばれてたんだぜ。」
とか
「ジェフ・ベックが邑楽村でレコーディングしたアルバムはなんでしょう、答えベック・オラ、なんちゃって。」
なんて、ロックの話しかしなかったのに、
高3になったとたん
「おい、オグラ、『ラ講』始めた?」
「何、ラコウって?」
「旺文社のラジオ講座だよ。文化放送で11時半から12時半まで。」
「あー、オレ12時半からのセイ・ヤングから聴いてた。」
あわててテキストを買いに行って、5月から聴き始めました。
(ちなみにラ講の前、午後11時からは『ハリスの100万人の英語』をやってました。)
 また、
「おい、オグラ、デル単、もう買った?」
「何だ、デルタン?」
「試験に出る英単語だよ,青春出版だよ。赤尾の豆単なんか、もうだめだぜ。」
「いや、俺、豆単も持ってないけど・・・。」
 「試験に出る英単語」は英単語が出題頻度順に載っていて、やったとこまで役立つという
画期的な本だった。
それまでは旺文社の「赤尾の豆単」というのが受験生のバイブルだったわけだが
単語がABC順なのでアルファベットの後半の単語ほど記憶があいまいになるという欠点があった。
豆単では、
最初の単語は
「a:不定冠詞、(意)一つの~、一人の~、ある~」
で、これは、すぐ覚えられるんだけど、2つ目の単語が
「abandon:動詞、(意)やめる、すてる、あきらめる」
なので、ここでかなりの人があきらめてしまう、という指摘があったりする。
 ともかく、Oの奴、ロック小僧があっという間に、熱血受験生になっちゃったのだ。
Nちゃんとうまく行かなかったので、勉強の鬼となったのか。
でも、情報通なとこはロック、受験勉強を問わず相変わらずで、
受験勉強オンチの私はずいぶんと助けられました。
 「O、お前勉強家になったなー。」
「当たり前じゃん、ギターのEなんて、もうギターをケースにしまってカギかけて
来年の春まで、弾かないらしいぜ。」
「何、マジかよー。」
「おお、んでロックのレコードも、聴かないって。」
「ロックのレコードも!じゃあ、片平なぎさは?」
「それは、たまに聴くらしい。」
「なんじゃ、そりゃー。」
 まあ、バンドは、もうできないなー。
でも、オレはレコード聴いちゃうもんね、ギターも気分転換ならいいじゃん。
などと思いつつ勉強の合間、ロック仲間とレコードの貸し借りは続けていた。

2件のコメント
2008.11.05

ロックな高校生リターンズ(第1話)

 
さて、先日「ロックな高校生」として、私が高校2年生の時のバンド活動を
ほぼ実話で、小説化しました。
これが(一部の読者に)かなりウケたので、
今回、その続編として、私の高校3年生の時の出来事を、ノン・フィクション・ノベラライズしてみます。
その後の、ロックな高校生の活躍に、ご期待ください。
我々、「アースバウンド」のメンバーは、3年生になっていた。
 その後バンドは、練習もしてない。
 受験かー。そろそろ勉強もちゃんとやんねーとなー。
そんな、ある日ギターのEが、俺と、ベースのOのいる5組の教室まで来て声をかけた。
「放送部の部長のOの奴がさー、俺たちにDJやってくれっていうんだよー。」
「何、ディスク・ジョッキー?どこで?」
「お昼の校内放送。」
「何だ、校内放送かよ、でも、おもしれー、やるか。」
 ロック・ボックスが終わって、我々はちょっとした有名人だった。
運動部もあまり盛んでない、進学校では、バンドやって市民会館出たなんて、前代未聞である。
 んで、お昼の校内放送、それまではどーでもいーよーな
イージーリスニングや映画音楽なんかがかかってたのだ。
それも、日替わりランチのようなメニューの少なさで
毎週毎週同じ曲。
ポール・モーリアとレイモン・ルフェーブルとカラべり・オーケストラのヘビーローテーションだった。
 当時は、深夜放送なんかの全盛期でラジオはみんな聞いてた。
DJというのは、今みたいにレコードをシャカシャカするヒトのことではなくて
軽快なおしゃべりに乗せてかっこいい曲をかけるヒトのことで
結構あこがれたもんだ。
 「番組のタイトルはどうする?」
 「ロック・ジョッキーは?」
 「ダセーよ、まんまじゃん。」
 「なんか、ロックのさ、曲のタイトルからとらない?」
 「お、いいねー、そーしよう。何かいいのあるかなー?」
 「”天国への階段”は?」
 「バカ、それじゃ、お悔やみコーナーみてえじゃねえか。」
 「”21世紀の精神異常者”は?」
 「そりゃ、さすがにやべーだろ。皆さん、お待たせしました、
  21世紀の精神異常者です、なんて。やっぱ、英語のタイトルがいいな。」
 「じゃあ”ブラック・ナイト”。」
 「あのなー、真っ昼間の校内放送だぞ。何でブラック・ナイトなんじゃ。」
 「うーん、”ロック・ステディ”は?」
 「おー、いいねー、それっぽい、それでいこー。」
 というわけで、番組タイトルは私の意見が通ってバッドカンパニーの曲から
「ロック・ステディ」に決定。
番組テーマはレッド・ツェッペリンの「ロックン・ロール」に決まった。
 かくして、記念すべきロックステディの一回目、われわれ3人は放送室に集まった。
「おい、部長、職員室は、切っとけよ。」
「あー、わかったわかった。」
 さて、テーマソングの「ロックン・ロール」のドラムのイントロが始まる。
 
”ずだだ、ずだだ、ずだ、ずだ、ずだだだずだだ(感じ、伝わってる?)”
「こーんにちはー、ローック・ステディーの時間でーす。カッコいいロックの曲を
ガンガンかけますよっ。」
「それでは、最初の曲、ツェッペリン待望のニューアルバム、”プレゼンス”から
”アキレス最後の戦い”、いってみよー。どうぞー。」
(何か、今や書いてても恥ずかしいが・・・。)
そこで部長にキューを出して曲に入る。
曲になると、ホット一息。
「お、いいじゃんいいじゃん。」
「気持ちいいな、DJも。」
「何か、プロっぽいよな。」
(若者は、怖いもの知らずである。)
で、曲を聞いてると、放送室のドアをノックする音。
誰かと思ったら、数学のN先生。
「(栃木弁で読んでください)もしもーし、職員室はー、すまんが音、しぼってくださいー。」
「えっ、ハイ、いや・・・、おい部長、だって職員室は・・・。」
「ああー、まじい、ボリューム、逆に10になってるー。」
一同「す、すいませんでしたー。」
 そんなこんなで、出鼻をくじかれたロック・ステディは程なく、打ち切りとなってしまった。
まあ、優しいN先生でよかった。同じ数学でもK先生なら、どやされてたなー。
(ちなみにN先生は、現在市内で内科小児科を開業しているN先生のお父上で、
私、この当時このお父上の塾で数学教わってたのだ。)
 しかし、あー、やっぱ、DJよりバンドやりてーなー。
俺たちは、そんな思いにかられるのだった。

2件のコメント
2008.11.03

光明は見えず

 勝ったけどブーイングでした。


 第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会 第4回戦
   浦和レッズ   1-0   愛媛FC  (さいたま市駒場スタジアム)
      (前半   0-0)
      (後半   0-0)
     (延長前半 1-0)
     (延長後半 0-0)


 へー、愛媛FCって、オレンジがチーム・カラーだっけ。
愛媛ミカンの色なんだ。
じゃあ、もし、J1上がってきたら清水エスパルスとは「ミカン・ダービー」かい。
 ・・・なんて、ノンキなこといってる場合じゃありません。
愛媛FCていや、去年の天皇杯で負けて、赤恥をさらした相手じゃないすか。
あんときゃ、セパハンに勝ってACLを取り、
その週末にも清水に勝ってリーグも決めよう、としたが決められず、
ちょうどいい、ホームでアントラーズに勝って気持ちよく決めよう、としたら、負けちゃって
(わざわざ休診にして行ったのに・・・。)
おいおい、大丈夫?なんていってるうちに天皇杯初戦でJ2の愛媛に0-2でやられちまった、
あの愛媛じゃん。
(その後、さらに降格の決まってた横浜FCにも負けてリーグ優勝逃したたわけだが・・・。)
 今年、京都戦行かなかったので、あの夜以来の駒場か・・・・。
あんときゃ、目の前で起きてることが信じられなかった。
そーいや、行く途中渋滞を避けて回り道したら、道に迷っちゃったんだ、確か。
散々だったなー。
 さて、今年の天皇杯。
 Jリーグ浦和レッズの開催ではないので
スポンサーの看板は布で覆われ、
朝井さんの、直前情報も、岩沢さんの選手コールもない。
(あの天皇杯のアナウンスのバスガイドみたいな声のお姉さんはここんとこ毎年同じみたいなんだけど何者?
まさか、白石冬美さんじゃないよね。)
相変わらず、天皇杯独特の雰囲気に包まれたスタジアム。
 しかし、それだけではない重苦しい空気が、聖地駒場を包んでいた。
 単に日曜日のせいなのか、試合中継がないせいなのか
やはり、今のレッズに危機を感じてるせいなのか、いつもの年よりお客さんは多いみたい。
 そして、試合のほうは・・・・。
 戦術がなく、個人の力で打開するチームは、その個人が力を発揮しないとキビシイ。
 ポンテのパフォーマンスは、怪我から復帰後全然上がってこない。
最初は、そのうち、と思っていたが、ここ最近はかえって低下してるみたいだ。
 キックの精度、ボール・キープ、展開力、どれを取っても昨年のレベルに遠く及ばない。
本人もそれを感じてか、イライラが伝わってくる。
 平川、啓太あたりもパッとしなかった。
啓太のパフォーマンスは落ちてますね。もともと読みと運動量で勝負する選手が今は両方ダメ。
坪井も上がるのはいいが、クロスとかパスとかもっとナントカしてよ。
 しかし、何やりたいかまったくわからないですね。
1つでも2つでも決め事をつくったらいいのに。
あ、ひとつあるか、とりあえずポンテに預ける・・・。
 一方、達也の動きに触発されて、エジは前半よく動いてたと思う。(最後はダメだったけど)
細貝は、良かったですねー。中盤の運動量、危機回避、攻撃参加などピカイチの動きでした。
しかし、あの報復はダメです。
確かに汚いファウルだったが、あれやったら相手の思うつぼ。
お前は、オークボか!(アルパイって人もいたなー。)
前々から細貝のラフプレーは気になっていたが、これがなくなれば代表入りなんだが・・・。
 都築は良く防いでました。結構、やばいシュートもありましたなー。
 さて、90分でも、延長でも(PK戦でも)カップ戦は勝ち点があるわけではないので
結果は同じなわけだ。
 しかし、試合後のブーイングは・・・・。
 私の考えとしては、延長でリードしたあとのロコツな時間稼ぎ、
戦う姿勢の見えないサッカーがサポの不満を生んだのでは。
延長前半から、コーナーフラッグんとこいってましたからね。
 そういう戦い方もないわけではないが、やはりJ1の上位を争うチームが
もらったPKの1点にしがみついて、2部のチームに対して取る戦術としてはお粗末過ぎる。
しかも「ホーム」で。
「プライド」を感じないんだよなー。
 あくまでも、集中を切らさず、追加点を貪欲に取りに行く姿勢があれば、
そしてナンカ次につながる光明が見えれば、
結果的に1-0で終わっても、心から拍手を送れたと思う。
しかも、今チームを立て直すために、リーグ戦再開までにいろいろ戦術を試す必要があるでしょ。
(いや、実際は今試してるんじゃホント遅いんだけど、でも、ナントカしなくちゃ。)
 今年も元旦は空けてあります。

 

2件のコメント
2008.11.01

耕さない農業

 先日、NHKのテレビ番組で「不耕起農法」を始めた岩澤信夫さんの話を紹介してました。
 「不耕起農法」とは、田んぼを一切耕さないで、稲を作る農法のことです。
 岩澤さんはこのメリットを発見し、長年にわたって広く日本全国に指導している方らしいです。
 そのポイントとは
「耕さないことによって、稲の本来持っている生命力を十二分に発揮させることが出来る。」
ということだそうです。
 簡単に言うと稲が野生化し、根が強く張るようになり、台風などの災害に強く
また冷害などの気候の変化にもダメージを受けにくい。
最初のうちは、確かに収穫効率が悪いが、やがて従来と同程度の収穫が得られる。
害虫に強く農薬が少なくてすむので、環境にも非常によろしい、というものです。
不耕起農法の田んぼには、タニシなんかがいっぱいなんだそうです。
 しかし、最初は「田んぼを耕さないで大丈夫なのか?」「農薬を使わなくて大丈夫なのか?」
と、一般には受け入れられず、ずいぶん苦労されたそうです。
 それが、1993年の冷害の年、従来の稲がほとんど穂をつけなかった一方、
不耕起農法の稲は立派に穂を実らせていたそうです。
 私はこの番組を見て、うーん、このジジイ、やるなー。と大変感動したのですが、
ふとあることに気づきました。
 ・・・ナンカ、この話、昨日の抗生物質の話にちょっと、似てませんか。
 人間は本来、免疫力といって、病原体に対して戦う力を持っています。
そういう力を獲得することによって、何百万年も生き抜いてこられたのです。
 そして、個人個人は生まれてから、いろいろなこの世の病原体と自ら戦うことによって
その免疫を獲得していくわけです。
小さいとき風邪を引いて熱を出しても、それによって経験値が上がり
病原体に対して、戦う武器を手に入れられるのです。
 人間は、本来治る力がある。
だから、お医者さんは病気を治してるのではなく、治る道筋を示すに過ぎません。
 その治癒力を発揮できる状況を作ってあげるのが、医者の仕事でしょう。
 それを、いらない抗生物質を使い続けたために、返って薬の効かない耐性菌をつくり
病気の治りを悪くしてる、なんてバカみたいです。
田んぼは耕さなければいけない、発熱には抗生物質を使わなければいけない、
という、誤った妄信が、稲を、人間をかえって弱いものにしてしまった。
 稲なら、まだ毎年造るからいいけど、人間の体はつくり直しが利きません。
 人間は、自然を自分の都合よくコントロールしようとすると、必ずしっぺ返しを食うようです。

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